第3話

 天界――そこは天使が統治する並行世界の一つ。

 黄金の楽園の別名を持つ天界は常に平和が保たれ、天界の民は皆天使によって護られている。


 天界の中心に浮遊する城塞都市エデンは天使が集い、日々天界の管理と別世界の動向を探っている。


 全ての天使を率いる熾天使してんしの称号を持つミカエルは、エデンの頂上に位置する『太陽の神殿』に居た。


 神殿の中央には『太陽剣たいようけん』と呼ばれる熾天使ミカエルのみが扱える黄金に輝く剣が飾られている。それは天使の頂点に立つ者のみが扱える代物と言われ、これを振るう者こそが天界の玉座に居座ると言われている。


 太陽の神殿は綺羅びやかな装飾が至る所にあるが、それらのほとんどに描かれている女性の絵は、天使を仕える天界の女神だ。


 熾天使ミカエルは女神にもっとも近い存在と言われ、すなわち天使の王は女神の次に敬うべき存在であった。


 美しく艶のある長い金髪に真っ白な肌、すっとした顔立ちに凛とした瞳、天使の王はまさしく美女であった。


 翼の模様をあしらった銀色の鎧を着る彼女は、考え事に耽っているような面持ちでじっと立っていた。


「ミカエル様!」


 そこに現れたのはもう一人の天使・レミエルだ。ミカエルとは違い、白いコートを羽織っている彼女は、ミカエルに忠実な部下の一人だ。銀髪のポニーテールに凛々しい顔立ちを示しているがどこか幼気にも見える。彼女もまた美女と言える容貌であった。


 レミエルは慌ただしい様子でミカエルのもとに駆け寄った。


「どうした?」


 ミカエルは訝しげな顔をレミエルに向けた。


「大変です! 魔界の悪魔が人間界へ飛びました!」


「何!?」


 ミカエルは血相を変えた。


「本当なのか!?」


「はい! レイラインに異常な魔力を感知したので詳しく調べた結果、恐らく――ソロモン七二柱の序列一位、バエルが人間界に行ったと思われます!」


 ミカエルはそれを聞き唇を噛み締めた。


 ソロモン七二柱のバエル――天界の民にとってその名は悪しき怪物の名。魔界の悪魔の中でも最強と恐れられしバエルが人間界に行ったとなると、ミカエルが想像する物事はあまりに残酷であった。


 悪魔達が人間界の侵攻を開始したのだと判断するには充分過ぎる理由である。


「……単独ひとりか?」


 ミカエルは人間界に乗り込んだ者がバエルだけなのか不思議に思った。


「い、今のところ確認したのはバエルだけです!」


「人間界に向かったのはいつだ?」


「今から……二〇分前かと……」


「……もうすでに人間界に到着していると思っていいな」


 怪訝な表情を浮かべるミカエルは神殿を去ろうと足を運んだ。


「どちらへ?」


 レミエルが問うと、ミカエルは振り返ることなく応えた。


「決まっているだろう! 私も人間界に行く!」


 ミカエルの返答に対し、レミエルはすぐさま彼女のもとへ駆け寄った。


「お待ち下さい! 今不用意に動くのは危険です!」


「事が起きてからでは遅い。奴が何かしでかす前に、私が奴を止める!」


 神殿から出たミカエルは壁に覆われていない空中廊下をせっせと歩く。その後ろを追いかけるレミエルは彼女を制止しようと努めていた。


「しかしあまりにも急すぎます!」


「だから私一人で行く」


 ミカエルは立ち止まって言った。


「天界の頂点、熾天使の一人である私が単独で人間界に行く」


「何を仰っているのですか!? ミカエル様お一人で行くのは危険過ぎます! 相手はソロモン七二柱のバエルですよ!?」


「魔界の連中が何を考えているかは知らんが、人間界に危機が迫っているのは明白だ。我々天使がそれを放っておくわけには行かない」


「しかしお一人で行かれるのは――」


 レミエルの言葉を遮るように、ミカエルが彼女の肩に手を置いた。


「自分で言うのも何だが、私はお前たちを治める天使の王だぞ? 舐めてもらっては困る。それに、私には太陽剣がある。忌まわしき悪魔の一人をも斬れぬような軟弱者に成り下がりたくは無い」


