第22話 きっとあなたの側に
キアラン様が降ろしてくれた場所は地上――草が踏みしめられすぎて地とぐちゃぐちゃに混ざりあった地だった。
混ざり合っているのは何もぬかるんだ土と草だけではなく、血が……血のにおいが染みている。
ここは戦場なのだと、傭兵としての身体機能は受け継がれていないので、記憶の感覚だけで察する。
激しい雨と雷を降らせる雲が天に厚くかかっていることで久しぶりに降りた地上は暗い。勢いの強い雨粒は肌にぶつかると痛いほどで、耳には雷の音が轟けど無視をして、私は豪雨により視界が著しく悪い中キアラン様を置いて走り出して――――アルヴァ様を、見つけた。
雨の中立っている姿がこの場所に似合いすぎて見えたから、彼を早く掴まえなくてはと急ぐ。
地に吸い込み切れなかった水が跳ね、足や衣服に飛び散る。靴の中には水が入ってくるけれど、降りしきる雨により地上に降り立ったときから全身はずぶ濡れだ。
「アルヴァ様!」
手を伸ばして掴まえたアルヴァ様も、私に劣らず全身が雨に濡れ、水が途切れることなく滴っていた。
一度呼んでも反応がない。項垂れ下を向いている顔を覗きこんで、私は驚く。
アルヴァ様が泣いているところなんて見たことないのに、一瞬、泣いているのかと思った。
すぐに顔に雨粒が流れ落ちているだけだと分かって、ほっとする。
「……シエラ」
「そうです」
反応もあって一旦胸を撫で下ろしたところで、アルヴァ様の様子が『いつも』には戻っていないと見てとる。
この場所に溶け込みそうに見えたにしては、戦場に似つかわしくなく声は覇気がなく、反応して私を見た顔が弱々しい。
雨に濡れて、髪が少し乱れ、服が重そうだからだろうか。神様も雨に濡れるのか、と天界に雨は降らないがゆえの些細な事実を知る。
髪が張りついた顔に触れると予想以上に冷たい。鋼色の髪を避けていると手を、頬と同じ冷たさの大きな手に掴まれた。
「アルヴァ様?」
「お前は、どうしてここにいる?」
「アルヴァ様を、探しに来ました」
「違う」
アルヴァ様が微かに頭を振ると、雨に混じり髪から滴が落ちる。
「どうして俺の元にいる」
「…………え」
「なぜ庭を整えた」
私に定められた瞳の黒が深く、見つめ、もう片方の手が伸ばされてくる。
手は頬に触れ、引き寄せる。
「俺の手を取り、笑い、側にいる」
「お前は、どうして俺を安らがせる」
どうして、なぜ、と彼は子供のように言い続ける。
「俺は、何か探し、探し続けていたはずが……お前といると安らぎ、いつの間にかその感覚を忘れていた。――それが怖くある」
怖いと戦を司る物騒な神様が言った。
「何か忘れてはいけないものだったと思えてならないのに、もう俺の奥底から忘れてはならない、探せと叫ぶものはない」
アルヴァ様には記憶がない。
本当にキアラン様の言った通りアルヴァ様が地上で私を探しているとしても、記憶がない。何を探しているのか分からない。
それが本当で、私が来て接することによってその穴が埋められているのであれば。
そうだとしなくても、私がすることは一つ。
自らの戸惑い揺れるアルヴァ様を見つめ、聞いていた言葉が途切れたことで、私は改めて彼を真っ直ぐ見る。
「アルヴァ様、帰りましょう」
まず、それだけを言った。
「帰って、また庭でチェスしましょう」
微笑んで、今度は私が言葉を重ねていく。
「アルヴァ様には安らぐ時間が必要です。安らぐのなら、それはいいことじゃないですか?」
何かを探していることには触れず、帰ろうと言う。
ここに探しているものはない。それが『私』にしても、他のものにしろアルヴァ様自身探す意識が失われているようだから。
「帰りましょう」
覗き込む黒い瞳は、私を映し続ける。
すぐに反応は返って来ないのは、彼自身の中でどうするべきか考え込んでいるのだろうか。
「……そうだな」
やがてアルヴァ様から一言落とすように発されたのは同意のことば。
また一つ安堵して微笑んでいると、私の手を掴んでいた手と、濡れた頬に触れていた手が離れる。
(……あ)
私は天界でアルヴァ様の手が離れたときを思い出して、一気に怖くなる。
姿が消えてしまう光景が脳裏に甦り、けれど――存在は遠くなるどころか近づいた。大きな身体が迫ってきたと思うと、背丈の差で覆い被さるように抱き締められていた。腕が背に回り、引き寄せられて、私の頬はアルヴァ様の胸元に押し付けられる。
「お前がどこにも行かないのなら。俺の側から消えないと言うのなら」
存在を確かめるように力の入った腕に抱き締められながら聞いた言葉は、アルヴァ様の漠然とした恐れがちらつくもの。
「……私はどこにも行ってないじゃないですか。アルヴァ様ばっかり外に出て」
前は知らなかった。この神様はとても寂しがりやで、何にも恐れることなんてないと思っていたけれど、何かを恐れる神様なんだ。
「私は側にいるじゃないですか」
大丈夫。側にいます。
――今度こそ。
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