第5話

 一年三組のクラスは騒然としていた。売店から戻ってきた橋本愛華の後ろを歩くリーゼントヘアの男を全員がまじまじと見ている。彼らは予想外の来客に唖然とするばかりであった。


「あそこの四人に渡して」


 橋本は片手に持つペットボトルで上原弓子ら四人の座る席を指した。


「わかった」


 と、リーゼントヘアの男ことバエルは淡々とそちらに歩み寄った。


 上原弓子は突如現れたリーゼントのヤンキー男に戸惑っていた。他の三人も同様であったが、彼女たちのクイーンである柳原は唇を少し噛んだまま険しい顔を見せている。


 まず橋本が彼女たちの机に三本のペットボトルを置いた。

 続けてバエルが残りの二本をゆっくりと置いた。

 橋本はすぐにその場を離れ、自分の席に腰をおろしたが、バエルはじっと上原を凝視していた。


「…………」


 鋭い目付きで睨むバエルに対し、上原はようやく我に返ったのか、眉を八の字に変えて口を開いた。


「……何? じろじろ見ないでくんない?」


 敵意丸出しのその言葉を聞いたバエルは、額に手を当て半ば呆れ混じりに「やれやれ」と言葉を吐いた。


「なんだそれは?」


 バエルが口にしたのは単純な疑問であった。

 その様子を自分の席から眺めている橋本は、彼の一言を耳にした途端一瞬だけ目を見開いた。それは、彼の台詞が想像もしない一言であったからだ。


「は?」


 疑問を投げかけられた上原は当然のように首を傾げた。


「お前のその態度はなんだと聞いているんだ」


 しかしバエルは、一切の躊躇いも見せず、また一切の怯みも見えず、眼前の女子生徒の目をしっかりと見据えていた。


 一方で上原は、彼女からすればあまりにトンチンカンな言動を取っている目前のリーゼント不良少年を低知能なヤンキーだと勝手に判断した。


 故に彼女は嘲笑の意を込めた笑顔を浮かべ、鼻で笑った。


「ちょ、なに? 本気で笑わせにきてんの?」


 彼女は途端に笑いだした。それに呼応するように周囲の女子生徒も甲高い声でゲラゲラと嗤う。


 他のクラスメイト達は一歩退いた形でこの光景を目にしていたが、彼らたちも同様にリーゼントの不良少年の見方はルーザーズの愚か者であった。

 しかしそんなことも知る由もなければ気にも留める事もないバエルは、冷淡に述べた。


「礼の一つも言えないのか?」


 バエルの問いかけに上原は反論した。


「礼って何? 何をお礼するの? アナタなんかしたの? 良いことしたの?」


 立ち上がってはバエルの胸に指を突き出す上原。


「ていうか何なのその格好。ねえ皆見てよ。リーゼントに短ランって、もうヤンキーじゃん! なんでこんな奴が此処に居るの!? 誰か知ってる人ー?」


 上原は周囲の気持ちを掻き立てるように口にした。彼への煽りを助長させようと画策する彼女の意志を、しかしバエルは一切理解できずにいた。

 ソロモン七二柱の序列一位にとって、高校生の言動は全て戯言とママゴトに過ぎないのだ。


「ハハハハハハハハハハハハハハ!」


 突然、バエルは高らかに笑いだした。

 並々ならぬ笑い声であった。地響きのような低い声色で、全てを嘲笑うように――。

 一年三組の誰もが一瞬にして黙り込んだ。唐突の出来事に、上原含め皆が呆然とバエルを見ていた。


 バエルの笑い声が少々反響しているようにも錯覚した。

 それほどまでに静寂であるこの教室で、まず最初に沈黙を破ったのはバエル自身であった。


「いやはや……これはこれで、のかもしれんな」


 バエルは独り言を吐いた。腕を組み思考にふけるような面持ちを取る彼に、周囲の誰もが不思議がっていた。


 側に立つ上原は彼が大いに奇っ怪に感じ取れた。低知能な人間という認識から、精神状態が異常なヤバい奴という危険人物に変わった。


 故にか、彼女はバエル自身に喧嘩を売る事を止め、その標的を橋本愛華に変えた。


「愛華ちゃん、この人新しいカレシ?」


 にやけた顔で問いかける上原を、橋本は顔色一つ変えずに見据えている。


「…………」


 ずっと沈黙を貫く橋本に、上原は食って掛かる。


「自分では何も言えないからって、露骨なヤンキーを代打に出すってさぁ……かっこ悪くない?」


 上原がそう言うと、他のサイドキックス達も頷く。


「こんなさ、見た目もろ〈アウトロー〉な奴、どうやって雇ったの? お金? それとも……」


 と、皆まで言わない上原。自身のスカートをややめくる動作。しかしその先の言葉をクラスの誰もが把握済みであった。それは橋本も例外ではない。


