8 通わす心の温み

「何で僕にここまでよくしてくれるの?」


 自分でも驚くくらいにすっと、さっきまでの疑問を野上に投げかけた。今なら自然に聞ける気がしたのだ。

「まだそんなこと気にしていたんですか?」

 野上は少し不満げに頬を膨らませた。何だ、本気で僕のことを信用しているのか?

「多分これ、真面目に答えた方がいいですよね」

「ああ、そうしてくれ」

「じゃあ言いますけど、私お兄さんのことが好きなんです」


 ドン! と心臓が電気ショックを加えられたように跳ねた。

 裏返ってしまいそうな声を押さえつけながら、僕は慎重に言葉を探した。

「ちゃんと真面目に答えろって言ったら、怒るよね?」

 すると、僕の言外の意味を察したのか、野上は至って穏やかな表情で返した。

「言いたいことは分かります。どうして自分のような人間にここまで好意を寄せるのか。どうして一度見舞いに訪れてくれるに留まらず、一緒にゲームしたり、果てはこうして膝枕をしたりくれるのか。会ってそんなに長くないのに、年も離れているのに、どうして自分なんかにって、そうですよね?」

「肝心なことが抜けている。どうしてこんな神経衰弱で頼り甲斐の無い社会不適合者なんかに、もだ」

 すると僕の頭を撫でていた野上の左手が急に頬をつねった。

「いたたた」

「あえて言わなかったんです。ばか」

 ばか、という言葉が頭の中で甘く反響する。僕は自分の卑屈さを恥じた。


 野上がこほん、と可愛らしい咳払いをした。

「話を戻しますよ。で、そのどうしてかって話ですけど。それはですね……似た者同士だと思ったんです、私たち」

 刹那せつな、僕ははっとして目を見開く。

 似た者同士。

 君も、同じことを思ってくれていたのか!

 野上が初めから僕に好意、もとい興味を持ち続けていた理由を、今ここでようやく確信することができた。はらわたの中に、すとんとあるべきものが収まったような感じがした。

「僕も、そうなんじゃないかと思っていた」

「本当ですか? だとしたらちょっと恥ずかしいかも」

「どうして?」

「いえ、ずっと何の悩みもない底抜けに明るい女子高生ってキャラで行こうとしていたんで。でも、とっくにボロは出てましたもんね」

「それはもう」


 そして、どちらからともなく笑い合った。

「でも、それを聞けて安心した。僕の思い過ごしだったら失礼だなとか、普通の女の子がこんな風に理解を示してくれるのも変だって思ってたから。でも、正直僕と同じような悩みを抱えているようには見えない」

「まあそれは、私は別に神経衰弱を患っている訳でもないですし、独りぼっちっていうんでもないです。ただ、前にもちょっと言ったかも知れませんけど、家族と仲が悪くて……」

 そう言って野上は僕の髪をくるくると指で弄び始めた。

「絵を描かされているって言ってたよね。それに関すること?」

「覚えていてくれたんですね。まあそんな所です。だから生きるのが嫌だなって、思うこともあるんです。お兄さんに出会ったとき、なんか目が私とそっくりに見えました」

「僕の目が? 一体どこが?」

「うーん、何て言ったら……。そうですね、どこへ行ったら良いか分からない。自分がどこに立っているのか分からない。迷子みたいな目、みたいな感じですかね……」

 迷子みたいな目、なるほどそうかも知れない。野上の目はそういう風には見えないが、時折不安定になった時に見せる表情には、確かに思い当たるものがあった。

「言い得て妙、だね。家族とは酷い喧嘩でもしているの?」

「あ、えと、そんな感じです。ごめんなさい、この話は今は……」

「ああごめん。無理に話す必要はない。言いたくないこともあるだろうし」

 僕はそう言って話を切り上げた。


 野上に何か深い悩みがあるのかとは思っていた。そしてそれによって心に傷を負っているだろうことも。家族との不和、というのはいかにもな悩みの種だろう。それも十代という多感な時期にあっては尚更。

 僕も中学高校時代、まだ神経衰弱を発症していない頃も人間関係に悩み、傷付き、途方もない孤独感と虚無感に苛まされたものだ。そして、学校も家族も、それぞれがそう簡単に逃れられるものではない。

 生きるこがいやになるのも、むべなるかな。

 正直、僕の悩みに比べたら、なんて思うけれど、大事なことはそこじゃない。野上と僕が同じ痛みを抱えた似た者同士であるという認識、連帯感を共有し、僕自身がより野上に好意を持つことになったことが、この場において極めて価値のある事実だった。


