第6話

 正午過ぎ。そろそろ梅雨明けの時期だが蒸し暑さは健在であった。

 悪魔バエルを追って人間界にやってきたミカエルは、商店街近くの公園に降り立った。レイラインを抜けたばかり故に天使の象徴とも言える純白の翼を大きく広げていた。


 彼女がまず感じたのは、外界の暑さだ。暖められた空気が肌を一瞬で覆ったため、少し気持ちの悪い心地であった。

 未だ翼を広げたままのミカエルは、人間界で言えばあまりに目立つ格好であった。

 悪魔バエルは人間界に潜伏するためにある程度の知識と変装を備えていたが、彼女は違う――


 偶然そこに居た幼児を抱える一人の母親が、あんぐりと口を開けたまま天使の姿を凝視していた。


「ママあれなにー?」


 幼児は興味津々な面持ちでミカエルを指したが、母親には息子の言葉など届いていなかった。呆然と立ち尽くすばかりの母親に嫌気がさした幼児は、


「マーマー! マーマー!」

 と母親の頬をつねるばかりであった。


 しかしそんなことに気づくことなく、ミカエルは降り立った公園の辺りをとりあえず見渡していた。


 クリスタルを取り出し、魔力の反応を調べる。


「……反応がない」


 人間界には魔力が流れていない。人工的か或いは偶然の産物によって発生しない限りは無い。よってクリスタルが反応を示す時、それは十中八九悪魔バエルの魔力が近いことを示すのだ。


 しかし、一切の反応を見せないので、バエルは近くには居ないということを意味していた。


「レイラインに残る僅かな魔力を追ってきたつもりだったが……悪魔は近くには居ないようだ」


 当てが外れたミカエルは、クリスタルが反応するまでノープランで動くことに決めた。


「悪魔バエル、ソロモン七二柱の頂点に君臨する者。それほどの奴だ、膨大な魔力を宿しているのは明らか。少々離れていても、奴の魔力を感じるはず。ということは、奴はもっと離れた場所にいるに違いない」


 ミカエルは翼を羽ばたかせ、飛び立とうとした――が、そこでガブリエルの忠告が脳裏をよぎった。


 ミカエルはとっさに翼をとじた。

 慌てて周囲を警戒するが、時既に遅し――一人の親子がしっかりとこちらを見ているではないか。


「ママ! 聞いてるのー?」


 母親の頬をつまむ子と、唖然とする母の姿――ミカエルはその様子を見て、苦笑いを見せた。


「あっちゃー……」


 何かしらの釈明をすべきかどうか、一瞬の思考の果にミカエルが取った行動は逃げの一手であった。

 何事も無かったようにその場を去っていくミカエル。

 その姿を眼球で追う母親と、その母の頬を未だにつまみ続ける幼児であった。



◆◆◆



 一年三組の五限目の授業は古典だ。三組の担任であり国語教師の加賀山かがやまは淡々とした足取りで教卓の前に向かうと、教科書を投げるように机上に置いて、教室一体を見渡した。


「ええ、授業始める前に今日は大事なお話があります」


 生徒たちは思わぬ展開にざわめき始めた。昼過ぎの授業ということもあって気だるさを露わにしていた者たちが一斉に好奇心を顔に示す。


「もうあと一ヶ月もすれば夏休み、なんていう時期ですが、このクラスに転入生が来ます」


 騒々しくなる生徒たちをよそに、頬杖を突く橋本愛華はしかし驚く様子も無く、まるでこれから何が起こるか分かっているかのようだった。


 一方、上原弓子や柳原留依といったウィナーズの面々は何やら嫌な予感を感じているのか、ひそひそと話をしている。


「じゃあ、入って」


 加賀山は教室の出口に顔を向けた。


「失礼します」


 姿を見せたのは、三組のクラスメイトは皆既に見たことが有り、尚且つ記憶に新しいリーゼントヘアの男子生徒――すなわちバエルだ。


 さっきまでのざわめきは一瞬で消えた。

 皆口をぽかんと開けたまま、アウトローの不良生徒をまじまじと見ていた。

 上原は眉間にしわを寄せつつ彼をにらみ続け、柳原はどこか達観した面持ちでいた。


 バエルは教室に入るや否や、瞬時に全クラスメイトの表情を観察した。敵意や悪意、あるいは恐怖といった負の感情に敏感なバエルにとって、この空間は紛れもなくアウェーである。それを肌で感じるバエルだが、しかし怯える事は一切無い。むしろ内心では嘲笑っているのだ。


