第7話

 五限目の古典の授業は通常通り開始された。馬場得太郎を中心とした小さな騒動は何事も無かったように扱われ、担任教師加賀山も触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、淡々と古語を呟くばかりである。


 馬場ことバエルは高等学校に潜伏すると計画してから、短時間でその対応策を頭に叩き込んでいる。


 今から十数時間前――魔界のソロモン城の一室で、バエルはフォルネウスに高等学校の全てを教え込まれていた。


 しかしそのどれもがアニメや漫画といった創作物から学んだものである為、少々非現実的なものも含まれていた。無論、バエルはそれを知る由もなく、人間界では当然のことなのだと認識している。例えば、道の角でパンを加えた女の子にぶつかるのは必然の出来事である、と覚えていたり、ラッキースケベなる転倒した際のボーナスオプションが存在する、など。


 しかしそれ以上に、バエルは高等学校で必須の勉学について多くを学んできている。人間界の知識を知る上で高等学校の勉強をすることは、潜伏する上でも一石二鳥とも言えるだろう。

 また、持ち前の頭脳を駆使することで彼は瞬く間に高校の学問を完璧なものへと昇華していった。

 この結果として、リーゼントヘアの不良少年の見た目を有した者には似合わない――頭の良い生徒へとなってしまう。


「じゃあ、馬場くん、いきなりだけどこの古文訳せるかな?」


 加賀山は何気なく、編入したばかりの生徒である馬場に解答を求めてきた。

 周囲のクラスメイトは皆小声でぼそぼそと話し始める。


「答えられるわけがない」

「だってアウトローだしねぇ……」


 誰もが彼の容姿から、勉学には程遠い人物であると判断している。

 だが馬場得太郎ことバエルは、提示された古文をすらすらと現代語訳していった。


「――私にはわからない。生まれたり、死んだりする人は、どこから来て、どこへ去っていくのか」


 方丈記の一文を淡々と訳していく。皆が驚愕したのも無理ない。隣席の橋本愛華も目を見開いていた。


 まさか、不良少年が古文を平然と訳せるわけがない。彼の机上には教科書が一冊置いてあるだけで、現代語訳の答えがあるわけでもない。にも関わらず、淡々と、さも当然のごとく、彼は方丈記の訳文を発していく。


 バエルにとってはただ声を発するだけの作業に過ぎなかった。


「おお…………す、すごいね、完璧だよ」


 加賀山が拍手で応えるのを見て、バエルは軽く一礼するが、


(こんなもので褒められるのか?)

 と呆気ないものであると感じていた。


 隣の橋本が彼の肩をとんと叩いた。


「すごいじゃん、頭良いんだね」


「何の話だ?」


「いやいや、今の、古文をフツーに解いてたじゃん。やっぱアンタ只者じゃないね」


 橋本がニヤリと笑うのを見て、バエルは少ししかめた顔をした。


(なにかまずいことでもしたか……? 今の古文とやらを容易く解くのは間違いだったか?)


 バエルは自身の格好に似合わない学力を持ち合わせてしまっている、という問題点を看破できずに居た。


「勉強は学生の本分と聞く。ならば当然のことをしたまでだ」


 バエルが適当に応えると、橋本は笑みを含めながら呟く。


「いかにも勉強苦手! って感じなのにね」


「この見た目のことか?」


「そうそう。だってアンタ、ヤンキーでしょ? 喧嘩ばっかしてきたんじゃないの?」


 橋本が尋ねると、バエルは喧嘩という言葉から魔界で起きた過去の闘争を思い返した。


「……ああ、まぁ、たしかに、闘いに明け暮れた時期もあったな」


「その合間に勉強でもしてたわけ?」


「知識を蓄えることもまた、闘いの基本だ。覚えておけ橋本、闘いとは力の有る者が勝利を握る。しかし力のあり方は千差万別。拳に頼る者や頭脳を扱う者、あるいは美貌を用いる者も居るのだ。私は最も効率の良いやり方を選ぶまで」


