第10話

 去っていく橋本を止めようとはしなかった。最後の最後までバエルは彼女に提案を持ちかけていたが、結局失敗に終わった。


 バエルの思惑は清潤高校に敷かれたスクールカーストを廃止することではない。彼はソロモン王の命令により人間界の潜入及び視察を任務としているが、その実はオタク的文化の研究である。しかしそれは、バエルにとって二の次の話であった。彼は数時間前までオタク的文化の調査に没頭するつもりでいたが、清潤高校に潜伏してすぐに、高等学校の生徒らの悪習に好奇心を抱いたのだ。


 これはソロモン王の意思に反するものではあるが、この点においてバエルはさほど問題視していない。率先してオタク的文化を調べる必要性は無いからだ。高等学校の生活を軸としつつ、おまけ程度にアニメや漫画といった文化を知っていけば良いという判断である。バエルはこれを、王の逆鱗に触れる行為だとは捉えていなかった。

 彼がスクールカーストにやや執着しているのには理由がある。それは彼自身がソロモン七二柱という階級の身分に位置する者であり、尚且つ彼こそがその頂点に君臨するからだ。つまり、階級制度の上に立つ者として、清潤高校のスクールカースト制度は興味深い題材であった。人間如きのルール、という見下した前提はあっても、いち生命体としてそれを観察する分には面白い発見を得られそうだし、人間界について学ぶ機会にしては打ってつけであろう。


「……しかし、そうか……闘争心というものを奴は持ち合わせていないのだな」


 バエルはぼそりと呟いた。

 彼にとって想定外であったこと、それは橋本愛華が反抗心を露わにしないことであった。ターゲットという身分に置かれ、学校生活では嫌がらせを受ける毎日であるのにもかかわらず、それを悲しむことはあっても現状を変えようという意志は見られなかった。


「良い人材になると思ったがな……」


 人間界に来てまだ一日も経っていないが、そんな僅かな時間の中で出会った橋本愛華という人間は、清潤高校のスクールカースト制度という面白そうな代物と深い関係にあるという点で、バエルにとって観察しがいのある存在であったのだ。

 だが橋本愛華は、自身が被虐者であることを肯定し、それを受け入れる覚悟は無くとも耐え忍ぶだけの精神を持ち合わせて居た。


「…………ふむ」


 橋本の姿は彼の視界から消えていた。もうすでに下校したのだろう。

 バエルもこの学校を出ようと考えた。人間界に来たのだから、教育機関に限らず他の文化や施設も見学しよう――と、


「おい」


 バエルは歩き出そうとしたが、それを遮るように背後から男が声を掛けてきた。


「……ん?」


 顔を後ろに向けたバエルが視認したのは、一人の男子生徒だった。

 バエルはそれが誰なのか瞬時に把握した。彼の記憶の片隅にあった、一年三組の教室の映像から、遠くの席に座る橋本愛華をチラチラと見つめることの多かった男子生徒の姿が抽出された――そしてバエルは、その者の名を名札等で記憶していた。


