第8話

 天界に位置する城塞都市エデンの一室には、ひとり人間界へ赴いたミカエルが気掛かりでしょうがないレミエルが座っている。

 自身の前髪を指でいじることで多少の落ち着きが得られるようだが、彼女の曇りがかった顔から見るにそう安々と不安が拭えるわけではないだろう。


「ミカエル様……」


 レミエルが心配性なのではない。彼女自身、至って普通の人格を有し、只々目上の存在に敬意を払っているだけに過ぎない。


 問題はレミエルにあるのではなく、ミカエルにある。彼女は熾天使の一人である故にその実力は天界随一の代物で、太陽剣を翳す彼女を止められる者は居ない。それ故に彼女の――純粋且つ単純な思考回路から発生する偏った正義感――を正そうとする者もいない。


 レミエルはその点に関して最も不安でしょうがなかった。


「変なことしてないといいんですが……」


 悪魔を敵視し、人間界を護らんとする姿勢は褒め称えるべきものだが、その過程において時々行き過ぎる部分もある。熾天使の実力を駆使した圧倒的武力による圧政の類を犯したり、感情論に押し流され根本的な問題解決を有耶無耶にすることもあった。


 そういった細かな問題点の軌道修正を行うのがレミエルその他の天使達の役目であるが、如何せん一人で人間界へ飛び立ったミカエルを制止する者がいない。これは重大である。


 部屋の窓から天界の空を眺め続けるレミエルの両肩に、一人の天使が手を置いた。


「辛気臭い顔してんじゃないよー」


 レミエルに声を掛けたのは、小柄な体格で黒髪のショートスタイルヘアの天使・アルコーンだ。レミエル同様に白いコートを羽織っている。


「アルコーン」


 レミエルは彼女の名を呼んだ。ゆっくりと後ろを振り返ると、常にふてぶてしい顔つきをするいつものアルコーンが目に入った。


「ミカエル様ならダイジョーブだって」


 心配するレミエルにそう声かけるアルコーン。


「天使のトップだよ? そんじゃそこらの悪魔なんかに負けたりしないよ」


「何を言っているのですか。相手はそんじゃそこらの悪魔なんかじゃないんですよ。魔界の王、ソロモン率いる最強の悪魔軍団ソロモン七二柱の筆頭バエル。噂では魔界の王が王様でいられるのはバエルがサポートに徹しているからだとか。言うなれば、実質魔王はバエルといっても過言ではないのです」


「へえー」


 あまり真剣に受け止める気のないアルコーンは、レミエルの隣にゆっくりと腰を下ろした。


「じゃあさ、私達天使が全員でそいつに掛かっても勝てないかな?」


「流石に私達が勝つでしょう」


「じゃあ私達全員で人間界に行けば良かったじゃんね」


「そういう訳にも行かないんですよ。天使全員がミカエル様のもとへ行ってしまったら、誰が天界を護ると言うのです? 魔界の連中の狙いがそれだとしたら?」


 アルコーンは納得した表情を見せる。


「じゃあさ、全員とは言わず、ガブリエル様やラファエル様、なんだったら無理矢理ウリエル様も連れて行ったら良いんじゃない? 最強の天使軍団相手に、流石のバエルもお手上げだと思うんだけど」


 対してレミエルは溜息を吐いて半開きの目を向けた。


「熾天使全てを動員することは、天界の防衛を著しく下げることに繋がることぐらい、わかっているでしょう? それにウリエル様が今どこにおられるのか、ミカエル様だって知らないのですから」