「ふーん」


 また力説が始まったよ、と橋本は思いながら頷いた。


「お前はどうだ? 闘う為に何を使う?」


「闘いねぇ……そんな物騒なのゴメンだっちゅーの」


 橋本は窓越しの景色を眺めながら、悲しげに呟いた。



◆◆◆



「近い……! 近いぞ!」


 銀の鎧を纏う熾天使ミカエルは、手の上で輝きを見せるクリスタルを確認するや否や、歓喜に近い声をあげた。


 悪魔バエルを探し求め、人間界を適当に散策していた彼女は、当然道中では物珍しそうな目を向ける人々でいっぱいだったがそんなこと気にも留めていなかった。


 バエルを見つける一心で盲目的になっていた彼女は、偶然かあるいは神の導きか、バエルが潜伏している清潤高校の近くに居た。


 バエルやミカエルが人間界に来てからまだ一日も経っていない。ミカエルがバエルを見つけ出すのも時間の問題だろう。

 しかしまさか、彼女自身こうも早く見つけるチャンスを得ようとは思ってもみなかった。


 住宅街から少し外れた路地の隅で、クリスタルを片手に周囲を見渡す彼女は、端から見れば――不審者だ。


「奴は近い……。クリスタルの反応が強い……! どこだ? どこにいる!?」


 歩いては止まり、歩いては止まり、と反応を強さを判断材料に道を行く彼女の姿はあまりに目立つ。

 まず人間界では滅多にお目にかかることのない鎧をかぶった女性など、一般人からすればどう思われようか。


「あれぇ」


 ミカエルの横を一人の男性が通り過ぎた。彼はとっさにチラッと彼女を見ると、半ば感心したような声を出し、それから瞬く間に懐から携帯電話を取り出した。


「あの! すいませーん!」

 男はミカエルに声を掛けた。


「ん?」


 ミカエルは反射的に声のする方へ首をひねった。彼女は人間が何かを握りしめながら必死に手を振っているのを視認した。


「……なにか?」


 彼女はバエルを見つけたい気持ち故に、少し冷たい態度を示した。振り返ることもなく、ただ顔を向けたまま問うと、男は少々気味の悪い笑顔を見せた。


「あのぉ、コスプレ……ですよね? 写真、撮ってもいいっすか?」


 男は――ミカエルをコスプレイヤーだと勘違いしているのだ。

 これは男に限らず、きっとほとんどの人間がそう思うに違いない。天界の天使といえど、容姿は人間そのものである。翼を生やしていなければ、ミカエルは只々美しい容貌を持つ綺麗な女性なのだから。


