6 姉の祈り
――三日目
この辺りを直撃した台風により、市には大雨警報が発令。全ての学校は休校となった。
昨日の雨も、台風が連れてきた雨雲の一つが先に雨を降らせて行ったものだったみたいだ。
「降るねえ」
僕はリビングの大窓から昨日以上に強く打ちつける雨を眺めながら、愛猫コロンの喉をちょいちょいと掻いていた。コロンの喉が外の雨音にも負けないくらいゴロゴロと気持ちよさそうに鳴っている。
スマホを取り出し、ラインを開く。三つばかりしかないトーク欄の一番上から、野上雪奈のトーク履歴を開いた。
――今日は台風来てるので行けません
今日の見舞いを休む旨が書かれている。律儀な子だ。
すると、しゅぽっと気の抜けた効果音がして、今いま新しいメッセージが送られてきた。
「ん?」
――そっちは雨大丈夫ですか?
少し驚いた。野上は積極的な性格だが、意外とラインでの通話はしたがらない。この三日間、あいさつや連絡以外でメッセージが来るのはこれが初めてだった。
もちろん、同時に嬉しくもあった。単に見舞いに行けない代わりのつもりだろうが、互いの距離が縮まった証だと思うと、変に勘ぐってしまう気持ちを抑え難くなる。
――大丈夫 ありがとう そっちは?
――退屈なこと以外は大丈夫です
次いで可愛らしいクマのようなキャラクターがぐったりまったりとしているスタンプが送られてきた。
「ぷっ、なにこれ」
小さく吹き出し、何か自分もスタンプを送り返そうとしたが、そもそも友達彼女とラインで雑談するという習慣を持ち合わせていなかった僕には、そんな面白いスタンプの一つもなかった。
仕方がないので以前撮ったコロンの間抜けな寝姿を送ってやった。
腹を天井に向け、人間のように仰向けになって無防備に寝転がっている写真だ。
――かわいい!
――でしょ
――何だか私ネコが好きになってきたかもしれません。
送り甲斐のあるリプライに、思わず笑みがこぼれる。
そこで僕はたまたま持っていたお気に入りのコラ画像を送信した。
――「貴様もニャン黒面に堕ちるがいい!」
一匹の猫が、黒いマントをまとったSF映画の悪役に合成されたコラージュで、暗黒面ならぬニャン黒面に堕ちろと誘うネタに満ちた画像だ。いわゆるクソコラだ。
――なんですかこれ(笑)
ネットの文面なのでそうとは言い切れないが、ウケたらしい。
そんな実の無いやりとりをしていると、玄関から戸が開く音がした。姉の綾香が帰ってきたみたいだ。
「ただいまー」
「ん。早かったね」
「いやーまだこれから降るみたいだから、電車が止まって帰れなくなる前に早く帰ろうと思って」
姉は大学に持って行っている肩掛けの鞄をソファーの上にぽいっと投げると、冷蔵庫のあるキッチンの方へ歩いて行った。
「今日の夕飯何作るんだっけ?」
そう言いながらアイスコーヒーのボトルを取り出した。
夕飯はいつも僕が作ることになっている。昔から料理は好きでやっていたため、学校に行くことも働くこともできない僕の唯一の仕事になっている。今となっては料理の腕前も母を追い抜いた。そのため母からの献立通知は月日を追うごとに大雑把になり、今では「鶏肉と何かで何か作って」という具合で注文されることも少なくない。
今日も、仕事に行っている母が冷蔵庫の前に貼った小さなホワイトボードに書き残した献立表は、「レタスとキュウリのサラダ 白身魚 牛肉」だ。
サラダは一瞬で出来上がるし、白身魚はフライパンで焼くだけの半分出来合のムニエルだ。後はサイコロステーキでも作れそうなブロックの牛肉をどうするかだが……。
「ビーフシチューでも作ろっかな」
僕はキッチンへ行ってジャガイモと玉ねぎを取り出す。にんじんは……よし、あった。
「ルウあったっけ?手伝うよ」
姉が嬉々として尋ねた。
「いや、姉さんは料理できないだろ?一人でやるから」
「えー、私だってできるよ!」
拗ねたように駄々をこねるが、僕は知っている。それがただの意地っ張りであることを。
「前もそう言って卵焼きを作らせたら、巻けなくてスクランブルエッグに変更した挙句、焦がして変な固まり方をした卵料理のような何かが出来たじゃないか」
「うっ……」
都合の悪いことを思い出されて口をつぐむ姉に、更にたたみかける。
「しかも殻が入って変な食感がするし、それ以前に塩辛くてほとんど味が分からなかったよねー」
「うぐぐぐ……」
悔しそうに唸っているが、ここで優しくしては姉のためにはならない。論破したこの状態のまま、姉には諦めてもらうしかない。
「私だって、料理できるようにならないと」
だからやらせて、とめげずにせがんでくる。
「……」
「お願いします」
頭を下げ、合わせた手を頭上に持ってくる姿勢で、まるで「お金を貸してください」と言っているかのような口調で言う。
なんだか、そこまでされると拒み続けるのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