「野上、僕は君のこと……」

 野上が示してくれた好意に返事をしなければならないと思って口を開いたが、彼女が指を僕の唇に押し当てて制した。

「あの、お返事のつもりでしたら、今は結構です」

「……どうして?」

 僕は珍しく落ち着き払っていて、眠そうな声で尋ねた。

「私たちは特別な関係でありたいからです」

「それなら……」

 僕からも想いを告白するのが道理じゃないか、と言おうとしたが、野上は首を横に振る。

「特別っていうのは、世間から見て、です」

「もっと僕にも分かるように説明してくれ」

「お兄さんはこういう抽象的な言葉のやり取りが好きだと思ったのですけれど?」

 野上は挑戦的な笑みを浮かべる。癪なので、僕もその言葉の意味をじっくり噛み砕いてみる。


「ありふれた友達や、恋人の枠には収まりたくない。そういうこと?」

「正解です。私たちは一言では言い表すことのできない、特別な関係です。だから、今こうしている。これで十分なんじゃないかって、思うんです」

 今こうしている。

 僕の家のリビングで、野上雪奈が僕のことを膝枕している。お互いの悩みをさらけ出している。体と心で触れ合うこと。

 その繋がりを、今確かな幸福感に包まれて感じているこの瞬間。

 確かに、

「十分だねえ……」

 そっと目蓋まぶたを閉じた。

「その代わり、ですけど」

「ん?」

「私のことは、これから雪奈って呼んで下さい」

「えぇ……」

「ちょっ、何ですか! その、『結局恋人にありがちなことさせるんだー』って顔は! いいじゃないですか。名字で呼ばれるのは、なんかよそよそしくありませんか?」

 今日一番に顔を真っ赤に染めている。抱きしめたい。

「別にそんなことは……まあ、確かに僕もいきなり下の名はまずいかなーと思って野上って呼んでいたとこあるけれど。……はぁ、いいよ、雪奈」

 僕はアンニュイな言葉の勢いに任せて一思いにその名を呼んでやった。

「はい」

 雪奈はこの世で一番穏やかで美しい表情で頷いた。


「……」

「……」

 しかしそれも束の間。すぐに顔を赤らめて目を泳がせた。そして僕もそれにつられてしまった。

 馬鹿馬鹿しいほどに、初々しいな。

 雪奈がまた僕の頭を撫で出した。

 今度は僕も頭から伝う快感に抗いことを止めた。気持ち通じ合い、僕が彼女に遠慮を感じる必要もなくなり、この快楽に抵抗する意味はなくなってしまった。

 そうすると、どんどんと引きずり込まれていくことが分かる。


 温かく、浅い海だ。

 太陽の光が水中に白く透明な斜塔となって差し込み、辺りは緑や桜色のサンゴ礁だ。肌の熱を奪わない柔らかい海水が、群がる子供のように無邪気に僕を海底へ押し込もうとしている。息はちっとも苦しくはない。むしろ、いつもより呼吸が楽にさえ感じられる。口からコポコポと吐き出される泡が踊っている。

 一度身を委ねてしまえば、何と心地よいことか。

 雪奈が僕の頭を撫でるたびに、頭の中を這いずり回っていた蛆虫たちがころころと落ちていく。安心する。こんなに気分が安らぐのは何年振りだろう。


「眠たいですか?」

 雪奈が尋ねる。

「うん。このままだと寝てしまいそう」

「それは構いませんけど、その前に、ちょっと失礼します」

 すると雪奈はぐっと腰を折って前かがみになった。当然僕の頭は雪奈の太ももと胸に挟まれる形になる。

「んん!」

 くぐもった叫び声を上げる。息ができないほど圧迫されている訳ではないが、顔の右側を雪奈の胸に押し付けられ、冷静でいられるはずもなかった。

 普段主張はしないものの、決して小さくはない双丘は柔らかく、女子特有の甘い香りが容赦なく鼻腔をくすぐる。それに何をしているのかもぞもぞと動くので、胸が形を変えて僕の頬とぶつかり合った。

