12 悪夢

 ――十二日目


 それから二日が経っても、雪奈は見舞いに現れなかった。ラインにも一切の音沙汰はなかった。


 金曜日。今日も来てくれなかったということは、明日からの土日二日間は尚のこと来るはずもない。

 四日間も、あの日から雪奈に会うことができない。別れたきり。その事実は猛烈に僕の心身を蝕んでいった。


 人の心身は自律神経を介して密接に繋がって、相互作用しあう。僕のようにその神経が衰弱していれば、大きなショックは精神を弱らせ、そのるいが身体にまでダイレクトに及ぶ。

 詰まる所、僕の体調は最悪だった。


「……賢一。夕飯作っておいたよ。お姉ちゃん頑張っちゃった。だから一緒に食べよう?」

 僕の部屋のドアの前で姉が呼んでいる。その声がどかか遠くから響いて来るようだった。

「……うん」

 ドア越しに聞こえるギリギリの声量で返事をする。それだけで精一杯で、ベッドに横たえた肉の塊はちっとも動いてくれる気配はない。

 怠かった。こんなに強い倦怠感に支配されるのは久しぶりだった。血液の代わりに重たい水銀が身体を流れているみたいだ。神経が麻酔にかかったみたいに痺れて、筋肉がナメクジ程にもうごめいてくれない。

 怠さや疲労感はあまりに強いと、それはもはや痛みと変わらない苦痛をもたらす。今まさにそんな感じだ。怠気が鈍痛となって全身を駆け巡る。ああ、僕は毒を盛られてしまいました。

 昨日からずっとこんな調子だ。因みに不眠のあまり徹夜もした。

 だから姉が諦めて去っていく足音を聞いた時、僕の意識は灰色の暗い泥の底へと沈み始めた。


「馬鹿じゃないの」

 自分に向かって吐き捨ててみた。

「何で、こうなってしまうんだよぉ……」

 神をも呪い殺せそうな悲痛な声色で、人知れず嘆く。

 眠い。一度眠ってしまおう。

 眠って眠って眠り倒して、いっそこのまま二度と目が覚めなくなるまで眠ってみよう。

 ああ君は来ない。君が来ないからまた死にたいという感情を思い出してしまった。今更思い出しても遅いのに。


 君は罪な女です。なぜ僕に恋の果実を与えたまま去ってしまうのですか? その果実はエデンのリンゴより魔物です。渇いた僕は、まだまだその汁をすすり足りなくて胸を掻きむしっているのに!

 沈んでいく。意識が、泣き疲れた自我が。

 沈んでいく。

 沈んでいく。

 沈んでいく。

 沈んで……い……

 沈む……

 沈……

 ……


 …………………………………………――。




――一年と三カ月前


 まだ寒く、春の気配が遠くにちらつく三月のこと。

 僕は名古屋のアパートで暮らしていた。大学に通うため。

 苦労して入った国公立大学だったとか、そのおかげで両親は僕の一人暮らしを許可してくれたとか、そんな話は今はどうでもいい。

 僕はおよそ十四年必死で渡って来た「世俗の中で生きる」という縦走――切り立つ岩山を尾根伝いに歩き進むこと――の最中で、とうとう足を滑らせた。


 ――中程度のうつ病ですね。

 散々ためらった末にかかった精神科の医者にはそう言い渡された。寝つきをよくする一番弱い睡眠薬と、抗うつ薬を処方された。

 その錠剤は今、僕の手の平の上に転がっている。


 深夜一時。狭いアパートの一室。ベッドの側に置かれた背の低い小さなテーブルの上には薬局名が記された白けた薬袋と、錠剤を包装するPTPシート。そして、一枚の紙切れ――退学届け。

 もう決めた。これ以上は留まれない。

 僕の心身はついに容量のパンクを起こし、世俗への適応を拒絶した。今はとにかく、大学から、人間から、逃げなければならない。僕が線路に飛び込む、その前に。


「何やっているんだろうな、僕は」

 皮肉を込めて呟いた。もう三カ月も大学を無断欠席している。もう後期末試験にも間に合わない。リング上でダウンして、レフェリーが床を大きく叩いてカウントしている声が聞こえてきそうだった。それに応えて立ち上がることを諦めて天を仰ぐ敗北者がここにいる。

