11 斜陽に泣く

「無責任なこと言わないで!」


 怒声がリビングに響き渡り、水に打たれたように場が静まり返った。突然のことに僕も雪奈も言葉を詰まらせていた。


 姉は今にも泣き出しそうな、それでいて毅然として敵に立ち向かって毛を逆立てる野良猫のような顔をしていた。


「あなたにこの子の何が分かるの? こいつはずっと傷付いて、それでも何度も立ち上がろうとして、その心労で弱り切ってしまったの。頼る友達もいない。父さんにも母さんにも期待されなくなってしまった。色んな病院に行ってみても、治療法を片っ端から試してみても、……私が精一杯の愛情を注いでも、まだ足りないの。まだ立ち直れないの! こいつ強がりだからさ、きっとあなたの前では平然としているんだろうけれど、色んなものを失って今とても大変な時なのよ! だから身勝手な同情や、面白半分で付き合っているなら、もう止めて。構わないで!」


 そう一気にまくし立てて、姉は肩で息をした。頬は興奮で赤く上気し、瞳は情熱的でありながらどこか虚ろにくわっと見開かれ、自分でも感情の歯止めがかかっていない様子だった。

「姉さん……」


 そこで僕はようやく感じていたもやもやとした気分の正体を掴んだ。僕は恐れたのだ。今まで姉だけが僕の味方だった。淫らな慰めも、普段の忌憚きたんない接し方も、今の僕に情を注いでくれるのは姉さんだけだったはずだ。

 そこへ、雪奈が現れた。僕の孤独を癒し、またこの苦しみを理解してくれ、姉よりもずっと僕の傷がよく見えていた。だからこそ、雪奈の存在と関係性が知られれば僕ら姉弟は今までの関係ではいられらくなることを、お互ずっと解っていたのだ。だから僕はそれを恐れて、初めから姉にも彼女の存在を隠していたかったのだ。


 きっと、これは共依存なのだろう。僕は姉がいないと寂しく苦しい。姉は自分がいなければこの子は駄目だと思い、その感情が麻薬のように浸透し、いつの間にか脱しがたい快楽をもたらしていた。共依存だからこそ、その関係は些細なことで変容する。僕らの絆などは実は盤石ばんじゃくたるものではなかったのだ。もっともっと繊細なものだったのだ。


 その時だった。

「ふふ……」

「雪奈?」

「くっふふふふ、あはははははははは!」

 雪奈が壊れた。

「ひーひー、ぐふっ、あははは」

 こみ上げる笑いを何とか抑え込もうとする様はいっそ狂気であった。何なのだ、一体どうしたというのだ?

「あなた、何が可笑しいの?」

 自分の激高にまさかの爆笑で反撃を喰らった姉はすっかり勢いを殺がれて大人しくなってしまった。雪奈はすくっと立ち上がって、威嚇をするように両手を横に広げてみせた。

「あーあ。だって可笑しいんですもん、実際。人の事情を知りもしないでよくそんな自己中心的な愛情を盾に言えたものですね」

「事情……?」

「私だって色んなものを失っているって話ですよ。身勝手な同情? 面白半分? これを見ても同じことが言えますか?」

 そう言うと雪奈は自分のスカートの裾に手をかけた。そしてそれをゆっくりとまくり上げていく。僕は思わず目を逸らそうとしたが、雪奈はそういう意図ではなかった。その手は自分の下着が露出する寸前で止まった。


 露になった白い太ももには別の意味で目を逸らしたくなるようなものがあった。

 横一直線に付けられた、何本もの傷跡。とうに止血していて赤黒くなっているが、それは切り傷だった。こういう類の傷を何と言うか僕は知っている。レッグカット。ためらい傷。

 前後の文脈を無視すれば甘い甘い誘惑になるその妖艶なポーズに、乙女の無垢さを汚す赤らんだ生々しい縞模様。美しいと、一瞬思ってしまった。その後に理性が追い付いて、彼女が抱える闇の深さの、予想を遥かに上回るところを痛感した。


