中ノ下 明かされる真相、深層、心想
10 避けられぬ崩壊の足音
――十日目
九日目は雪奈とまたゲームをして遊んだり、飼い猫のコロンを捕まえて二人がかりでブラッシングをしたりしていた。コロンはブラッシングをしようとしてもすぐに逃げようとしてしまうが、夏に移ろいつつあるこの時期には大量の抜け毛が家中に散らばるものだから、多少強引でもブラッシングをしてやる必要があった。
こうして野上雪奈は台風により警報が出ていた日と休日を除いて、今日まで毎日僕の家に通って見舞いをしていった。
午後四時半。今日もまた雪奈は玄関であいさつを済ませると、当然のように家に上がり、リビングに入って黒猫のコロンにもあいさつをした。猫全般に対してどうかは分からないが、少なくともコロンにはすっかり慣れたらしく、彼の好きなお尻(背中からなぞって尻尾の付け根に当たる部分)をさすって可愛がった。
今日雪奈が持って来た見舞いの品はチョコレートチップが入ったクッキーだった。小麦色に程よく焼きあがった生地に、チョコレートチップが鉱石のように埋まっている。
「美味しそうだ」
「どうぞ、召し上がれ」
ソファーの隣に腰かけた雪奈が今か今かと感想を待っている。一旦学校に持っていかなければならないという都合上、雪奈の差し入れは必ずこのような焼き菓子だ。でも
「いただきます」
サクっと軽やかな音を立てて口の中でクッキーが割れる。チョコレートの濃い甘味とひりっとする苦味が薄味の生地と絡み合い、何とも言えない至福が広がる。
「……うん」
今更分かりやすい反応などは見せずに、ただふむと頷く。それだけで雪奈にはこのクッキーの是非が分かったようだ。
「ふふ、よかった」
そう言って笑う雪奈の表情は、その時だけは無知で無垢な乙女のそれだった。僕はそれを美しいと思った。愛しいと思った。一緒にいたいと思った。
「こんな情けない男と一緒にいて嫌にならないか?」
「どうして今更そんなこと聞くんです?」
分かっているさ。これは前振りだよ。
「僕もいつまでも家でごろごろとしていたくはない。君と君を知る人たちに恥じることないよう、社会の中で何かの立場がある人間になりたい。最近は特にそう思うんだ」
すると、雪奈は僕の傷口を診るかのように眉間にしわを寄せた。
「でも、神経衰弱が障害になっているのではなかったんですか?」
そう言われて、僕は少し視線を落とした。
「そうさ。世の中は厭な所だ。でも己の怠惰にかまけて遁世していることと、苦悩を押してでもしっかりと自分の足で立って生きていくことを天秤にかけたら、僕は後者を選択する。自分がそのくらいには立派な人間であると、信じたい。だからこそ今この病だけが僕の前に立ち塞がる。
……体が、鉛を埋め込まれたように怠い。一時間ちょっと、こうして君と話して、遊んでいることはできる。その後夕飯の用意をすることも、風呂を入れることも、きつい時もあるけどどうにか習慣的にできる。でもその後『歯を磨くこと』がどうしても辛い。書店で気になった小説を読んでも目が文字の上を滑っていく。眠る時に胸がざわざわして眠気が来ない。一時間で眠れればいい方だ。どれだけ寝ても疲れが取れない。なのに肝心な時に眠れない。
何をしようにも億劫で、疲れやすくて、通院のために電車を乗り継いで名古屋まで出かけた日には全ての気力を使い果たしてしまう。半年前まで免許を取るために自動車学校に通いもしたけど、もうそれで精一杯だった。時間もうんとかかった。一日車を運転しただけで翌日まで寝込む日も少なくなかったよ。それで……」
いつになく
「えと、それで何が言いたいかって言うと……あれ? どういう話だっけ」
つい感情が先走ってしまって、初めに心の中で話そうと思っていたことを忘れかける。一旦冷静になって頭の中を整理してみた。そう、神経衰弱のせいで自立したくてもできないというような話をしていたはずだ。
「そうだ。だからこれから僕はどうしたらいいんだろうって、そういう話だよ。ああ、たいしたことじゃなかったね……」
そう言って僕は深いため息を吐いた。何かもっと格好つけた高尚な話をしようとしていたと思っていたが、蓋を開ければただ僕の焦りを雪奈にぶつけたかっただけだった。
「いいえ。不安なのは分かります。でも私だってたいした人間じゃないんです。高校生っていうラベルを剥がしてしまえば、きっと清々しいくらいに空っぽな奴なんですよ」
そう言って雪奈は自虐的な微笑を浮かべた。
「結局、僕らは一体何のために生きているんだろうね」
「哲学的ですね」
「いいや。もっと原始的な問さ。言ってしまえば、こうまでして生かされる価値があるのかなって話。……ああいや、雪奈がどうこうって訳ではなくて、僕が……」
「いいですよ。そんな風に気を遣ってくれなくたって、私は分かってますから。でも、私はどうやったらお兄さんの苦しみを取り除いてあげられるでしょうか……」
雪奈は出された麦茶のグラスを傾け、褐色の液体を眺めていた。
「もう十分取り除いてもらっているよ。これ以上は返しきれないくらい」
「お兄さんは強がると自然に気障なことを言いますよねえ」
また随分と的を射たことを言われ、僕は閉口した。
ふと、玄関の戸がガラガラと開かれる音がした。
まさか、姉さんが帰って来た?