 口には出しはしないものの、人間如きに悪意を向けられることに虫唾が走っているのは間違いない。


 それは彼の表情でわかる。――無だ。喜怒哀楽といった感情を示す表情ではなく、何物にも捉えられない、まるで作り物の顔だ。もともと悪魔である彼が、下等生物と見下している相手から自由気ままに敵意を向けられていれば、当然衝動的になるだろう。しかし自身の心を押し殺し、敢えて虚無感に抱かれることで彼は冷静さを保っているのだ。


 その結果として一切の表情を無くしていた。もとより彼には顔がない。言うなればこれこそがバエルの真の表情なのだ。

 外界からの干渉に一切の反応を示さないようになる術――厳密に言えば幻術やマインドコントロールといった心理的戦略に対抗するための手段の一つ、悪魔バエルの十八番である。

 瞬時にこれを成すことで、彼は人間への衝動的殺意から逃れていたのだ。


「それじゃあ、自己紹介してもらえるかな」


 側に立つ担任教師が声を掛けた時、バエルは我に返った。ほんの数秒の間だけ、彼は心身共に何者でも無かった。


「わかりました」


 未だクラスメイトからの冷たい視線が刺さる中、バエルは最早蟻の威嚇など戯言以下だと取っていた。


「はじめまして。私はバエ――」


 危うく本名を言いかける。


「ああ、すいません。私の名前は――馬場ばば得太郎えるたろうです」


 男の名前を聞いた途端、教室内でどよめきが生まれた。無理もない、「馬場」という姓名はまだしも、「エルタロウ」という名前があまりに稀有なもので有る故に皆が目を見開いた。


「珍しい名前だよねぇ。あ、いや、珍しいって言っちゃダメか。ごめん、あ、いや、今のナシで」


 担任教師は何やら慌てふためいていたが、バエルはそんなことより、「馬場得太郎」という偽名に無理があったのではないか、と少し戸惑っていた。額から流れる一滴の汗を指で拭いながら、


(バエルという私の名前の要素を無理矢理日本人的な名前に変換したのは、やはりまずかったんじゃないか? フォルネウス……!)


 と、この偽名を命名したフォルネウスに内心で愚痴をこぼしていた。


「じゃあ、黒板に名前、書いてくれるかな?」


 加賀山教師が手渡したチョークで、バエルこと馬場得太郎は黒板に名前を書いた。しかしそれは「馬場得太郎」という漢字が連なるものではなく、彼は当然のように悪魔間で扱う悪魔語の文字を書き出してしまった。


 他のものからすれば古代の象形文字なのか? 首を傾げるほかなく、予想外の出来事に誰もが沈黙で居た。

 しばらくしてバエルもそれに気づき、慌てて手で掻き消すと、書き慣れていない漢字をゆっくりと、「馬場得太郎」を書き終えた。

 しかしあまりに汚い字であった。小学生が利き手でない手で書いたような代物である。


 誰もが密かに嘲笑していた。しかしバエルが気づくことはない。


 しかし例外もあった。橋本愛華は顔で笑みを見せていた。決して愚弄しているのではない。アンタやっぱ面白いね、とアイコンタクトを送った。

 それに気付いたバエルは口角を緩ませた。


(字を書く練習をしておくとしよう……)