 しかし彼女はポーカーフェイスを決め込んでいた。


「…………はぁ」


 内心では相当疲弊しているに違いないだろう。


「皆、愛華ちゃんを変な目で見ないであげて。彼女だって必死なんだからさ」


 不気味な笑みを浮かべる上原の露骨な嫌がらせを誰しもが汲み取っている。しかし誰もがそれに文句を言うことはない。


 橋本愛華はルーザーズのターゲット。それはつまりイジメの被害者。

 この烙印を押された者を助けようだなんて、お節介な精神を持ち合わせた者は居ない。あるいは、ルーザーズを庇う勇気を持てていないだけかもしれない。


 だが、それはあくまで人間の範囲内での話である。


「全てはよく分かっていないが――」


 悪魔・バエルは清潤高校のスクールカースト制度を理解していない。


「お前達の言わんとしていることだけは大体解った」


 殊更バエルは人間界の階級制度など、どんぐりの背比べにも満たないレベルでどうでも良い。


「しかしあまりに醜く、私は直視出来ない」


 バエルは周囲を見渡していく。一人ひとりの顔を覗き込むように。


「お前達は、人間ですらない」


 バエルがそう言うと、クラス内で笑いが起きた。


 彼の演説じみた言葉の数々に対し、その内容が所謂中二病的な要素を含んでいたように捉えられたのか、リーゼントヘアの男が真面目な顔で語っている姿に呆れを越えて笑ってしまったのだろう。


 バエルの目の前に立つ上原は腹を抱えて笑っている。

 バエルは馬鹿にされていると肌で感じていたが、彼にとってそれは――ミジンコが煽っている――と思っているだけである。


 ただ、橋本愛華は頬杖をついてぼーっとバエルを見つめていた。

 しばらくして彼女は教室を出ていった。

 未だ笑いの絶えない教室の中心に立つバエルは、去っていく橋本の背中を目に焼き付けていた……。


 そして、バエル以外にも、去っていく橋本をじっと見つめる者が居た。その男子生徒の瞳は――哀しみに満ちていた。




 昼休みも残りわずかであった。

 橋本はフェンスに囲まれた屋上のベンチに一人座り、スマートフォンを除いている。


「橋本、といったか」


 そこにバエルが姿を見せた。

 橋本はチラッと彼を見て、すぐさまスマートフォンの画面に視線を戻した。

 反応を見せない橋本に、バエルは歩み寄りながら口を開く。


「何故言い返さない? 怒りを覚えないのか? お前は……散々だったぞ」


「…………」


「どうやら私は、お前の駒と勘違いされているようだ。何をどう見てそう判断したのか定かではないが、私としては些か不愉快だ」


 バエルはベンチに座らず、その側に立ちながら橋本に言葉を発し続けた。


「私が、お前如きに使役されるような存在と――認識されていることがな」


「あのさ」


 橋本がようやく口を開いた。


「アンタ何がしたいの?」


 彼女はぶつけるように言い放った。


「明白じゃないか。私は手伝いをしたまでだ」


 橋本の怒気に満ちた顔を覗き込むバエルは続けて、


「何か癪に障るようなことか? 人間にとってそれは憤るに充分な行為なのか?」


 淡々と述べるバエルに対し、橋本はばっと立ち上がった。


「いや、その人間って言葉、なに? 人間にとって、って何なの? 妙に上から目線よね。神様のつもりなの? 中二病ってやつ?」


 質問をまくし立てる彼女を、バエルはやれやれと言わんばかりな顔で見ていた。


「質問が多いやつだな」


 と、バエルは呆れたような物言いを残した。


 だが、バエルは今になって自身の発言内容に問題が在ることに気付いた。彼は自分が人間に化けた悪魔だという現状の身分をすっかり忘れていた。


 今まで自然と振る舞ってきた行為は、全て人間への侮蔑的な思考回路を施したものであり、必然的に悪魔の視線で会話を成していた。


 それを自覚したバエルは、額にうっすらと掻いた汗を指で拭った。


「悪かった。特に意味はない」


 あまりに適当な謝罪に、橋本の怒りは更に燃え上がっていく。


「からかいに来てるならもうどっか行って!」


 橋本はスマートフォンを潰れる勢いで握りしめた。


「落ち着け。からかいに来たのではない。話を聞きに来ただけだ」


「…………っ」


 橋本は口を開き何かを言おうとしたが、唇を噛み締めてそれを止めた。目を閉じて顔をそらし、いかにも怒りを抑えているといった素振りを見せ、それからベンチに再び腰を下ろした。