藤林ふじばやし……だな」


 バエルがそう言うと、名前を呼ばれた男子生徒――一年三組所属の藤林ふじばやし明彦あきひこは面食らった。


 だがすぐに険しい表情へ変えると、やや強い口調で問いかけた。


「お前、橋本とどういう関係なんだよ?」


 ツーブロックを入れた短髪の頭、整った顔立ちではあるものの細く鋭い目付きのせいで強面の印象を与える――藤林明彦は、苛立っている様子だった。


「なんだ、いきなり」


 バエルは振り返り、眉の八の字に変えた。


「編入初日のくせに、ずうっと橋本と喋ってるよな? それに俺らのクラスのクイーンに喧嘩売るような真似もして……。一体何企んでる?」


「……何故お前がそれを聞く?」


 バエルは首を傾げた。


「誰だって聞きたいだろうよ。だから俺が聞いてんだ。アウトローが橋本に何の用だ? 告白でもしたのかよ?」


 ぶっきらぼうな物言いをする藤林を、バエルは呆れた目で見ていた。


「彼女をチラチラ盗み見るような奴に、何を答えろと言うのだ?」


 バエルの答えに、藤林は少し動揺を見せる。ピクっと眉が痙攣するように動いた。それを誤魔化すように咳払いをし、


「わけわかんねーこと言うな」


 と否定した。


「いいか、橋本に近づくな」


 唐突に藤林がそう告げた。


 バエルは「ほう」と物珍しそうな目で藤林を凝視した。


「お前、知ってんのか? あいつは……」


「ターゲットであるという話か?」


「そうだよ。知ってるなら、わかるだろ? 茶化すようなこと、すんじゃねーよ……!」


 先程まで語気を強めていたが、次第に弱まっていく。


 藤林はもっと何か言いたそうであったが、結局口を開くことなくバエルの横を過ぎ去ろうとした。

 ふと、バエルは何かを思い出した。それは先程、橋本に聞き出そうとしていたことだった。


「ああ、待て、藤林明彦」


 バエルがそう言うと、藤林は無言でこちらを振り向いた。


「この学校の、スクールカーストという制度。階級制度というからには、当然上下があるわけだが、その中でも、頂点に立つ者は誰になる?」


「はあ? なんだいきなり……」


 思いもよらない質問を投げかけられた藤林は、数秒ほど怪訝な顔を向けつつも、やがてぶっきらぼうに応えた。


「そりゃ、生徒会長に決まってるだろ」


 そう言って藤林は遠ざかっていった。


 バエルは「生徒会長」というワードを頭に刻む。


「なるほど……」


 スクールカーストの頂点。

 バエルが興味を湧かない訳がなかった。



◆◆◆



 バエルは校内を出ること無く、生徒会室へと足を運んだ。

 生徒会室と記されたドアの前に立つバエル。

 コンコン、とドアをノックして開いた。


「生徒会長はいますか?」


 とりあえず丁寧な口調を心がけることにした。相手はスクールカーストの王。今の自分はルーザーズである故、下手な行動は慎むべきだろう。


 だが、その先にあった光景は殺風景な一室と、そこに一人たたずむ女子生徒のみであった。


 おっとりした表情、髪は二つ結びで肩にさげている、背伸びをぴんと伸ばした状態で椅子に座り、ブックカバーの施された文庫本を黙読している。


 突然の来訪者に彼女はビクッと肩を震わせたあと、慌てた様子で席を立ち、


「こ、こんにちは。あ、こんばんは、かな。もう五時過ぎてますもんね」


 と動揺しつつ挨拶を返した。


「突然すいません。生徒会長に用事があって来たのですが……」


 バエルは淡々と述べる中で、目前の彼女が目当ての人物なのか? と内心で疑っていた。


 一方、リーゼント頭の生徒が丁寧な口調で突然現れた事に、彼女――村田水穂は驚く他なかった。


「えと……会長はもう帰りましたよ」


 少し怯えた様子で、両手を握り締めながら応える村田。


「ああ、そうですか」


 残念そうに話すバエルは、この一室に居座る彼女の正体が気になっていた。


「ところで貴方は……?」


 と、問いかけるバエルと同時に、


「あのぉ……貴方は……?」


 と、村田水穂も質問を投げかけていた。


 お互いに言葉が被ってしまう。


「ああ、ごめんなさい! そっちからどうぞ」


 と慌てて両手を振って頭を下げた村田は、続けて、


「あ、えと、私? 私は副生徒会長の村田水穂です。……それで、貴方は?」


「今日この学校に編入してきました。馬場得太郎です」


「き、今日編入してきたんですね……!」


(すごくビミョーな時期にやってきましたね……)

 と、村田は内心で呟く。


 馬場得太郎が編入してきたのは六月末。長期休暇明けではなく、むしろ長期休暇前の時期にやってきたことは不思議でならなかった。


「生徒会長にはいつ会えるのでしょう?」


 バエルが問う。


「あ、えと……明日また生徒会室に来てくれれば……会えます。そう……ね……昼休みにでも来れば会えると思います。生徒会のメンバーはみんな、昼休みは生徒会室で食事をとるので」


「そうですか。わかりました」


 バエルは一礼して、生徒会室を出た。

 スクールカーストの頂点を目にすることは出来なかったが、非常に興味深い話を聞いた。


 廊下を歩くバエルは、顎に手を添えながら考え事をしている。


「……生徒会」


 おそらく、スクールカーストの上位に位置する組織なのは間違いない、とバエルは捉えていた。フォルネウスから聞いた高等学校の知識の中に、そういった言葉があった気がするが……曖昧なものであるためハッキリとは理解できない。


