7 膝枕してあげます

 ――八日目


 月曜日。

 僕と野上はテレビゲームに熱中していた。


「よし、もらった!」

「わ、落ちる落ちる!あー」

 相手を画面外に吹き飛ばすか下に落として戦う人気の対戦ゲーム。

 ここ数日は、野上は見舞いに来るとこのゲームで遊んでいくようになった。

 ゲーム自体はほとんど触ったことがないらしく、最初の腕前は酷いものだったが、本人は気に入ったらしくぐんぐんと飲み込んでいった。今では僕が手加減すれば結構いい勝負をするようになった。

「あーあ、もうちょっとだったのに」

 野上が悔しそうにしている。

「いや、三日でこれだけ上達すればたいしたものだよ」

 僕は本心からフォローを入れる。

 台風の日以降、野上が訪れたのは木曜日と金曜日の二日。土日は家族が家にいるため見舞いは遠慮してもらっていた。だから野上とゲームをして遊ぶのは今日で三日目ということになる。

 ちなみに、土日の間に野上からラインが送られてくることはなかった。僕は少し残念だったが、付き合っている訳でもないのに毎日のように連絡を取り合うのも変な話だ。僕もそういう束縛は嫌いだし、野上のような執着の薄そうな人間ならば尚更だろう。

 僕らにとって大切な時間は、野上が見舞いに来てくれるこの時だ。僕は養生の間の孤独を癒してもらい、野上は僕の友人として……。


 ……友人として、何だ?


 僕ははっとした。テレビ画面に映る自機を操作しながら、心は全く別の所にあった。

 友人として何だ?

 野上雪奈は僕の何がどうして、今見舞いを続けてくれているのだっけ?

 僕は分からなくなった。そう言えば、何でこんなことになったのだろう。途端に現実感がさーっと波が引くように薄れていった。


 ――そうだ、元はと言えば一週間と一日前、僕があのダム湖の公園で自動販売機の下に落ちた小銭を探していた野上に出会ったことがきっかけだった。

 僕が野上に代わって綺麗な五円玉を拾って渡し、そのお礼として神経衰弱により療養ニートな僕の見舞いに来てくれることになったはずだ。

いや、でも、

 ――別にこれは取引ではありませんよ。ただ私がそうしたいと思っているからそうするんです。

 とあいつは言っていた。

 別にあの時の恩返しのために見舞いに来ている訳ではないのだ。ただあの時偶然話をして、妙に気が合って、仲良くなったためにまた会おうと約束したのだった。

 それだけのことのはずだ。それでいいんだ。

 忍び寄る幸せ。いつの間にか訪れた光。そういうことであるはずだ。


 それでも、僕は迷う。

 この関係が僕にとっては幸せなものだとしても、野上はどうなのか。

 本当にこのままでいいのか。

 それは関係を発展させたいという僕のエゴではない。この関係をいつまでも続けていて、それが野上のためになるのかという心配にも似た感情だった。

 野上は社会との繋がりも、大学を卒業して就職するというレールも神経衰弱というある種の呪いのために失った僕を哀れんで、ずっと毎日のように見舞いに来てくれているとでも言うのだろうか。