「雪奈、君は……」

 僕のその声で雪奈は別次元にシフトしていた意識を取り戻したかのごとく、正気の宿った目で僕の方を振り向いてくれた。そして、申し訳なさそうに苦笑した。

「ごめんなさい。多分、お兄さんが思っていた私の悩みってもっと浅くて、私が頑張ってあなたの苦しみに寄り添おうとしていたと思っていたかも知れません」

 そう言ってスカートをまくっていた手をぱっと放した。紺色のスカートが気怠そうに物理法則に従って、元の場所に戻った。


「私の家は母子家庭です。母は画家です。母の絵を理解できず離れて行った父から付けられた傷を埋めるように、母は兄と私に絵を強制しました。私たちは必死になって絵を描いていましたが、やがて兄との実力の差、才能の差が如実になっていきました。母は私を見限り、『絵の下手な人間は家には必要ない』と言われました。兄は日ごろのストレスを私にぶつけるようになりました。ぶったり、馬鹿にしたり、恥ずかしいことを一杯させられて、触られました。私の家は私の場所じゃありません。あそこは地獄です」

「っ……!」

 その傷が、ああして体に表れたのだ。話を聞いた僕はそう思った。実際は違う。法外な心労によって心が歪み、負の衝動を紛らわす行為として少女は体に刃を入れる。でも、そうした心の傷は度を越せば何らかの形で体にも出るものなのだなと、僕はそれを真理めいて直観した。彼女のためらい傷、僕の神経衰弱。


「あなたは、賢一をどうしたいの?」

 姉は目の前の得体の知れぬ脅威と不道徳を前にしても、視線は揺るがず、核心的な質問を投げかけた。

 雪奈は小さく息を吸い込む。覚悟を決めるように、目蓋を閉ざした。


「――心中しようと思っていました」

 その告白は、先日膝枕をされながら言われた「好き」という言葉なんかよりもずっと強い破壊力を持って、無慈悲に空間を揺らした。

「そんな……嘘だ。まさか最初から?」

「もちろん最初の最初は単なる偶然でしたよ。でもお兄さんが神経衰弱だって聞いて、もしかしてこの人なら一緒に死んでくれるかもしれないって思ったから、お見舞いに行こうと決めました。だってそういう人って自殺しそうじゃないですか?」

 身も蓋もない言い方だが、それは間違っていない。少なくとも僕に関しては。今までこの人生を呪って死にたいと、消えてしまいたいと何度願ったことか。

「そして、決め手になったのはお見舞い一日目の、お兄さんの言葉でした」

「僕の……?」


「――色んな不安が重なった時に、ふっと死にたくなる。でしたっけ?」

「……!」

 それは、願わざる奇跡のシンクロ。僕も何度か、その言葉が後に雪奈が不意に涙を流した理由に繋がるのではないかと推理していたのだが、ここでパズルのピースが埋まってしまう。

「私も同じことを思っていました。学校はまだ楽しい。でも私は自立できないから、生きるためには家に帰らなきゃいけない。いえ、家に行かなければ・・・・・・いけない。あそこには私を突き放した母と、私を穢す兄しかいない。友達の家を頼って家出もしたことあるけど、ずっとそうして甘えてもいられない。私は飼い殺されている。将来どうしたいかなんて、絵しかなかった私にはもう分からない。どこへ足を出そうとしても暗くて、脆い。どこにも行けない。不安で、怖い。生きているだけで苦しい。そうやって考えていると、急に来るんです。どうしようもなく死にたい欲求が」


 ふうっと息継ぎをするようにひと呼吸を置く雪奈。姉は神妙な面持ちで、いや、何も言うことができずに黙って突っ立っていることしかできなかった。

「でも、一人で死ぬのは苦しそうだし、怖い。それになんか寂しい。だから、死ぬなら誰か愛せる人と心中がしたいって思っていました。心中に憧れていました。ほら、私ってモテるんですよ。だからそういう人もすぐに見つかるさって思って、ちょっと影のありそうな男子に積極的に声をかけたりしてみたり。……でも駄目ですね。彼らは私の好意とか、もっと言っちゃいば体しか求めていないんです。不幸ぶった面を被っておいて、自分は当たり前の、普通の幸せを享受できると根拠もなく信じていて、そのくせ何の努力もしない。私の周りにいたのはそんなつまらない男子ばかりでした」