 理性が弾け飛びそうになる寸前で、雪奈は上体を起こした。

「よいしょっと。ごめんなさいお兄さん」

 そう言って僕の顔を見ると、僕が酷く赤面して目を回しているので、ようやく己の破廉恥に気が付いたようだ。

「あ! 本当にごめんなさい。まあ、これはいわゆるサービスシーンというものに過ぎません。致し方ない犠牲です」

 ちょっと冗談めかして言うあたり、やはり雪奈は自分自身が性的な目で見られることに対する羞恥心は人より薄いのだと感じた。


「く……今度からは気を付けてくれ。それで、何してたの?」

 そう尋ねて雪奈の方を見遣ると、その手に一本の耳かきが握られていた。ベージュ色をした竹製で、匙のような先端のもう片端には綿毛の塊、梵天が付いている。

「それは……?」

「耳かきしてあげます」

 雪奈は得意げだ。ふと左に顔を向けてみると、ソファーに合わせた低いテーブルの上に雪奈の通学鞄が置いてある。さっきはこれを漁っていたからああいう格好になったらしい。

 しかし、人に耳かきしてもらうなんて果たして何年振りだろう。幼少期はよく母に耳かきをしてもらっていたもので、僕はその時間が大好きだった。だから大して耳が汚れていないのにせがんだりもして、もっと自分の耳が早く汚れればいいのになんて思っていた。

 そんな思い出が蘇った所で、雪奈を母に重ねる気持ちにはならない。だが雪奈に対して強い母性を感じて、胸の底から温かい液体がこみ上げてくる心地がした。

 思えば、僕が雪奈に心を惹かれていったのも、彼女から溢れ出る包容力を感じていたからなんだなと、今になって気付いた。確か、こういうのを「バブみ」と言うのだったか。


「もう好きにしな」

 そう言って左向きに体を回転させる。僕の視界から雪奈の顔が消え、右耳が露出する。同時に左の頬が雪奈の太ももに密着した。ああ、後頭部で感じるよりもずっと温かい。バターのように溶けてしまいそうだ。

「じゃあ、いきますよ」

「うん」

「……本当にいきますよ?」

「分かってるけど、どうかした?」

 僕が不審がって尋ねると、雪奈は「あはは」と苦笑いをしながら言った。

「私、人に耳かきするの初めてなんで、万が一の保証はし兼ねないと言いますか……」

 つまり、誤って深く耳かきを突っ込みすぎて痛かったり、最悪鼓膜を破ってしまうかも知れないということだ。確かに小学生の時友達にそれで母親に鼓膜をやられた奴がいたっけ。

 でも、

「大丈夫」

 本心からそう言った。

「怖くないんですか?」

「別に、こんなことで今更ビビらないよ。それに、のが……雪奈にだったら最悪殺されてもいい」


 そう言った時、雪奈がはっと息を飲む音がはっきりと聞こえた。ちょっと気障すぎたな、と反省。でも、雪奈は変な所に食い付いてきた。

「それは、本当ですか……?」

「んな真に受けなくていいよ、恥ずかしいから。まあ冗談でもないよ。雪奈なら、別にいい」

「お兄さん……」

「もういいから始めてよ」

 僕は堪らなくなって雪奈を急かした。体を横に向けているので雪奈がどんな表情をしているのか分からない。ただ声色から喜んでいるらしいことは分かった。


「じゃあ、今度こそ」

 自分に言い聞かせるような宣言の後に、僕の耳たぶに雪奈の耳かきが触れた。始めは耳穴の周りの溝をなぞるように、優しく慎重に掻いている。サリ、サリと小気味のよい音が木霊する。

 気持ちいい。さっき頭を撫でられたのとはまた違う快感だ。耳かきは今でも自分でやっているが、他人からしてもらうとこんなにも違うものなのか。いや、きっと雪奈にしてもらっているからこんなに良いのだ。

「どうですか? 痛くはないですか?」

 そう尋ねる声に、小さく「うん」とだけ答えた。

「じゃあ今度は中に入っていきますから。痛かったら言って下さいね」

 直後、耳かきが耳の表面から穴の方へと移っていく。途端に快感が倍増した。血行がよくなったからか、心理的な原因なのか、カーっと耳が熱くなった。同時に意識が霞み始めてきた。心理的な緊張に押し留められていたままだった眠気が、せきを切ったように押し寄せてくる。


 幸せだった。眠りに落ちていく過程が心地よい。その間の、記憶が残らないような瞬間を、じんわりと味わっている。現実がぼやけていく。山吹色の夢幻をたゆたう。もう死んでもいい。

「ふふ、おやすみなさい――」

 そんな声が聞こえた気がした。そしてそれをとどめに、僕の意識は完全に沈んでしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る