 だって大学にいたって誰も応援してくれないし。

 僕のことを案じて連絡を寄こしてきた者もいなくはなかった。でもそれも持って二週間だった。やがて皆に愛想を尽かされた。


 ――まあ、あいつのことはもういいや。

 ――好きにしろよ。うじうじと鬱陶しい。

 ――いっそ静かに死んでくれ。


 これが友情? 笑わせるな! できなかった。僕には畢竟ひっきょうするに、本物の友情を得ることができなかったということだ。仮初の馴れ合いの域を出ることが、ついぞできなかった。

 僕に居場所なんてない。ただ一人だけ、姉に会いたい。家に残って通学することを選んだ、優しくていつも僕の味方でいてくれた、今でも唯一連絡を取って心配してくれる姉に会いたい。


「怠い……何もしたくない」

 薬を飲み終えた僕は、何とか来ない眠気を引きずり出して夢の中に逃げ込もうと横になった。

 もともと料理は得意で自炊も立派にやっていたのに、ここのところ冷凍食品か即席麺しか食べていない。食べてはいるが、不味くて仕方がない。何とか一日に二回はそれを喉を通るように加工しては、胃に押し込む作業を繰り返して生命活動を維持する。特に目的もなく延命する。

「死にたい……苦しまずに、誰の記憶にも残らないように、消えたい……」



 気が付くと大学のキャンパス内にいた。

 広い敷地の真ん中に、大小様々な棟に囲まれた広場がある。僕はその広場の端に立ってそれを見渡していた。

 そこで僕は思い出す。

「そうだ、レポート提出しないと……」

 だが待て、僕はまだそのレポートに何も書けていない。ほぼ真っ白だ。だってそうだろう! 怠くて、気が滅入って、文字なんか全く集中できないし、調べて考えて文字に書き起こすこともままならないのに。

 少し休ませてくれよ。もう間に合わない。どうしよう。このままじゃ終わる。

 焦燥感と不安で頭が真っ白になってかがみ込んだ。浅い呼吸をしている。


 ――ふと、僕の周りに人影が立っていた。それは確かに同じ学年学科の知り合いのはずだった。なのに顔がよく見えない。目だけが描写されていない漫画のようだ。顔無しだ。

 それが僕の周りを取り囲んでいる。皆僕を見ている。睨んでいる。そしり笑っている。見えない悪意がピリピリと皮膚を刺す。

「止めろ」

 震える声で呼びかける。しかし人影はゆらりゆらりと迫って来る。その包囲網を狭めてくる!

「止めろ、来るな!」

 僕の顔は恐怖でくしゃくしゃに歪んでいた。だが今度は激しい怒りが胸の底から湧き上がって来た。憎悪と呼んでもいい。

「ああああああああ!」


 絶叫し、目の前の人影に飛びかかる。

 殺してやる! 僕を否定する奴なんか、僕を追い詰める奴なんか、皆殺しにしてやる!

 掴みかかり、その顔を何度も拳で殴りつける。何度も、何度も何度も何度も何度も!

 気持ちがいい、最高に気持ちがいいぞ! こんなにスカッとするものなのか。感情に任せて、ああ今僕は憎き偽善者たちを、僕から魂をむしり取る連中に一矢報いているのだ。こんなに簡単なことだったのだ。殺してやる。そして僕の無念を知るがいいい……!



「っはあ!」

 ぱっと景色が暗転した。

 僕は自室のベッドの上にいた。

 そして僕は、「夢の中」でそうしていたように、枕を全力で殴打おうだしている最中だった。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 何だ、これ……?

 ようやく正気に戻り、べこべこに凹まされた枕をぎょっとして見つめる。

 僕がやったのか? 眠りながら、夢の中の意識に連動して、眠りながら殴っていたのか?


 脱力し、仰向けに倒れる。

 まだ心臓が早鐘を打っている。胸のそこから黒い水が溢れ出て、ざわざわと毛虫が這い回るような気持ち悪さだけが残った。それは強すぎる負の感情の残滓ざんしだった。

 僕はいよいよおかしくなってしまったのだと実感した。本当にこのままでは明日にでも死んでしまっても不思議ではない。僕は一体どうなってしまったのだろう。


 深い絶望感と虚無感きょむかんが、狭く暗い僕の世界により深く打ち込まれたのだった。

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