第35話 後悔と願い






 アルヴァ様が死神に剣を突き立てる一歩手前、間に割って入り、天界を照らし染め上げた光は創世神様によるものだったそうだ。

 死神は元々冥界に閉じ込められ冥界神預りだったところ、創世神様預りになり、天界に緊張が走った事は早々と収束に至った。

 後の詳細は知らない。


 私が目覚めた部屋は知らないと言っても一応アルヴァ様の神殿の一室。

 女神様は厚意で来てくださっていたようで、話を終えると帰って行った。女神様を見送った私は引き寄せられるようにその足で庭を歩いた。

 キアラン様による嵐で被害を免れなかった庭は、思ったより酷い爪痕は残されていなかった。捲れあがった芝生は綺麗に生え揃えてある。残りは全部無い。芝生だけが元通りにされているのは召し使いたちによるものか。

 神殿の大きな柱は一本だけ、記憶が確かだったと如実に語る跡が残っていた。アルヴァ様が死神の分身を縫いつけ仕留めたときの跡。刃物が深々と刺さった跡と、ひび割れ。

 これは容易に直せないということだろうか。


 やがて四阿についたときも、薔薇園を語る薔薇はなく、四阿は元の清廉な飾り気のない様子。私は四阿に入り、通りすぎ、あの落ちる危険性のある場所に座った。

 時刻は夕刻辺りか。天界は夕陽を思わせる橙の光さえも柔らかい。


 私が前世、死ぬまでこの神殿で過ごした記憶。庭は、好き勝手した後はもちろん花がたくさん咲いていた。

 その次に今世でこの神殿に再び来たときの荒廃振りを思い出す。この庭があのようなことになった理由を予想出来ただろうか。





「そこに座るな。落ちる」


 どれくらい経った頃か、後ろから声がかかって我に返ると同時に呼吸が止まりかけた。


「……落ちませんよ?」

「万が一落ちれば、人間は死ぬだろう」


 前にもアルヴァ様は同じようなことを言い、同じような声をしていた。

 今なら分かる。彼は、私が死ぬことを恐れていたのだ。

 それがなぜだか理由は彼自身にも分からなかったというのだから、その感覚をどのようにして受け止めていたというのか。想像がつかない。


 いつもならすぐに振り向くところを、少し時間を要していると、背後から伸ばされた腕が私を囲う方が先だった。


「どうして泣いている」


 座ってぼんやりしていたはずの私の目からは涙が生まれ、アルヴァ様に声をかけられたときに自覚したから、隠す間もなかった。

 声は慎重に出したのに、気がつかれていた。


「何でも、ないです」

「何でもないことはないだろう」


 何でもないことはないけど、口で言い表せない。

 だから無言で涙を拭っていると、身体を反転させられ、アルヴァ様が目の前にいた。


 死神と対峙していたときの様子は霧散して、私と目が合った瞬間、アルヴァ様の黒い瞳が揺らいだように見えた。

 私の目に熱と共に新たに涙が生まれているから、そう見えたのかもしれない。

 ――アルヴァ様だ

 と、目覚める前にもアルヴァ様と顔は合わせていたのに、彼の姿があることが得難いことに思えて仕方なかった。この時、一瞬までもが貴い時に思えて、アルヴァ様の大きな手のひらが柔らかく頬に触れる温もりも、前よりもっと特別なものに感じた。


「俺は、ずっとお前を探していた」


 失っていた記憶を思い出した彼は、囁いた。

 絡む視線が切なく、弱く――この姿は今世で初めて見た彼の一部。


「お前が、そうだったんだな……」


 彼は一度だけ、かつての私の名前を呼んだ。


「俺が忘れていて、失望しなかったか」

「失望ですか……? いいえ、全く」


 なぜ失望なんてするのか。

 正直最初、キアラン様に明かされた直後に会い、見知らぬ者を見る目を向けられたときには前世まで否定された気分になったけれど、失望なんてしていない。

 また一度、はじめましてをして、一緒に過ごして戻りつつある姿と知らない姿を知った。それに、それは私だって言いたいことがある。


「私の方だって、容姿も、声も、性格も全く同じとは言えなくて、変わってしまいました」


 それなのに。


「アルヴァ様が好きだと言ってくださって、生まれ変わってもその言葉を聞けたことが幸せです」

「……それは、お前はお前ということだろう。どれだけ変わっても、根本は変わりようがない。だからきっと、俺は、何も知らずにお前にまた惹かれた」


 壊れ物に接するように頬を包む手のひらが、微かに震えた。


「アルヴァ様」

「――――」


 名前を呼んだ刹那に引き寄せられた腕の中で、私は唇が震えた。

 こんな時間が戻ってくるとは思わなかったという思いは、死に際の記憶がある今、強い。


「俺はお前を守れなかった」


 強く、この世界に私を留め置くように抱き締めるアルヴァ様が後悔と苦しみに満ちた声で言った。


「創世神に記憶を消される前、お前が死んでから何度も悔やんだ。人間が狙われていることを言っておけば良かった、目を離さなければ良かった、側にいれば良かった――お前が殺される前に、死神をどうにかしておけば良かった」


 彼が一人になった神殿で空虚な目をしているところが浮かんだから、私は喉の奥が苦しくて声が出せないけど、胸に顔を押しつけて首を横に振った。何度も。

 それは違う。

 アルヴァ様のせいではないから。そう言うことが出来ればいいのに、肝心なときに声が出ない。


「お前は戻ってこないと分かっていたから、なおさらどうすればいいのか分からなかった」


 そうやって引き返すところを見失った彼は、荒んでいく一方だった。

 私はその場にいなかった。見ていない。でもやっぱり思い出すのは荒れた庭と遠くを見るような瞳。

 二百年。神様にとっては少しの間と言えるかどうか私には分からないけど、私にしてみれば二百年は長い。前世で私と彼が過ごせた時間の何倍、何十倍になるだろう。


「シエラ、今度は俺の側からいなくなるな」


 神様なのに、アルヴァ様が祈るように頭を押しつけるから、私は堪らず手を回して彼を抱き締める。

 先にどこかに行ったのは私の方だったのだ。


「――誰がいなくなるなんて、言いました?」


 彼が望んでくれ、私の方こそ、側にいたくて仕方がないのだから。

 大好きで、愛しくて。


 私は人間だから神の手にかかれば抗いようがない。私が死んでアルヴァ様の側から消えたのは、正確には私のせいではない。

 けれどこの神様は物理的にとても強い反面、とても寂しがりやだ。だからより一層愛しくて、抱き締めるアルヴァ様を感じて、泣きそうで。

 突然、一人にしてしまってごめんなさい。


「あなたが好きです。アルヴァ様、前よりもっと」


 だからあなたの側にいたい。









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