 確かに野上は優しい心の持ち主だが、知り合ったばかりの年上の男にそんなことをしようと思うだろうか。

 それでは惰性か?ここで僕を見放したら可哀そうだという、共依存的な感情がそうさせているのか。


 隣でゲームに興じている少女の横顔を見遣った。

 無邪気で、心の底から楽しそうにしている。

 やはり単なる友達としての付き合いのつもりなのだろうか。彼女は部活動もアルバイトもしていない。放課後のこの時間なら毎日見舞いに顔を出すくらいの余裕はある。

 だが、そこでふと脳裏をよぎったのは、初めて見舞いに訪れた日に見せたあの涙。

 ――ごめんなさい。私も何で泣いているのか分からなくて。

 野上がただの無邪気で人懐っこい、ませた少女ならば説明がつかない点がいつもあった。

 その時も、僕が神経素弱の苦しみを話した後、涙を流した。僕は野上の表情をうかがう前に、何て言っただろう。確か、


 ――色んな不安が重なった時に、ふっ……と、死にたくなる。


「っ~!」

 今思い返して、会ったばかりの少女に何を言いているんだと恥ずかしさで死にたくなった。

 だが、その後も時折見せる野上の悪い方向で意味深長な言動を考えると、もしかしたらその言葉に何かを感じて無意識に涙を流したのかも知れない。

 同じ痛みを抱えている。

 似た者同士。

 確証なんてない。ないが、僕は野上との逢瀬おうせを重ねるにつれて、その直観を拭えなくなっていくのを、感じていた。

 そうでなければ説明がつかない、という出来すぎたこの夢を見ているかのような状況を飲込むための思い込みというのも、否定はできないが。


「やった、勝った!」

 僕の葛藤かっとうをよそに、野上が歓声を上げた。

「あ」

 僕の自機はうっかりステージの穴へ落下していきゲームオーバーに、他二体のCPUを含む四体のキャラクターの中で、野上が最後まで生き残った。

「初めて勝てたー」

 コントローラーを置いて勝利の余韻に浸る彼女を見て、何だかこっちまで力が抜けてしまったような気がした。

「次はCPUのレベルを上げようか」

「え、そうしたらまた勝てなくなっちゃいます。まだこのままにしてー」

「はいはい」

 取り留めもない会話が、心地いい。救われる。

 目頭を指で押し込み、目の神経をほぐす。一時間近くゲームをしていたら結構頭が疲れてきたみたいだ。もっとも原因は他にもあるが。

「大丈夫ですか?体辛いですか?」

 僕の様子を見た野上が心配そうに詰め寄ってきた。いい香りがする。駄目だ、幸せすぎて吐きそうだ。

「大丈夫」

 僕は反射的にそう言って立ち上がる。

「少し休憩しよう」

 キッチンに向かい、冷蔵庫から麦茶を出した。今では水の代わりに麦茶を出している。始めは野上の好みが分からないので水を出しいたが、麦茶は好きだと言ったのでいつも家で飲んでいるこれを出すことにした。

「ありがとうございます」

 麦茶の注がれたグラスを受け取り、喉を潤す。僕はテーブルを挟んで野上と反対側に行き、ソファーに腰かけた。

「……」

「……」

 こういう時、沈黙をどうしたらいいのか分からない。別に、絶え間なく会話などをねじ込むことが友達ではないとは思うが、何か話題を振らなければという思いに駆られる。

 野上が僕のことを(恋愛的意味合いではなく)どう思っているかと悩んでいた手前、その沈黙が余計に肌に刺さる。

 ひとまず、季節の話題からでも始めようか。

「暑いな、最近。クーラー入れようか?」

「ですねー。でも扇風機で十分だと思いますよ」

 野上は麦茶をなめるようにちびちび飲みながら答えた。

「じゃあ扇風機回そうか」

「はい」

 僕はリモコンで扇風機のスイッチを入れ、風量は中に設定した。

「お兄さん」

「なに?」

 今度は野上から話しかけられた。

「体調は大丈夫なんですか?」

「うーん、そんなに疲れて見えるかな?」

 そう言いながら頭を掻いた。

「確かに最近また寝つきが悪くて、そんなに眠れていないけど」

 これはごまかしなどではなく本当のことだ。


 神経衰弱の代表的な症状の一つが不眠。僕の場合特に寝つきが悪くて、眠るのに三十分から一時間以上、酷い時は徹夜になってしまう「入眠障害」が強い。それと真夜中や早朝に目が覚めてしまう「途中覚醒」。

 今日も四時ごろに目が覚め、それ以降寝付けなくて結局ずっと起きていた。質の悪いことに、目が覚めてしまっても十分な睡眠がとれたわけではない。

 満足に眠れないというのは、日中の活動力を下げ、ただでさえ鉛のように重苦しい倦怠感を増幅させる。忌々しい、本当に忌々しい症状である。せめて規則正しい睡眠をとることができれば、この病もぐっと回復するだろうにと、何度もこの不眠を呪った。

「やっぱり。なんだか今日のお兄さんはぼーっとして疲れているように見えたから」

 ぼーっとしていた主たる理由は他にあるが、それにしても大した洞察力だと感心した。

「そうだったのか。自分では普通にしているつもりだったんだけど」

 それを見抜かれたことが恥ずかしくて、僕はまた頭の後ろを掻いた。


 僕はとにかく自分というものを人に見抜かれることを嫌う。

 見抜かれたから何だ、分かり合えた証拠じゃないかと、世間は言うだろうが、僕はそうは思わない。見抜かれるということは、弱点を晒すということ。それだけ他者から呪われる危険が生じるということなのだ。

 僕はずっと周囲から掴み所がないとか、変わっているとか言われてきた。僕はそれを表面では困ったような反応をしておきながら、内心喜び、安心していた。自分の正体を見抜かれないことで、自分のアイデンティティを保ってきた。

 だからこそ、野上のようなたまにいる鋭い人間は苦手だ。距離を置きたくなる。

 でも、不思議なことで、野上に対しては、同時にくすぐったい感覚を覚えるのだ。

 これを恋だと言ってしまえば単純なことなのかも知れない。野上の言動に対する全ての反応が、恋という感情への抵抗だったとしたら、それはそれで説明がついてしまう。


 ――ああ、君の気持が知りたい。僕は果たして君を想ってもいい存在なのでしょうか。

 ふと、野上が立ち上がり、僕の横に座ってきた。距離を詰められた。逃げ場がない。でも心臓は気分の高揚のために脈打つ速さを上げている。

「ど、どうしたの?」

 ああ、噛んでしまった。格好悪い。

「ふふ」

 野上が優しく微笑んだ。同時に、何か企んでいる顔をしている。

「お兄さん、私が膝枕ひざまくらしてあげますよ」

 そう言って自分のももをポンポンと叩いた。

 ひざ、まくら……?