「…………はあ」


 橋本はスマートフォンを覗き込むが、画面は真っ暗だった、


「敢えて言うのであれば――」


 バエルは首を縦に振った。


「私はお前の敵ではない」


 その意味を橋本は全く理解しなかった。

 ただじっと何も映し出されていない画面を凝視している。


「勿論、味方でもない。そう、私は傍観者……いや、それですらない。何も知らない、純粋無垢な、赤子のようなものだ」


「…………ホンット、何言ってんのかさっぱり」


 ようやく視線をバエルに向けた橋本。


「それマジなの? マジで言ってるの?」


 半ば呆れているようにも取れる橋本のしかめっ面を、バエルはじっと見据えている。


「マジだ」


 バエルは適当に言葉を反復したに過ぎなかった。その意味がおそらく「本当」に類似したものであると自然と判断したからだろう。


「マジだぞ」


 バエルは二度言った。


「ふっ」


 橋本はにやっと口角を緩めた。


「……あのさ」


 徐々に顔の緊張がほぐれていくのが目に見えた。


「ぷっ、はははははははっ! なんなのホントにッ! あははははっ!」


 糸がほぐれたように笑い出す彼女を、バエルは訝しげに見つめる。


「急にどうした。何がおかしい?」


「い、いやっ、ふはっ! ははははははっ!」


 腹を抱えて笑ったあとで、彼女は手を振りながら「ごめんごめん」と頭を下げた。


「いやぁ……なんだね」


 何かに関心したように話す橋本。


「リーゼント、その格好、その目付き――ザ・不良って感じなのに全然キャラ違う喋り方するからさ」


「キャラ?」


「キャラ作って喋ってるとかじゃないんでしょ?」


「キャラ…………、お前が言わんとしていることが人格を意味するものなら、特段それを取り繕っていることはない」


 淡々と述べるバエルだが――


(こいつは私の正体に勘付いているのか?」

 と、不安を拭えずに居た。


 一方橋本は、目前の不良少年が自分に悪意を持っているわけではないとようやく理解したようであった。


「面白いね」

 橋本はニコッと笑みを零した。


「ごめん。アタシが色々ムキになってた。謝る。本当にごめん」


 橋本愛華はターゲット故にあらゆる事象にネガティブで居た。バエルに対しても例外ではない。たとえ彼が思いやりを基にした行為で接してきたとしても、彼女はそれを悪いように捉えてしまう。


 自身が被虐者故に、被害妄想に陥っているのだ。


 だが、バエルへの見方に変化が生じた。彼が他とは違う奇抜な格好をしているにもかかわらず、それに似合わない丁寧な喋り口と、それからこれが重要な点――上原弓子達に敵意を剥き出しにしたこと――で、彼に抱く気持ちは一切否定的で無くなった。


「謝ることはない」

 頭を下げる橋本にバエルは言った。


「お前は何も悪いことはしていないのだから」


「ありがと」


 妙に優しさを感じる。橋本は彼が悪意を持っていないと断定した。


「あ、なんか聞きたいことあるって言ってたでしょ?」


「ああ、そうだ」


「此処、座りなよ」


 橋本はベンチの端に移動し、隣の空いている部分に手をぽんと置いた。


「では」

 と、バエルはゆっくりとベンチに腰を下ろした。


「で、何? 聞きたいことって? というか私もアンタに聞きたいことあるんだけど」


「まずは私からだ」


 バエルは目だけを彼女に向けた。


「実を言うと私は、少々のだ」


「疎い?」


「正確に言うと、この学校のことをよく知らない。お前や、他の生徒達が口にする〈ターゲット〉や〈アウトロー〉といった単語の意味がさっぱり解らないのだ」


 バエルの言葉に、橋本は目を丸くした。


「マジ?」


「マジだ。何も知らない。どうやら私は〈アウトロー〉らしいが、その意味はなんだ?」


「…………スクールカースト」


 橋本はか細い声を放った。


「此処、清潤高校には――生徒間の階級制度があるのよ」




 清潤高校に敷かれたスクールカースト制度の話を聞き終えると、バエルは自身が〈アウトロー〉と呼ばれる理由をようやく理解した。


「なるほど、つまり私のこの容姿が決定的な要因なわけだ」


「アンタが好んでやってるんじゃないの?」


 橋本は苦笑いを見せた。


(……フォルネウス、お前の助言を全て受け入れるべきではなかったのかもしれんな……)