「……どういう意味だ?」


 聞きなれない単語を耳にしたミカエルは、ようやく体ごと振り向いた。


 男は携帯電話でカメラ機能を起動させると、


「カメラです! 写真、撮ってもいいっすかね? コスプレイヤーの方ですもんね?」


 と興奮気味に歩み寄ってきた。


「訳の分からないことを言うんじゃない。私はて――」


 私は天使だぞ――と言い切る前に、彼女はガブリエルの言葉を思い出した。


 ――貴方が先に目立ってしまうと、悪魔は警戒してしまうのだから。


 ミカエルは自分の着用する鎧を手でぺたぺたと触り、この格好が人間にとって稀有なものであるに違いない、と気付いた。


「あのぉ、撮ってもいいっすかね?」


 にやけづらを見せる男に対し、ミカエルは手を広げて突き出した。


「まぁ待て。とりあえず待つんだ」


 しかし男はすぐさま写真を撮った。カシャ、とシャッター音が響くとミカエルは怪訝な目で携帯電話を見た。


「いやぁ、カッコイイっすわ。中世の騎士かなんかっすか? 似合ってるし可愛いしぃ」


 男はある勘違いをしている――ミカエルが手を突き出したことで、それを一種のポーズかなにかと判断してしまったのだ。故に彼はシャッターを切った。


「今のはなんだ?」


 ミカエルはシャッター音が気になってしょうがなかった。


「どれ、それを見せてくれないか」


 ミカエルが詰め寄ると、男は何のためらいもなく携帯電話の画面を彼女に向けた。

 当然、そこにはミカエルの全身が映っていた。つまり写真である。


「な! なんだとッ!?」


 しかし天使であるミカエルは、携帯電話のカメラ機能や写真といった類に未知であった。

 故に眼前に映る自身と瓜二つの存在が、小さな機械の中に閉じ込められているのだと認識してしまった。


「こ、これは……!」


 ミカエルは携帯電話を奪い取り、その写真をまじまじと見つめた。


「貴様……ッ!」


 彼女は怒気に満ちた鋭い目を男に向けた。


「呪いか!? これは呪具だな!? こ、こんなものを人間が扱っているというのか!? 一体どうやった? これはまさか……私の魂を抜き取ったとでも言うのか!?」


 声を荒げ、携帯電話に映る写真を指しながら男に詰め寄る。


 しかし男はそれさえも、コスプレの一環としてキャラクターに成り切っているのだと勘違いしてしまった。


「うっへぇ、すげぇや。キャラが降りてんだよコレ。なりきっちゃってるもん完全に」


 最早携帯電話を取られたことすら気にならない。更にミカエルが美少女であるために、少し見惚れてしまっていたのだ。


「言え! 一体これは何だ!?」


 ミカエルは携帯電話を地面に投げ捨てた。


 途端に男は正気に戻る。


「ちょっと! え! 何やってんの!?」


 流石に自分の携帯電話を思い切り投げ捨てられれば、相手がコスプレイヤーだろうがキャラに成りきっていようが怒るのは間違いない。


 コンクリートに転がる携帯電話を急いで拾おうとするも、それを阻むようにミカエルが彼の胸ぐらを掴んできた。


「まさか……貴様、悪魔と取引でもしたのか?」


「ちょっ、ええっ、なにっ!?」


「私が来ることを知ってた上で、奴は既に人間界すら手中に収めたというのか? こんな短時間で!?」


「いい加減にしろよ! 度が過ぎるでしょアンタッ!」


 男は力づくで彼女から離れると、再び携帯電話を拾おうと手を伸ばした。


 しかし、伸ばした手はピタッと止まる。


「…………」


 男の首筋に、黄金に輝く剣の先端がそっと添えられていたのだ。


 太陽剣たいようけん――熾天使ミカエルのみが扱える、天使の長を象徴する剣。彼女の意志によって顕現するそれを、ミカエルはぎゅっと握りしめ、剣先を男に向けていた。


「言え、人間。私は天使だが、容赦はしない。悪魔とつるんでいるというのであれば、斬る」


 些か唐突過ぎる故に、男の方はしばし硬直していた。


 何故いきなり剣が現れたのか? どうして剣はきらきらと輝いているのか。そういった細かい疑念は一切浮かぶことはなかった。


 ただ、彼の目には、怒りに満ちた形相を示すミカエルの顔が映っていた。


「答えろ!」


 ミカエルが叫ぶように放つと、男はすぐさま逃げ出した。携帯電話を拾うこともなく、全速力で駆け出していった。


「うぎゃああっ!」


 奇っ怪な悲鳴をあげながら逃げ去っていく男を、ミカエルは追おうとした。


「待てッ!」


 が、視界の端で男の携帯電話を捉えると、それを拾い上げた。


「……一体これは何なのだ?」


 少々自己中心的な考えのもとで行動してしまったことを、しかしミカエルはわかっていない。彼女は人間が悪魔が関わっていると妄信的になってしまっていたのだ。


 よって護るべき対象である人間にさえ、太陽剣を突き出すという行為に出てしまった。


 携帯電話に映る自分の全身を凝視する彼女は、この得体の知れない存在をどうすべきか戸惑いを見せた。


「……か、鏡……ではないようだな」


 呪具――呪いを付与する道具なのかもしれない。

 あるいは、悪魔バエルによる何らかのトラップか?

 ネガティブな憶測が彼女の脳を掻き乱していく一方で、彼女はクリスタルの反応が強かったことを不意に思い出した。


「ああ、そうだ。奴は近い。気を抜いてはならないのだ……!」


 敵はもうすぐそこにいる。

 ミカエルの握る太陽剣が柄から徐々に消えていった。彼女の意志でそれは天界へと帰っていったのだ。


 彼女はクリスタルを握りしめ、再び歩き出した。

 しかしこの時、自分の容姿があまりに目立っていたという事実を、すでに忘れてしまっていた……。

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