 バエルの自己紹介が済むと、加賀山は彼に席に座るよう指示した。


「馬場君はとりあえず橋本さんの横の席に座ってもらえるかな」


 橋本愛華の隣の空席に向かうバエル。

 その途中で、橋本が彼の目を見据えると、彼もまた彼女を見つめた。

 その一瞬のやり取りの内に、バエルは橋本が何か忠告をしていると勘付いた。アイコンタクトのおかげではない。彼女から発せられる何かへの嫌悪感を汲み取ったのだ。


 その答えはすぐに解った。


「…………」


 バエルが座ろうとした席に虫の死骸がぽつんと佇んでいたのだ。


 ひっくり返ったそれをじっと見つめるバエルに対し、橋本は窓の外に視線を向け溜息を吐いた。


(始まったのよ……)


 彼女は心で呟いた。


(ようこそ、ルーザーズへ)


 橋本は敢えて彼を見なかった。彼が被虐者の一員に加わる瞬間を直視したくなかったのだ。それに、その要因は自分にあると分かっていた。自分を庇うような言動を取ったせいで、馬場得太郎はルーザーズの烙印を即座に押されてしまったのだ、と。


 例え彼がスクールカースト制度をあざ笑う強いメンタルの持ち主とはいえ、それを平然と受け止めるわけにもいかないだろう。


 橋本は罪悪感のようなものを抱いていたのだ。

 しかしその心配は不必要だとすぐにわかる。


「なんだこれは」


 バエルは虫の亡骸を平気で手に取ると、舐めるようにそれを見た。


「……虫か」


 自身が持ったものをようやく理解すると、


「何故こんなものが此処にある?」


 と最初に抱くべき疑問をあとになって感じた。


 首を傾げるバエルを、周囲のクラスメイトはほくそ笑んで見ていた。

 瞬間的にバエルは把握した。何者かが自身が座ろうとした席に虫の死骸を予め置いていたのだ、と。そして橋本はこれを忠告していたのだと。


 立ち尽くすように見て取れる彼の姿を、少し離れた席に座る柳原留依は満足げな表情で眺めていた。同様に上原弓子やその他のサイドキックスも。


 明らかな嫌がらせ。誰もがそれを認識している。


 否――ただ一人――バエルはこれを誤解している。


 虫の死骸を自分の席に置かれることが何を意味するのか、それを理解していなかった。


 これを嫌がらせの類と感じ取ることが不可能だったのだ。

 何故なら悪魔バエルは――虫の死骸に一切の嫌悪感を抱くことが無いからだ。

 人間の感性とは違い、悪魔にとってこれはグロテスクな代物でも不快感を煽るものでもない。

 ただの死骸、ただのモノに過ぎない。人間で例えるなら、椅子に紙切れが落ちてるだけのこと。


「……ふむ」


 バエルはその死骸を凝視し続けたあと、今度は教室内を見渡した。生徒一人ひとりの顔を覗くように見たあとで、彼は突然ある男子生徒のもとへ歩み寄った。


 肌の焼けたスポーツ刈りをした男子の机に、バエルは死骸を投げ落とした。


「これはお前のだな?」


 バエルの行動に誰もが唖然とした。


 死骸を机上に置かれた男子生徒もまた呆然としたままでいた。

 何故自分のもとにこれを? その疑念がわくことはない。死骸をバエルの席に置いたのは彼だからだ。


「…………え、えええ」


 男子生徒は動揺を隠せずに居た。何故ばれた? 何故わかった? どうして自分が死骸を置いたとわかる?


 いや、そんなことよりもまず――


「こ、これは命令されて――ッ」


 彼は弁明を説こうとした。

 が、それを阻むように誰かが床を踏みつけた。唐突に訪れた大きな足音に怯えた男子生徒は即座に黙り込んだ。


 バエルは再び教室内を見渡していく。


 担任教師が教卓の陰に隠れている姿が視界の端で見えた。闘争に巻き込まれたくないようだ。


「ふん」


 バエルはようやく全てを理解した。


 全ては自分への敵意から発生する戦闘行為なのだと。

 いや、敵意と取るにはあまりに幼稚であろう。

 所詮相手は人間。

 持ち前の冷静さをもって人間への殺意を抑えているとはいえ、彼の中で一つの感情が芽生えた。


 人間への明確な敵意――厳密に言うと、清潤高校スクールカースト制度に敷かれた者達に向けられたものだ。

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