 と、バエルは内心で苦虫を噛み潰した。彼の頭には、リーゼントヘアの不良キャラクターの魅力を喚くように語るフォルネウスの姿があった。


「ではお前は……ターゲット? だったか?」


「うん……そうだよ」


 どこか悲しげな面持ちで虚空を眺める。

 橋本は無意味にスマートフォンの画面を点けたり消したりしながら話す。


「ターゲットは基本的に誰からもイジメられる存在なの。ウィナーズだろうがルーザーズだろうが。ま、ほとんどの人は触らぬ神になんとやらって感じで、アタシに話しかけようとはしないけどね」


「一体何があった? 理由なしに被虐者に選定されたというのか?」


 首を傾げるバエルの顔を、横目でチラッと覗く橋本。それからわざとらしく笑みを浮かべて、


「さあね」

 と誤魔化した。


「アタシにもなんでこうなったのかさっぱりわかんないよ」


 彼女はこれ以上言及するなと立ち上がってはフェンスの方へ近づいた。

 網に手を掛け、屋上から見える都内の景色を目に映す。


「…………」


 バエルは彼女の表情を見て取れなかったが、その背中が悲しみを語ってるのは一目瞭然だった。


 悪魔であっても同情するのか――否、バエルは滑稽だとあざ笑った。


「くだらん」

 手足を組んだバエルは一笑した。


「そんなことで悩む必要はない」


 冷淡に述べるバエルに顔を向ける橋本。


「…………」


「誰になんと言われようと、どう思われていようと、自分は自分なのだ。それを忘れてはいけない。自分を偽ること、自分を欺くこと、そして、自分を殺すこと――――断じて成してはならない」


 橋本の眉が八の字に変わる。


「…………」


「カースト制度に敷かれていようが、負け犬の烙印を負っていようが、気にすることはない。奴らは見くびっているのだ。負け犬にだって牙はある。だが奴らは歯向かうとは毛ほども思っちゃいない。首輪に繋がれた哀れな子犬が牙を剥き出そうが、その牙が届かないと解りきっているからだ。だが、その立派な牙を生やしているなら、別に噛みちぎる物がある。首輪だ。加えて鎖も食いちぎると良い。解き放たれた負け犬の牙は憎悪に満ちた凶器。奴らの首筋を切り裂くようににして、その牙を尖らせれば良いのだ」


「…………はあ?」


「今のお前は、スクールカーストなどという下らん鎖に繋がれた哀れな子犬なのだよ。否、子犬ではない、狂犬だ。だがどうだ? 頑丈な鎖と首輪に繋がれているが故に、飼い主共は恐怖心を捨て去り、支配欲に駆られ、お前の自由は我が物だと勘違いしている。だが待て。お前は狂犬だ。鎖も首輪も気にするな。噛み千切れないなら無茶はするな。ただ、お前を撫でようと近づいてきた馬鹿共を噛み殺せ。泣き喚く愚か者にこう言うのだ。死にたくなければ鎖を外せ、首輪を外せ――ああ、そうだ、お前が解放された時、今度はお前が首輪をはめる番なのだ」


 真紅に染まった瞳で橋本を見据えるバエルは、彼女に悪魔的道徳を語っていた。彼は、橋本の内なる部分には復讐心に類似した何かが溜まっていると踏んだのだ。


 しかし橋本は、呆れ返った表情を見せていた。


「…………その喋り方、どこで覚えたの?」


 橋本の問いかけに、バエルは一瞬戸惑いを見せた。


「…………私の話を聞いていたか?」


「哀れな烙印って奴のこと?」


 橋本の反応を見てバエルは頭を抱えた。


 彼女にはウィナーズへの憎悪が無いのだろう、と判断した。


(……しかし、いつまでも耐えられるわけがなかろう。この女がターゲットと呼ばれる被虐者で居続けることは不可能だ。いつかきっと、精神がやられるか、もしくは……)


 バエルが思考回路を働かせている時、彼の耳に予鈴が響いた。

 聞きなれない音楽にバエルは「なんだ?」とすかさず立ち上がった。


「予鈴だ。急がないと!」


 屋上の出入り口へ駆け出した橋本に、バエルが尋ねる。


「これはなんだ?」


「五時間目の授業が始まるってこと! ほら急いで行かないと!」


 屋上のドアノブに手をかけた橋本は、そこで不意にある事を思い出した。


「そういえば……アンタ、何年何組なの? 普通にタメで話してるけど、先輩……じゃないよね?」


 恐る恐る尋ねる橋本に対し、バエルは淡々と応えた。


「一年三組だ」


 同じクラスであることに驚愕の顔を見せる橋本。


「……マジ?」


「マジだ」

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