 一瞬思考が停止した。

「君はまたそうやってからかう」

 努めて平静を保つが、頬から耳にかけてが熱くなる反応は制御できなかった。

「私は本気ですっ!」

 野上はにわかにムキになった。その顔は、どこか拗ねていた。

「そうやって私を突き放さないで下さい」

「野上……」

 彼女は至って真剣、大真面目だった。自分が示す好意を、素直に受け取ってもらえないことへの怒りを持っていた。

「そういう顔されると、その……あれだ……」

 ごにょごにょと口ごもってしまう。が、何とか切り返すカードを脳みそから引っ張り出す。

「これも見舞いだってか?」

 すると、野上が呆れたようにため息を吐く。

「お兄さんがそうだって思うならそれでもいいです」

 わざと含みのある言い方をしてくる。やっぱり口では野上が一枚上手だ。

「それで、どうするんですか? 膝枕されるのは嫌ですか? して欲しくないんですか?」

 いいや、一枚どころではないかも知れない。これが全て計算して出た言葉だとしたらぞっとするが、野上の場合は純粋な感情が必死で探し出した文句なのだろうから、愛嬌がある。

「本当にいいのか?」

「だから本気だあって言ってるじゃないですか」

 間延びした声でもう一度自分のももを叩いて合図を送ってくる。

 据え膳食わぬは男の恥。何も情事に誘われた訳ではないが、それなら尚のこと、ここで拒んでうら若い少女に恥をかかせるのは男として情けない。

 嫌な訳がない。理性さえなかったなら、とうにその膝の上に飛び込んでいるところだ。

 ええい、ままよ。後は野となれ山となれ。

 僕から左を向いた野上を背にして、頭をゆっくりと膝の上に下ろしていく。何度か「乗せるよ」とか、「失礼します」とか言いたくなったが、図々しい所作も年上の男性性だと思い我慢した。


 ――ふわり。そんな擬音が相応しい着地。

 薄い夏服の紺色のスカート越しに、野上雪奈の太ももの感触が伝わる。

 うわぁ、僕今、膝の、上に。

 というか、太ももの……。

 なんて柔らかいんだろう。

 それに温かい。

 本当に、これ。

 落ち着け、たかが膝枕じゃないか。

 ああでも、よりにもよって姉さんとはまだしたことないから余計に……。

 顔が変なことになってないかな。

 鼻の下とか伸びていたら死にたい。

 もう、よく分かんなくなってきた。

 そんな僕の頭の中の嵐に関わらず、二人きりのリビングルームは穏やかな静寂に包まれていた。

「ど、どうですか?」

 上ずった声がするので見上げてみると、野上が頬を赤らめながら僕を見下ろしていた。

 なんだ、緊張していたのは僕だけじゃなかったのか。

「きもち……いや、とても、安心する」

「そ、そうですか。よかった」

「……」

「……」

 お見合いのような空気が流れる。お互い目を逸らしてしまった。

 でも、何だろう。。悪くない。

 ずっと忘れていた。甘酸っぱいというありきたりな表現で済ませられてしまうような、ありきたりな恋の感情。

 愛情に飢え、少しでも優しくされればすぐ好きになっていたから、よく知っている。そして、自分に自信がなくて、好きになったところで何も行動しないから、実るはずもなく落ちていく青い果実は、今味わっているものよりもずっと酸っぱくて、渋かったものだが。

 この恋という感情は、自分が知っているものよりも、随分甘みが強いようで。

「ありがとう」

 自然と、そんな言葉が口を突いて出ていた。

「どういたしまして」

 野上の左手がそっと僕の髪に触れた。その感覚は猫のひげのように敏感に毛根触覚を刺激した。くすぐったくもあり、性的快感にも似ていた。

「お兄さんの髪の毛柔らかい。それに細い」

「そう?立たないしボリュームは薄いし、癖も付いてるから不便なんだけどね」

「いいじゃないですか。きれいですよ」

 そう言って僕の頭を優しくなでた。

「ん……それは」

「いや、でしたか?」

 野上が心配そうに声をかける。しかしその手は止まっていなかった。

 痺れるような快感が、びりびりと頭を伝う。慣れていないのもあるが、僕はこの快感に抵抗しているのだと思う。これに身を委ねてしまったら、もう後戻りはできない。そんな気がしてならなかった。

「嫌じゃないけど、これ、何か変になりそうだ……」

 すると野上はふふっと微笑んだ。自分の期待通りの手応えが返ってきて楽しんでいる様子だった。

「いいんですよ。私がお兄さんを骨抜きにしてあげますから」

「ほんとに、気を抜いたら髄まで抜かれそうで怖いよ」

 僕は軽口を叩いて何とか抵抗をした。

「ねえ、野上」

「はい」

「何で僕にここまでよくしてくれるの?」

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