「あっそー」


 唇を尖らせるアルコーン。


「じゃあ私が行こっかな」


 アルコーンの発言に、レミエルは険しい顔つきでそれを否定する。


「ダメですよ。勝手に行ってはいけません」


「なんでレミエルが決めるのさ?」


「ミカエル様の命令です。私一人で行く、と仰ったのですから」


 アルコーンは首を傾げた。


「どうしてミカエル様は一人で行ったんだろうね?」


「天界の守護を我々に任せるためですよ」


 レミエルはそう解釈していた。

 しかし心では、一人で人間界へ行かせたことを少し後悔している。

 アルコーンは、レミエルの表情に陰りがあることをとうに知っていた。彼女こそ最も人間界へ今すぐ行きたい天使の一人だと確信している。


「レミエルは行かないの?」

 アルコーンが尋ねる。


「どこにですか?」


「人間界だよ。ミカエル様のもとへ追いかけに行ったら良いじゃん?」


「ですから、勝手なことをしてはダメなんですよ」


「でもホントは行きたいんでしょ? 心配なんでしょ?」


 意地悪い顔を見せるアルコーンに、レミエルは膨らませた頬を見せた。


「…………」


「どうなのさ?」


「それは勿論、心配ですけど……」


「でしょ? というかレミエルだけじゃなく、みーんな心配してると思うけどね。だってミカエル様を一人にしちゃったら、大変な事が起きたっておかしくない。ガブリエル様はどうして止めなかったんだろう?」


 アルコーンが疑念を抱いたその時、一室のドアが唐突に開いた。


「あら、此処に居たのね」


 現れたのは桃色の髪をしたガブリエルだった。


「ガブリエル様」

 二人は即座に立ち上がった。


「貴方を探していたのよ、レミエル」


 ガブリエルが歩み寄ってくる。レミエルは「私ですか?」と自身に指を突きつけた。


「ええそうよ。貴方に頼みたいことがあってね」


「なんでしょうか?」


「ミカエルが一人で人間界へ行ったでしょう? しばらくして私も考えたのだけど、やっぱり彼女一人で行かせるのは少々まずかったかもしれないと思ったのよ」

 不安そうにガブリエルが話す。


「ミカエルは一人で行く、の一点張りだったけど、やっぱり彼女だけを人間界へ向かわせるのは間違いだったわ。もしもソロモンの悪魔と出くわして争いに発展したら彼女をサポートする者がいないのだからね。太陽剣の力が悪魔にどこまで通用するかもわからない。だから、レミエル、貴方にお願いがあるのだけど……」


 ガブリエルが本題に入ろうとする前に、レミエルは既にその内容を把握していた。同様にアルコーンもわかったおり、笑みを浮かべながらレミエルの顔を見つめ続けていた。


「人間界へ行って、レミエルのサポートをお願いできないかしら?」


「よろこんで!」


 レミエルの即答に、ガブリエルは大きく目を開いた。


「良かった! これは貴方にしか頼めないことなの。ミカエルのことを誰よりも理解している貴方なら、万が一のときでも頼れる存在になると思うわ」


 ガブリエルはそう言って、優しく右手を彼女の肩に添えた。


「私も心配なのよ。ミカエルのことが」


「はい。任せてください。ミカエル様は私がお守りいたします」


 レミエルがそう応えると、ガブリエルはにっこりと笑顔を示し、右手を離した。


「良かったねレミエル」


 アルコーンがそう言うと、レミエルは満足げな表情で応えた。


「えぇッ! 待っててください! ミカエル様!」


 彼女の妄信的な愛に近い、否、過剰な忠誠心と言うべきか――レミエルの忠誠を理解しているガブリエルの判断は正しいだろう。

 人間界へ行ったミカエルの行動パターンを予測できるのはレミエルしかいない。その観点からガブリエルはレミエルにサポート役を命じたのだ。


「それじゃあ、よろしくね」


 ガブリエルは軽く頭を下げた。


「任せてください!」

 レミエルは胸を張って答えた。



◆◆◆



「た、大変ですーッ!」

 フォルネウスが慌てふためきながらアガレスのもとへ駆け付けてきた。


 魔界のソロモン城の一室で読書をしてうたアガレスは、青ざめた表情を見せる彼女に驚いた様子を示した。


「ど、どうした!?」


「大変なことになりました!!」


 普段はあまり大声を出さない彼女が、裏返った声を大にして放ってくる。同時に乱れた足取りのせいで床に転げ落ちた。掛けていた眼鏡が転がる。アガレスはそれを拾っては「何があった!?」と急かすように尋ねた。


