第16話 平和な空気は心を緩める






 私がここに来て早二ヶ月ほど。

 何事もなく、平和極まりない日々が過ぎていく。


「……いい天気ですね」

「天界にいい天気も悪い天気もないだろう」

「……アルヴァ様の屁理屈」

「事実を言っているだけだ」


 こんな会話をしていても、のんびりとした空気が漂うことに変わりない。


「それで? それがこんなところで寝ていた理由か?」


 芝生の上に寝転んでいる私が真上に向ける目に映るのは、立って上から私を見下ろしているアルヴァ様。鋼色の髪が光を受けて輝いている。


「ちょうどいい場所があったので、つい……」


 太陽が見えないのにも関わらず、一日の半分は柔らかな光が降り注ぐ天界。屋根の下にいなければその恩恵を受けることになり、暑くも寒くもない環境と相まってそれはそれは気持ちの良い環境となる。

 神殿の広大な敷地内、広い庭のとある場所。芝生が敷かれ周りを背の高い植木に囲まれた、どこか現実から切り離されたようなところ。

 そもそも私にしてみれば、汚れ一つなくて清廉を思わせる天界という場所が、地上と比べると現実味が薄れ幻想的でさえある場所だけれど、慣れてしまうと別。


 庭を歩いている内に迷ってしまったのが事のきっかけ。かつてを過ごしたこともあり、今回ここに来てから二ヶ月ほどが経っているとはいえ、広いものは広い。

 この間も神殿の中で迷った。何の変鉄もない廊下ばかりだから、うっかり慣れたところ以外を歩き回ると、どんどんどこだか分からなくなってきたりして。歩き回った末にそこかしこのドアを開けて、あまり見覚えのない部屋ばかりがあって……。

 夕食時でお腹が減っていた私がさすがに楽観視を止めたとき、召し使いが通りかかって事なきを得た。

 廊下に、目印のために花を置くのは検討するべきかもしれない。こんなに広ければ全てを把握するなんて、私には無理だ。


 庭も同様。特に趣を変えて前世の記憶が辿れないことと、それから庭の広さに対して、いた期間約二ヶ月という要素が働いた。庭の計画を建てたとはいえ、全てを私の手でしたことではないので広大な庭の隅々まで把握していない。

 生け垣を迷路のように配置したところに来てしまったことが原因かもしれないが。

 私は今どの位置にいるのかと気がついたときには迷っており、植木の隅を通り抜けてみたらここにたどり着いた。偶然出来た産物とはいえ、良い場所を作ったものだ。

 まあ神殿の敷地内なので何とかなるだろう、と今日は昼食後で深刻さは一切なく、人目を気にする必要もなく芝生に寝転んだ。


「よく寝る奴だ」

「人間は時に抗い難い睡魔に襲われることがあるんです」

「最もらしく言うな」

「いえ、これが事実を言っているだけなので。……アルヴァ様もどうですか?」

「お前、起きているか?」


 失礼な、とほぼ口の中で言いながら、本当のところアルヴァ様の言葉に返しているけれど、寝起きで思考がろくに動いていない。

 私かようやっとゆっくりと体を起こすと、立っていたアルヴァ様が腰を下ろす。反応が鈍かったからかもしれない。


「実は迷っていたところだったので、アルヴァ様に会えて良かったです」

「迷って、寝ていたのか」

「です」


 眠さの残る目を擦っていると、アルヴァ様の手が頭を掠めていった。芝生がついていたらしい、黄緑の欠片が幾つか落ちて芝生に返る。

 アルヴァ様が微かに笑むことはもう珍しくなくなった。ぼんやりがなくなった目で見上げると、彼が微笑んでいたから、私はつられて笑った。



 四阿で真向かいに座る位置と姿ももう慣れた。『以前』はその隣に座っていたけれど、『今』はこれでいい。これでいいのだ。

 笑うアルヴァ様を見ていると、その笑みが多くなっていく度に嬉しくなる。微かに笑んで、些細なことかもしれないけれど嬉しくなって。

 彼はこんな神様ひとだったと思い出す。その姿に、記憶が重なる。

 二ヶ月前の彼との違いに、安堵し、懐かしさが増していく。


 でも、私の記憶の中にあるアルヴァ様により近づくにつれ、安堵と懐かしさと、――少しの苦しさと戸惑い。穏やかになっていくにつれ、包まれるにつれ、心地よい反面変な心地を抱く。

 固まってしまった『初対面』を経て、眠っている顔を見て、まさかかつて好きだったひとを再度目の前にしてこんな風にすることになるとは思わなかったからか。またこんな時間を過ごせるとは、つかの間の事だという意識があるからか。

 アルヴァ様が、私がかつて接していた姿にすぐそこまで近づいていることは悪いことであるはずがないのに、私の心の奥底が戸惑う。

 たぶん、私にはかつて彼がそうであった記憶があるのに、彼にはないから。同じ神様ひとなのに、状況の違いがあるからずれを感じている。


(ずれなんて、その内慣れる)


 だから今は穏やかな時間があることに思いを馳せればいい。


「いい場所ですね」

「……そうだな」


 私に視線を注いでいたアルヴァ様は、天界にいながらにして空を仰いだ。

 微風が緩く鋼色の髪を揺らし、耳飾りが輝く。その横顔は、とても、とても穏やかだ。

 この、かつてを思わせる空気の中。少し、聞いてみたくなった。


「アルヴァ様」


 アルヴァ様が私を見る。何だ?と言うように、私の言葉の続きを待つ。


「アルヴァ様は、どうして地上に降りていたんですか?」






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