第30話 狂気の神





 周りが夜になったのかと思った。

 宙に浮く、全身漆黒の衣が翻ったことが全ての原因ではなく、全身の毛が逆立つような嫌悪を覚える気配、雰囲気が感覚から錯覚させたのだ。

 その神は、神々に相応しくないような裾がぼろぼろな衣服を身につけていた。頭から衣服から繋がるフードを被って鼻より上は陰に隠れているはずなのに、奥に光る目が見える。


「――嗚呼、愚かデ、汚ナラシイ人間。天界を汚ス人間。誉れ高き神ヲ汚す人間よ」


 陰の奥で異様な眼光を宿す眼が三日月の形に細められ、唇と共に歪んでいる。


「な、に」


 空間に響き渡る、どこかぎこちなく、耳に絡みつく声が聞いたこともないほど不快。

 聞きたくないが耳が塞げない状態。それだけではなく、視線も釘付けになり、足も動かせない。

 自分の身体が自分の意思で動かせない状況に陥り、短い声を出すのさえ難しかった。


 ――恐れている


 あれを恐れている。感じる限界の恐怖を越えた恐怖を感じ、思考が止まり、動けず、いきなり何が現れ、起きようとしているのかがひたすらに分からない。


「シエラさん、お下がりを」

「キアラン様――あれは」

「あれが先ほど言いました、逃げ出した『死神』です」


 『死神』――罪を犯し、捕まっていたはずが逃げ出したという神。

 ――神の名に相応しく、顔の造形は見える限りでも整い美しいはずの神

 だが、表面の美しさに気を取られている状態にはならなかった。

 むしろぎこちなく聞こえる喋り方が完璧な神々とはちぐはぐで狂気のようなものを感じ、ぼろぼろの服装が増幅させる。

 話を聞いた時点で漠然と抱えていた不安なんて微々たるもので、想像を遥かに越えた、害しか感じない神に感じていた。

 内側から滲み出る、悪意。


「あれは天界にいる人間を狙います。絶対に前に出てこないで下さい」


 背中を向けたキアラン様が肩越しに目でも念を押す。私は無言で頷きを返した。


「そこノ神よ、ソノ人間を、渡セ。コノ天界を汚スものを、排除シテくれよう」

「断ります」

「神たる存在ガ、愚かなる人間を匿ウカ。――何と、愚カ、愚か。神を汚ス人間が、全テノ根元か!!!!」


 耳までも裂けた口から鼓膜を打つ声が放たれたが直後、衣服から出た死神の骨と皮だけの細すぎる手に黒い塊が表れた。黒い塊は瞬き一つする間に形を変え、伸び、鋭くなり、大きく婉曲した巨大な刃に長い柄がついた鎌になった。全てが漆黒、不気味な鎌。


「……シエラさん、念のため何かに掴まることをお勧めします」

「……え」

「それから庭を台無しにしてしまうことを先に謝罪致します」

「え、あ、はい……?」

「では」


 と、キアラン様が言うと、すぐには理解し難いことが起こった。

 吹いた風で乱れた髪が視界を遮り、いきなりのあまりの強さの風で、よろめき一瞬吹き飛ばされるかと思った。

 倒れるまでにはならず、体勢を立て直して顔から髪を退けることに手間取っているその間。

 景色が変わっていた。

 咲き誇る花で見事な景色が――ぶれた。

 荒々しい風が地上のものより丈夫で逞しい花を巻き上げ、植木も巻き込み吹き荒れている。風が速く、勢いが激しすぎるためにぶれて見え、風は神殿を中心に渦巻く――嵐の中心に神殿があるようだ。


「シエラさん、庭をこのようにしてしまい申し訳ありません。私にはこのような方法しか思いつきませんでした」


 はっと我に返ると、キアラン様が軽く振り向いていた。

 庭が台無しにされたことは言われて意識するともちろん衝撃的だが、今まで荒れ狂う激しい風に意識は持っていかれていた。


「いえ、大丈夫です。はい」

「私は外に行き、死神を追って来ます」


 死神の姿がなくなっていたことに、気がつくには遅かっただろうか。

 さっき死神がいた位置の他、見える範囲にあの不気味な姿はない。


「一時的に吹き飛ばし遠ざけることには成功したようです。あの神の力は予想出来ないことになっているので今から近づけないようにしに向かいますが、おそらく時間稼ぎになります」

「……あの、キアラン様って、聞いたことがなかったんですけど、何の神様なんですか?」

「……? それを今聞きますか?」

「いえ、気になって……」


 見た目と、明らかにキアラン様が起こしたと考えるべき光景が簡単には結びつかない。

 彼は何たる神様なのかと状況にも関わらず急変した環境に意識を引かれるもので問えば、キアラン様は「シエラさんには、聞かれたことがなかったでしょうか」と前置きしながら、こう述べる。