 しかし、何よりもバエルが理解できないのは、先程の村田水穂という女子生徒の存在だった。


「副生徒会長、というからには彼女が序列二位と言ってよいのだろう。だが……それに相応しい者とは到底思えない。あまりに……普通なのだ」


 はっきり言って地味な容姿をしていた。言動も慌てふためくばかりのもので、カリスマ性といったものは微塵も感じられない。


 だが、彼女が副生徒会長と呼ばれるポジションに位置するということは、何かしらの力を持っていると考えて良いのだろう。


「不思議なものだな」

 バエルは鼻で笑って、それから学校をあとにした。



◆◆◆



 人間界に来てからまだ一日も経っていない。バエルは此の世界に潜伏する手段として早急に準備したものは高等学校の知識やそれに関係する道具であった。


 ちなみに彼が高等学校へ編入出来たのは、悪魔的圧力とも言うべきか、人間が抗う事の出来ない手段をもってして無理矢理編入を成し遂げている。その点に関しては、ソロモン七二柱序列一位の悪魔であれば容易く欺けるということにしておこう。


 だが、あくまで清潤高校は対処出来たわけであり、その他諸々の物事には全く手を付けていない。その問題点から真っ先に浮上するものは、衣食住である。


 バエルは住処を決めていなかった。人間界に降り立ってすぐに清潤高校に向かったので、寝る所も見つけていない。

 食事に関しては数ヶ月摂らずとも生きているし、服も着ているので問題は無い。


「……さて、どうするか」


 一休み出来る場所を探していたバエルは、適当に繁華街を歩んでいた。

 時刻は七時を過ぎていたが、街灯や店の灯りで明るく照らされた街中を、多くの人々が賑わいながら歩いている。


 バエルは中でも悪目立ちする格好でいたが、周囲は気にも留めていない。


 しばらくまっすぐ歩いていると、バエルは誰かに肩をぶつけてしまった。


「すまない」


 バエルはぶつかってしまった女性に軽く頭を下げた。

 すると相手も、


「いや、よそ見をしていたのは私だ。こちらこそ申し訳ない」

 と頭を下げて、バエルの顔を見た。


 二人は目が合う。


 バエルは彼女の姿を見て、目を見開いた。何故なら、彼女の着ている制服が清潤高校の女子生徒のそれだからだ。


「……その制服、清潤高校の生徒か?」


 バエルはとっさに尋ねた。


「あ、ああ……そうだが。貴様も清潤高校の生徒なのか?」


 金髪が風になびく。凛とした瞳でバエルを見据える女子生徒は尋ね返した。

 バエルは「ああ、そうだ」と応える。


「実は今日編入してきたのだ」


 バエルがそう話すと、相手の女子生徒は驚いたように目を開かせ、


「奇遇だな。実は私も今日編入してきたのだ。まあ、手続きに手間取ってしまい、学校には明日から行くことになっている」


「変な偶然というのもあるのだな。今日編入した者同士、こんなところで会えるとは」


「そうだな。面白い世界だ」


 彼女は笑ってみせた。


「実は……この辺りには来たばかりで、私は何も知らないのだ。だからこうして、適当に街中を散歩している」


 彼女が辺りを見渡しながら話す中で、バエルは彼女の横顔をじっと見据えながらこう応えた。


「まさしく、私もそれだ。ここは賑やかで楽しいところだ。こうやって一人ひとり観察するだけでも飽きが来ない」


「ああ、たしかに。人間というものは、皆それぞれ多種多様な顔をしている。笑顔なんかを見ると、私も元気になる」


 そう言って彼女は笑顔をバエルに向けた。


 強面のバエルは笑いこそしなかったが、少し口角を緩め、


「そうだな」

 と相槌を打った。


「では、私はこの辺で。用事があるのでな。明日学校で会えたら良いな」


 彼女がそう言うと、バエルは首を縦に振った。


「では、明日」


 二人は互いに別々の方向へと歩みだした。



 金髪の女子生徒はチラッと後ろを振り返り、長身のリーゼントヘアの男の背中を少しばかり凝視した。


「……妙な髪型をしているな」


 ボソッと呟いた彼女は、それから自身の着用する清潤高校の女子生徒用制服を指でなぞりながら、


「しかしこの服……違和感があるな。普段から鎧を纏っていたからか」


 と、

 彼女――ミカエルは、着慣れていない制服に溜息を吐いた。

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