 ミカエルは再び歩き出した。


「しかしお一人で行かれなくても! 私も同行致します!」


 レミエルはミカエルを追い越し、彼女の前に立ちふさがった。


「ならん。お前には重大な役目があるだろう」


 ミカエルは瞼を閉じて冷静に応えた。


「人間界に行ったのがバエル一人ならば、何かしら企てているに違いない。だがそこに天界の勢力を全て導入するわけにも行かんだろう。もしもその隙を突こうと魔界の者共が押し寄せてきたら誰が天界を守る?」


「…………それは」


「バエルについては私一人でなんとかする。後のことは頼んだぞ」


 ミカエルはそう言うが、しかしレミエルは未だ納得していない様子だった。


「しかし!」


 とレミエルが反抗の意思を示そうとした時、彼女たちの後ろでかつんと足音が響いた。


「レミエル、もう止しなさい」


 済んだ声色と共にこちらに歩んでくるのは、熾天使の一人、ガブリエルだ。淡い桃色の長髪を腰辺りで束ね、純白のドレスに身を包んでいる。右手の人差指には淀んだ蒼い結晶を施した指輪をはめている。


 彼女の黄色に輝く瞳はレミエルをじっと見据えていた。


「ガ、ガブリエル様!」


 レミエルは驚愕した。


「騒々しいものですから何事かと思えば……」


 ゆっくりと歩み寄るガブリエル。


「魔界の悪魔が人間界に行ったというのは本当ですか?」


 ゆったりとした口調で問いかけるガブリエルに、ミカエルは、


「ああ、そうだ」

 と淡々と返す。


「今すぐにでも対処すべきだと思ってな。私一人で人間界に行こうと思う」


「ガブリエル様! どうかミカエル様をお止めください!」


 レミエルはミカエルの無茶な言い分をガブリエルに制御してもらいたかったが、しかし彼女の期待する言葉とは真逆のものが彼女の口から発せられた。


「わかりました。ミカエル、どうか無理だけはしないで」


「ガブリエル様!」


 レミエルは目を見開きやや肩を落とした。

 ミカエルは理解者を得たことで「ありがとう、ガブリエル」と軽く頭を下げた。


「ガブリエル様、どうしてお止めにならないのです!? ミカエル様お一人で人間界に向かうなど、あまりに危険すぎます! 相手はバエルですよ!? それにもしかしたら複数の悪魔が潜伏しているかもしれないのに!」


 レミエルは必死の形相でガブリエルに訴える。

 対してガブリエルはレミエルを諭すように笑みを浮かべた。


「レミエル、貴方の心配する気持ちはわかります。しかし、彼女は私達、天使の王。天界を守る役目を担っているのです。彼女自身が、人間界を、私達を護ろうとしているのなら、それを止める権限が私たちにありますか?」


「それでしたら私にも護る責務があります!」


「ええ、そうですとも。貴方は天界を護らなくてはいけません」


「そ、そういうことではなく! ミカエル様を護ろうと――」


 やや動揺するレミエルに、ミカエルが感謝の念を述べた。


「ありがとう、レミエル」


「ミカエル様……!」


 涙ぐむレミエルの横を過ぎたガブリエルがミカエルに言った。


「ミカエル、一人で人間界に行くのは構いませんが、ソロモンの悪魔と対峙することだけは避けなさい。太陽剣を握る貴方であっても、勝てるかどうか定かではないのですから」


「わかっている。無茶なことはしない。だが奴が人類に危害を加えるようなことをする素振りを見せたら――私は斬りかかる」


「それは魔界との戦争を意味するのよ?」


「人間界を護るためだ。私達天界の民にはその義務がある」


「……わかったわ」


 ガブリエルは納得し、未だ納得しないレミエルの顔を覗き込んだ。


「レミエル、彼女を信じなさい」


「うぅ……」


 レミエルは心配でしょうがなかったのだ。

 それは無理もない話だ。何故人間界にわざわざ一人で赴く必要があるのか? 相手はソロモン七二柱の頂点に座する悪魔だというのに……。


 レミエルはミカエルの実力を知っている。それは彼女に限らず、天使ならば皆知っている。その強さは本物だ。しかし、悪魔を相手にした時それが通用するかどうかは未知の領域なのだ。レミエルはそこが気掛かりでしょうがなかった。