「バ、バエル様が……危険です!」


 意味深な発言をするフォルネウスに、アガレスは勿体ぶるなと言わんばかりに彼女を無理矢理起こしては、


「き、危険とはどういうことだ!? バエル様に何かあったのか!?」

 と早口で問いかける。


 フォルネウスは手渡された眼鏡を掛け直し、


「天界の天使が人間界へ行ったみたいなんです!」

 と重大な事実をアガレスに突きつけた。


「なっ……!」


 心臓が一瞬止まる。目を開き、口を大きく開け、思考がしばらく停止した。


「……なんだってもう一度行ってくれ!」


「エリゴル様が、人間界へ向かった天使の姿を目撃したとのことで! 私も詳しくは知らないんですが、恐らくバエル様を追ったに違いないと!」


「それは本当だな!? 天使が人間界へ行ったのだな!? エリゴルがそういったのだな!?」


 険しい表情で質問を畳み掛けるアガレスに対し、フォルネウスは動揺を隠せずに居た。「あうあう」と質問攻めの耐えられずに涙目を見せながらも幾度となく頷いてみせた。


「……このタイミングで天使が人間界へ行った……そうなってくれば、バエル様を追ったに違いないな。レイラインで移動するのはやはり危険だったのだ。天界の連中も監視網を広げていたのだ!」


 悔しそうに唇を噛むアガレス。


「今すぐバエル様に連絡しなくてはいけない!」


 アガレスは自身の机の引き出しからバエルに渡された通信機を取り出した。これを使って人間界に潜伏しているバエルに連絡を取ろうと考えたのだ。


 しかし、


「ねーねー」


 と、アガレスの手を止めるように割って入ってきたのはグラシャラボラスだった。

部屋のドアを半開きにして、覗き込むように顔を見せる彼女を、アガレスはきょとんとした目で見つめていた。


「グ、グラシャラボラス! ちょうどよかった! お前も話を聞いているだろう? バエル様が危ない! 人間界へ天使が向かったのだ!」


「そうらしいね。だからさ、アガレス様も人間界に行っちゃえば良いんじゃない?」


 グラシャラボラスはニヤリと笑った。


「…………なんと」


 アガレスは彼女の言葉を脳内で反復し始めた。


 ――行っちゃえば良いんじゃない?


「……行っちゃえば良いんじゃない」


 アガレスがそれを口に出すと、グラシャラボラスは更に、


「バエル様に連絡しても、私一人で十分だ! とか言っちゃうのがオチなんだし、それならいっそのこと内緒で人間界に行って、陰からこっそりお守りする方が最も安全だと思わない? ワタシもアガレス様もお互い不安を拭えるわけだからね!」


「素晴らしい!」


 アガレスは通信機を握る片手を頭上に突き上げた。


「グラシャラボラス! 素晴らしい考えだ! ああそうだ! 陰からこっそりお護りすれば良いのだ!」


 アガレスの様子を見て、グラシャラボラスは「やったね」とか細い声で呟いた。彼女ははなから、人間界へ行きたかったのだ。


「その方が楽しいしね」


 彼女はボソッと言い放った。これが彼女の本意である。


「では、早速行くとしよう!」


 アガレスは真剣味を帯びた表情を浮かべた。


「そうだ、フォルネウス。お前は人間界の知識が豊富らしいな?」


「は、はい……!」


 フォルネウスは眼鏡をかけ直しながら応えた。


「では、我々が人間界へ行っても目立たないように助言を一つ頼めるかな?」


「わ、わかりました!」


 アガレスとグラシャラボラスは人間界へ行くことになった。


 バエルが人間界へ飛び立ってまだ一日も経っていない。心配性のアガレスの純粋で単純な思考を利用したグラシャラボラスの策は、まんまと成功した。

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