13 たった一度だけ、勇気を
そして、今。
目が覚めて、時計を確認したら午後の八時を回ったところだった。
「っ……寝ちまった」
今更ながらにぼやく。こんな時間に寝てしまったら余計に体内時計が狂って眠れなくなってしまう。
僕はまるで自分のものではなくなったかのように重い体をぐいっと起こし、部屋の明かりをつけ、眩しさに目を細めながらベッドから這い出た。
「取りあえず夕飯かな」
食欲なんて欠片もない。ただ用意された分は食べないともったいないし、こういう時こそ無理にでも栄養を摂取しておくべきだと知っているので、僕は部屋を後にし、ダイニングに向かった。
ダイニングや台所、となりのリビングを見渡しても姉の姿はなかった。今はそれがありがたかった。
食卓には、レンジで温めるだけのシュウマイと、キュウリやレタスのサラダ、そして少し焦げた豆腐ハンバーグ。既に火が通っている出来合に焼き色を付けながら温めるだけの簡単料理のはずなのだが、まあまだ食べられそうなだけ良しとするか。
ご飯粒まで食べる気には流石になれず、取り皿におかずとサラダをよそって箸を取った。
こんな時でも一応食べ物は喉を通る。単純と言うべきか、薄情と言うべきか。それか、案外もう既に心は雪奈の存在を諦め始めているのかも知れない。
――どんなに優しそうな人でも、どんなに親しくしてくれる相手でも、いつだって僕が期待をした瞬間に離れていく。僕は孤独だ。今回もまた、上手くいかなかった。残念だ。でも仕方がない。僕は孤独だから。
淡々と夕飯を胃袋に詰め込んだ後、リビングで所在無くスマホをいじりながら、ああそう言えば今日は父さんも母さんも遅くなるって言ってたなあなどと思っていると、風呂から上がったらしい姉がやって来た。
「あ、起きたの。ご飯は?」
「もう済んだ」
「そう、お風呂も沸いてるから」
「ああ」
短い報告の応酬を終え、姉はおもむろにチューハイを冷蔵庫から取り出すと、向かいのテーブルに座って一口仰いだ。
「あーキンキンに冷えてやがるー!」
「それはよござんした」
「……そんな反応されるとお姉ちゃんが滑ったみたいじゃん」
「みたいじゃなくて、そうなんだよ」
僕は冷たくあしらいながら一笑に付す。
「賢一」
「ん?」
「ごめんなさい……」
そこで初めて僕が姉の顔を見ると、酷くしおらしい様子だった。雨に打たれた後の柳のようで、不意にドキッとしてしまった。
「……いいよって言ったら、嘘になる。でも恨んでもいない」
先日の、雪奈との間に起きた修羅場。その口火を切ったのは姉だった。そして同時に、僕は姉との間の共依存を自覚するに至ってしまった。
「それは、どういう……?」
「姉さんが悪いって言い出したら、今まで雪奈との関係をきちんと話さなかった僕も悪い。そうしたら、僕に大事なことは何も打ち明けてくれなくて、散々僕らを振り回した雪奈だって悪い。すると雪奈をあんな目に遭わせた家族も悪い。それなら雪奈の両親を産んで育てたその親も悪い……。そうやって際限なく追及しちゃうとさ、結局みーんな悪くて、僕にそれを責める資格もないんだよ」
そう言って肩を竦めてみせた。
「あんたの言うことはいつも回りくどいんだから」
「自覚はあるさ」
「でも、やっぱり、ごめん」
「……そう。じゃあ
「うん。ありがとう」
姉、綾香は柔らかな悲しみを含んだ笑みで答えた。
「じゃあそれはそれ、としまして。私から言いたいことがあります」
チューハイで口を潤わせてから、改まる姉。
「お、おう。聞こうか」
僕が答えると、姉はコホンと咳払いをして何かの助走をつけ、言った。
「諦めるな! もう全部が終ったなんて悲観してないで、全てをかけてあの子にぶつかってやりなよ!」
「なっ……!」
「あの子は確かにあんたを信頼していた。好きだって思っていた。色んなもの背負って身動き取れなくっても、今もきっとあんたが手を引いてくれるのを待っているよ! 連れ去って駆け落ちしてでも取り戻してみたらいいじゃん!」
その
「今まで私は、私だけがあんたの苦しみを癒せるって思っていた。そのためなら何だってするつもりだった。……でもそれは独り善がりだった。ずっと、あんたは懸命に自分の足で立って歩こうとしていたのに。もっと色んな人に愛されるべき存在なのに。私はずっとあんたを通してオナニーしていただけだったんだ……!」
決して下品ではない
「だからどうか諦めないで。手に入れたいと願ったものを、あんたを幸せにするものを、今度こそ逃さないで。無責任だけど、きっと何か手があるはずだよ!」
「姉さん……」
僕は衝撃のあまり全身が固まってしまった。その代わりに脳内はものすごいスピードで回転し、その言葉を
「……そうだよ。僕はまだあれから一度も雪奈に連絡を取ろうとしなかった。怖かったから。拒絶されることが、何も返ってこないことが。でも、本当に消えて欲しくないなら、待ってちゃ駄目なんだ……!」
顎に右手をあてがって、己の罪を告白するように呟いた。
「……」
姉は静かに僕を見守った。僕が殻を破り、その細い体で世界を開く瞬間を、じっと待った。
そして僕は、遂に己の殻にひびを入れるひな鳥の一突きを見出した。
「……これだ!」
にわかに立ち上がり、僕は自室へと歩みを急かした。まずは雪奈を何としてでも呼び出す。そして、その後は……。とにもかくにも、雪奈に送る文面は部屋で静かに練りたかった。
「姉さん、ありがとう」
「ん」
僕が声をかけると、姉はチューハイを口にしながら、僕の方には視線を遣らないでピースサインだけを向けて見せた。きっと、彼女なりの照れ隠しだったのだろう。
やはり姉は美しい。あらゆる所作が、人間臭いココロが、僕を魅了する。血が繋がっていなかったら、本気で惚れていたかも知れない。
でも僕が今惚れているのは姉ではないのだ。僕はそれを必ず取り戻す。人は運命に翻弄されて疲弊するだけの生き物ではない。本気で手に入れたいなら、千切れてでも手を伸ばすのだ。
かくして僕が送ったラインには、既読が付いた。返事も来た。僕らは明日、日曜、再会する。
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