「心配するなレミエル。必ず戻ってくるよ」


 ミカエルはレミエルの頭を撫でた。



◆◆◆



 太陽の神殿がある最上階から一つ下は『儀式の間』と呼ばれる、天界の様々な祭典や儀式の際によく用いられる部屋がある。


 儀式の間に入室する際に、その用途を述べることでそれに合った空間が生成されるという仕組みだ。


 ミカエルは儀式の間に入室した。別の世界へ赴く為、という理由のもとで生成された儀式の間には、『幻関げんかん』と呼ばれる石柱に支えられた巨大な門が建てられている。


 その側に暗い緑色をした大きな球体『起動石きどうせき』が台座の上に置いてある。天使はこれに魔力を注ぐことで、一見何の変哲もない『幻関』をレイラインゲートにすることが出来るのだ。


 ミカエルは起動石に右手をそっと置き、魔力を注入した。すると幻関の柱に刻まれた線が光を帯び、やがて柱と柱の間に異空間――レイラインが生成された。


 その様子を側で見つめているのはレミエルとガブリエル、そしてミカエルが単独で人間界に行くと聞いてやってきた天使ザドキエルだ。


 レミエルは不安な気持ちを胸に、しかし表情にそれを表さぬように耐えていた。

 ガブリエルは穏やかな顔を浮かべながら、ミカエルの名を呼んだ。


「ミカエル」


 呼ばれた本人はゆっくりと振り返った。


「これを――」

 とガブリエルは真っ白に輝く掌に収まる大きさの結晶石をミカエルに手渡した。


「クリスタル……か」


 ガブリエルが渡したのは『クリスタル』だ。これに魔力を注ぐことで、周囲にある他の魔力を有する生命体を感知することが出来る。魔力を注ぐといっても、魔力を持つものが所有しているだけでその効果を発揮出来る。逆にのだ。


「これを使って、ソロモンの悪魔を見つけると良いわ。もしかしたら、他の悪魔が混じっているかもしれないし」


「ありがとう。助かる」


 ミカエルはクリスタルを懐にしまった。


 するとガブリエルが急にミカエルに抱きついた。優しく抱きしめるガブリエルにミカエルは一瞬ぎょっとしたが、


「本当は心配なのよ……」


 とガブリエルが不安を漏らすと、


「大丈夫だ。私を誰だと思っている?」

 とミカエルは彼女の背中をとんとんと叩き、笑顔を零した。


 抱擁を終えた二人を眺めるレミエルは、


(私もハグしたい!)

 と内心で叫んでいた。


「では、行ってくる」


 ミカエルがそう言うと、彼女の背中から純白の翼が大きく開いた。天使は翼を用いて空を飛ぶのである。故に、彼女はレイラインを移動する際にも翼を使ってそれを成そうとしているのだ。


「そうだ、ミカエル!」

 と、ガブリエルが何かを思い出したようにやや声を荒げた。


「なんだ?」


 ミカエルはきょとんとした表情を向ける。


「人間界ではあまり翼を広げては駄目よ? 目立ってしまうから」


「そうか……。そうだな、空を飛ぶのは少し控えておこう」


「貴方が先に目立ってしまうと、悪魔むこうは警戒してしまうのだから」


「忠告感謝する」


 ミカエルは礼を述べた後、広げた翼を羽ばたかせた。


「いざ!」


 彼女は幻関を潜り抜けていった――。

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