「私は、ご覧の通り嵐を司り創世神様に生み出されました神となります」

「嵐……」


 こんなに腑に落ちるのは、他ならないキアラン様によって作り出された環境によるはずだ。

 死神が見えなくなったことで、こんなときにも関わらず答えを得た私はそうだったのかと驚けばいいのか、今腑に落ちたこととごちゃ混ぜになる。


「では、外に近づき過ぎると飛ばされますので、気をつけて下さい」

「はい。キアラン様もお気をつけて」


 キアラン様が風吹きすさぶ中に消えて行く姿は、髪一筋も乱れていなかった。


 今ここにいても気を抜けば私はよろけそうになる。見ている感じのとんでもない勢いの風が中にまで入って来ないのは、キアラン様がそうしてくれているのだろう。

 もしもこの先に、庭にまで足を踏み入れると私は花のように風に煽られたあっという間に宙に浮く。

 死神が飛ばされるのも頷けるというものだ。


 慣れない環境に取り残された感じの私は、何もいない廊下に居心地が悪くて周りを見ると、召し使いたちを見つけた。


「大丈夫?」


 慌てて側に行くと、二人は浅く頷く。

 安堵した私は、どうしたものかとキアラン様が消えた嵐巻き起こる方を振り返る。

 現れた死神。


 ――「――嗚呼、愚かで、汚ならしい人間。天界を汚す人間。誉れ高き神を汚す人間よ」


 人間を執拗に狙う叫びに近い大きな声。

 あの死神は人間を狙うと言ったキアラン様。

 ここにいる人間は一人、私。狙われているのは私だ。

 時間を置いて、ようやく理解した。

 そして、私を見据えた底の見えない眼がまざまざと思い出され、悪寒が走る。左右を素早く確認してもいないのに気味が悪い。

 あの漆黒の鎌を持つ存在は、どこからでも滑り込んで来そうに思えて、恐怖する。

 怖い。

 現れた直後の恐れは現実味が薄れた、自分に何が起こっているのか分からない恐怖だったけど、今感じている恐怖は生々しい。


「キアラン様、大丈夫かな……」


 時間稼ぎになるとか言っていたような。

 外の嵐の向こうは見えない。


「――!?」


 背筋に気持ち悪い感覚が走った。

 咄嗟に目を向けていなかった背後を素早く目視すると、奥へと向かう廊下が長く長く続くのみ。

 何もいない。

 少し、敏感になり過ぎているのだろうか。あの存在を見た後では無理もない。下手をすれば夢にでも出てきそうなのだから。

 廊下に目を凝らして何もいないことを確認した私は、ため息を吐いて前に向き直った。


 その先に嵐吹き荒れる景色を見ることはなかった。


 ――闇が立ち上がり、私の前に立ちふさがる。不意討ちで理解出来ない恐怖にまた支配され、瞠目して見上げる前で、あっという間に作り上げられた姿。


(外に、いるはずじゃ……)


 少しの間だけ目にした死神とまったく同じ姿が、手にした鎌を振り上げ、降り下ろす。

 紛れもなく、私に向かって、私の首か胴かとにかくどこかを一刀両断するために、鋭い刃が風を切り、唸る。


 私は為す術なく、指一本動かず悲鳴も出ないまま、迫る刃を――――切っ先がぷつ、と肌を破った瞬間、刃が破ったのは肌だけではなかった。


 記憶の奥底、魂の最奥、ないことにされていたそれらを隠していた膜が破れ、見えた。


 ――私はかつて、この刃にかかったことがある





 ***







 私の前世の記憶は物心ついたときから、戦場を駆けている頃、アルヴァ様に出会い過ごした日々で構成されている。

 そして今世が始まったのは前世の幸せな記憶最中、突然生まれていたようにさえ思えぷつん、と糸が途切れたみたいだった。

 けれど当然それには次の生を迎える前にあるはずの続きがあったのだ。死を迎える瞬間が。


 幸せな記憶途中――何も違和感を感じない記憶が途切れた、後。全てが起こった日。



 あの日私は天界から地上に降り、故郷、家族の元へ帰った。

 普段は天界のアルヴァ様の神殿にいながら、時折地上に降りる。傭兵をしていたときと比べると、平和な里帰りだ。

 自由に降りられるようにと空を駆ける馬に乗り、実家に戻り、ちょうど家の前で妹に会った。

 家族にはアルヴァ様のことは話しており、容易に信じられないことながら、彼らはどうにか信じ、受け入れ、私が危険な戦場から離れることを喜んでくれていた。


 妹と互いに会わなかった間のことを話しながら家の中に入ると、先に帰って来ていた弟の一人も私が一緒に帰って来たことに一瞬目を丸くして、それから「お帰り」と笑った。

 次に「大雑把すぎてとうとう神様に追い出されたのか? 姉ちゃん」と悪戯めいた笑顔になって毎回言うことを言い、私が何か言うより先に妹が怒る。

 「そんなことを言うとお土産はあげない」と私がしかめっ面を作って言うと、「そりゃあないよ姉ちゃん。おれは、姉ちゃんの嫁の行き手が見つかったけど、だからこそ姉ちゃんが粗相をして追い出されないか心配してるのに」と弟が真面目くさった顔で言うので、思わず笑い、弟もにやりと笑って、妹もつられて笑った。


 笑い声が小さな家に満ち、もう一人の弟ももう少しで帰って来るのではないかというとき、唐突に凄まじいほどの悪寒を感じ、振り向いて――――闇の塊のような黒衣の裾を捉えたが最後、迫り来る刃に命を刈り取られ、私は死んだ。

 理解する間もなく、実に突然のことだった。


 その記憶の続きには家族やアルヴァ様の姿が続くことはなく、新たな生での記憶が始まっている。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る