雪奈も時同じくして、
「あれ? 誰か来ます」
と呟いた。声色にちょっとの焦りが見えた。彼女も今となっては僕との密会を暴かれるのは好ましくないと思っていたようだ。と言っても僕が女子と友達になったという事自体に関してはもう姉にばれてはいるのだが、まさかこうしてしょっちゅう家にやって来ているとは姉も思っても見なかっただろう。
そろそろ年貢の納め時かな。僕は半ば観念した気持ちでソファーを立った。
果たして、姉は玄関を上がってリビングに入って来た。
「ただいまー……って、あれ?」
僕に声をかけ、やがて部屋の中の異変に気付く。
ソファーに腰かける一人の女子高校生。しかも健全な男子なら誰ももが振り返るであろう目見麗しい美少女だ。普通なら今の僕との接点などあるはずもない部類の人間。考えられる可能性は、一つ。
「もしかして、あんたの言ってた最近出会った友達って……」
「そう。彼女がその友達の野上雪奈だよ」
僕は今更申し開きもせず、ただあるがままの事実を述べた。
「あ、ええと、野上です」
雪奈は立ち上がって小さく会釈をした。思った以上に顔が強張っている。
姉はしばらくそこに立ち尽くして「ほー……」とよく分からない声を発していたが、やがていつものような明るい笑顔を作った。
「いつも賢一がお世話になっておりますー。なんて」
「姉さん。今日は……」
僕は何とも形容しがたい閉塞感に駆られ、後の続かない言葉を発してみる。なんだろう、この息が詰まるような感じは。
「ごめんね邪魔しちゃって」
そう言った姉の口調は至って穏やかなもので、嫌みではあるもののそこに何かしらの悪意は感じられなかった。別に、いつも通りの僕らの会話だ。
姉はリビングに接したダイニングテーブルの上に鞄を下ろすと、飲み物か何かを漁りに冷蔵庫へ向かった。
その間に、雪奈が僕の手を引いて言った。
「あの、私今日はこの辺でおいとまさせてもらいますね」
「ちょっと居づらい?」
僕が優しく問いかけると、雪奈はこくりと頷いた。僕が気にしても、雪奈は姉と会ったくらいでは気にしないと思っていたが。まあ姉がいることは言ってなかったし、僕らの関係も進む所まで進んだ以上余計顔を合わせづらいのもあるだろう。
僕としては他にも何か、喉に刺さった魚の骨のように引っかかるものがあったが、まあそれは雪奈に関係ないこと。
「じゃあ、また」
「はい」
そして雪奈が通学鞄に手をかけたとき、サイダーを注いだグラスを持った姉が引き留めた。
「待ってよ」
少し顎を引いて、真剣な眼差しで雪奈を捉えていた。僕は姉と雪奈を交互に見遣り、頭の後ろを掻く。
「はい」
雪奈は冷静に、社交的な明るさをもって返事した。向こうの出方をうかがっているいるように見える。
「ちょっとくらいお話してこうよ。別に取って食おうって訳じゃないんだし」
姉はそう言ってこちらへ歩いて来て、テーブルを挟んでソファの向かい側へ。スツールを引っ張ってきてそれに腰かけた。それからサイダーを一口。
「ほら」と促されて、立ち上がったままだった雪奈はソファーに腰を下ろした。僕もそれに倣う。
「初めまして。私は吉見綾香。大学に行っているわ」
「あの、私のことはお兄さんからどこまで聞いていたのですか?」
「前にダム湖の公園で偶然出会って仲良くなった女の子がいるってことまでは聞いてたよ。こいつ秘密主義だからあんまり話してくれないんだけどさー」
そう言って姉は僕に流し目を使った。僕は照れたせいで居心地が悪くなり、咳払いをしてごまかした。
すると、今度は雪奈から口を開いた。
「私それからずっとお兄さんのお見舞いをしているんです」
「ちょっ! 雪奈っ?」
この子、あっけらかんとした笑顔でさらりととんでもないことを口走りおった。麦茶を口に含んでいたら危うく吹き出していたところだ。
「いいじゃないですか。私たちもう浅からぬ関係ですし、ここであいさつも兼ねて説明しておいた方が後々面倒もないと思います」
涼しい顔で言う。ああやはり雪奈は正常運転だった。鉄面皮の超マイペース少女だった。
「だからもうちょっと言葉を選んでってば!」
「ちょっと……それ、本当なの?」
姉が短く切り込んできた。喉元からギリギリと錆び付いた金属の音がしそうな声色をしていた。にわかに顔色が険しくなったのが見て取れた。だめだ雪奈、それ以上は喋っては!
だが、雪奈も雪奈で何かの衝動に駆られるように止まらなかった。
「はい! 神経衰弱で苦しんでいると言っていたので、私が少しでも力になれればいいと思って……」
「無責任なこと言わないで!」
怒声がリビングに響き渡り、水に打たれたように場が静まり返った。突然のことに僕も雪奈も言葉を詰まらせていた。
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