 そして悲しげな笑み――それは自分への哀れみか、自分の体を求めた男子への当てつけか――を浮かべる。

「僕は違うと言いたいの?」

 僕は他の二人が立ち上がっているのにも関わらず一人座ったままなことにやりにくさを覚えて立ち上がりながらそう問いかけた。

「謙遜しないで下さい。お兄さんは私の理想そのものでした。私は確かにあなたに想いを寄せました。あなたとならこの生きる苦しみを終わらせられると、本気で思っていました。……でも、正直今はその思いが揺らいでいるんです」

「どうして?」

「そんなこと!」

 雪奈が僕と向かい合い、一瞬声を荒げて食い付いたが、すぐに視線を落としてしまった。

「……そんなこと、決まっているじゃないですか。お兄さん今は自殺したいなんて思っていないでしょう?」

「それは……」


 そんなことない、今でもこの世から消えてしまいたいと思っているよ。その言葉が出てこなかった。言おうと思っても舌が回らなかった。

 にわかに冷や汗が首筋を這い落ちてゆく。いつから僕は希死念慮に駆られなくなった? 今はまだ生きていてもいいかも知れないと思うようになっていたのだ?

「やっぱり、お兄さんはとっくに自分の苦悩を乗り越えられていたんですね」

「違う! 今でも僕は……」

 雪奈は聞かなかった。

「いいんです。これは私への罰なんです。自分のことを見てほしくて、下らない願望を叶えてほしくて、自分の苦しみを他人に押し付けてっ……身勝手に他人を巻き込んでっ……全部台無しにしてしまう。……ひぐっ……私にっ……相応しい破滅なんです」


 嗚咽おえつが混じる。雪奈は、泣いていた。

 そこにいたのはマイペースで気丈な乙女でも、底抜けに明るい少しませた不思議少女でもない。この世の不条理に押し潰され、傷付き、孤独と不安に慟哭どうこくする一人のか弱い、確かな「僕と似た者」だった。

 雪奈は鞄をぐいっと掴み取ると早足の内に玄関の方へ去ろうとした。

「待って!」

 僕は急いで追いかける。行かないでくれ。今君が行ってしまったらもう二度と会えなくなるかも知れない。怖い。君を失うのが怖いんだ!

「雪奈!」

「今日はっ! ……もう帰ります」

 突き放すような一声。その後に続く、優しく諭すような言葉。ずるいよ、そんなの。

 新月の夜闇のように黒いローファーを急いで履き、雪奈が振り返る。

「本当にごめんなさい。……さようなら」

 まだ涙も乾ききらないまま、雪奈は玄関を飛び出して行ってしまった。

 僕は裸足のままその後を追いかける、走り去っていく消えそうな背中。まだ間に合う。今の僕がかけることのできる、ありったけの言葉。絞り出せ!


「待っているから! 僕は待っている。だから、まだ逝くな!」

 はたとその足が止まる。雪奈は微かに振り返り、言った。

「はい」

 表情はうかがえなかった。そして走り去った。すぐにその姿は建物の影に消えていってしまった。

「雪奈……」

 ちゃんと、届いたのか。この言葉が、いや、この想いが。まだ足りないだろうか。僕が雪奈を繋ぎ止めるために必要なものは、何だ?

 膝をつき、うな垂れた。

 やるせなかった。僕らは似た者同士だったのに、お互い想い合ったはずなのに、僕が生きることに希望を持ってしまったばかりに取り返しのつかないひびを入れてしまった。

 いや、これは僕が悪いのか? それとも雪奈の自業自得だとでも? でなければ雪奈を責め立てた姉か?

 嫌だ。そんな風に誰かのせいだないんて、言いたくない。耳を塞いだ。ひぐらしの鳴き声でさえ今は五月蠅い《うるさい》。夕景の紫雲でさえ目障りだ。


 ああそうだ。世間だ、世の中が悪い。そうに違いない。このどうしようもない世界が悪いのだ。それなのに、僕らにどうしろと言うのだ? 教えてくれ。教えてくれ。教えてくれ!

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