「野菜切って」
だからとうとう許可してしまった。
「いいの?やった!」
姉は両手のこぶしを握り締めて喜んだ。たぶん、弟と遊びたいという心理がそうさせているのだろう。大概、僕ら姉弟は互いに甘えてばかりだ。
それから間もなくして、姉が切った玉ねぎが目に染みて玉のような涙を流し、結果見事に不揃いな櫛切りの玉ねぎが出来上がったのは、言うまでもない。
「あんた、やっぱり少し元気になったね」
「そうかい」
僕が鍋底で玉ねぎを炒めている時、姉はダイニングテーブルについてテレビの夕方のニュース番組眺めながらそう話しかけてきた。
「姉さんも嬉しいだろ」
油と水が熱で小さく爆ぜる音が小刻みに響き、白い煙が立つ。鍋は焼いたり炒めたりするのには向いていない。コンロの上の換気扇を回した。
「まあ、そうだけどさぁ……」
歯切れの悪い返事。姉の言いたいことは分かっている。野上と出会った日の夜から姉がずっと気になっていること。弟に、いい意味で何かがあっただろうということ、そしてそれを自分には教えてくれないということ。面白くない。
普段はへらへらとしているくせに、やたらと勘だけは鋭い。吉見綾香はそういう人だ。
もう、隠していても仕方がないだろうと、観念した。
「友達ができた」
「へえ、あんたが友達を、ねえ」
露骨に意外そうな反応をされて、僕は少々腹が立った。
「生の玉ねぎを混ぜてやろうか?」
姉は火の十分に通っていない玉ねぎが嫌いなのだ。
「ごめんごめん。それだけは勘弁願うよ、ほんと。いやでも、どうしてまたそんな出会いがあったの?」
「ダム湖の公園の自販機で偶然出会って、まあなんやかんやあって話すようになって」
そのなんやかんやとか、野上が女子高生であることまで話すと、本当に変なことを勘ぐられて面倒なことになりそうなので、何とかそこだけは触れないよう言葉を選んで説明していった。
「趣味がたまたま合ったのもあってさ」
これは嘘だ。
「まあ、ラインを交換して色々話してる」
「それ、出会い系とかじゃないよね?」
参ったな。
姉は野上のことを女性だという先入観で話している(まあ事実なのだが)。それに出会い系で知り合ったのではないかという疑いまで持たれてしまった。まあ確かに僕も抽象的なことしか言ってない分、そういう事を疑われてもおかしくはないが。
「いや、それは違うよ。だいだいこんな田舎で出会い系なんて機能するわけないだろ?本当に偶然だよ」
僕は火を止めて、鍋に水を注ぎこんだ。ジューっとひと際大きな音がして、飴色になった玉ねぎのエキスが水に溶けだして茶色く濁る。見た目は完全にオニオンスープのそれだ。再び火にかけ、ジャガイモとにんじんを放り込んだ。
「偶然ね……」
「なに、まだ疑ってるの?」
鍋に蓋をし、調理がひと段落して姉の方を振り向くと、姉はどこか遠い目をしていた。
「偶然なんて、この世にはないんだよ」
「何を、言ってるんだよ……?」
「全ての出来事は起こるべくして起こるの。だから偶然もまた必然。あんたがその友達と出会ったことも、何か意味があるのかもね」
戦慄した。僕もまた、野上と出会ったことには単なる偶然を超えた理由があるかも知れないと思っていた。同じ痛みを持つ者同士引かれ合ったのではないかと。姉はまるでそんな僕の考えを読んだかのようなことを言う。
「悪いけど僕は無神論者だ」
平静を装い受け流したつもりだが、正直自信はなかった。
「カルマ思想に神も仏も必要ないよ」
姉はへらっと笑う。
姉が何を考えているのかは分からない。ただからかっているだけなのかも知れないが、こう見えて頭脳明晰、これで核心を見抜いていないとも言い切れない。
だから、あえてその哲学的談議に乗っかってやることにした。
「まあ、確かにあいつと出会ったのには何かの縁(えにし)があったんじゃないかとは、考えなかった訳じゃない」
話に本音を織り交ぜて、真実味を持たせる。
「でもそういうことは、その出来事が完了してからでないと、後になってからでないと分からないよ。だから、別に今は深く考えてはいないかな」
「随分仲良くなったのね」
「嫉妬してるの?」
「誰に?」
前にもこんなやり取りがあったような気がする。
すると、今度は姉が観念したようにため息を吐いた。
「……ごめん、ちょっと意地悪しすぎた」
そう言って僕を見つめ、苦笑いを浮かべる。
「正直言うと、あんたに彼女が出来たんじゃないかって思ってた。だから、カマかけようとしてたんだ」
「そんなところじゃないかと思ったよ」
そして、どちらからともなく力なく笑った。
「僕も白状すると、まあ相手は女子なんだけども」
「やっぱり!」
「まあ聞いて」
早とちりして嘆く姉を制して続ける。
「多分あいつは僕のことを恋愛対象としては見ていない」
「単純な友情ってこと?」
「それも……違うと思う」
僕は顎に指を遣って考え込むような表情になる。
「だったら?」
「分からない。仲良くはなれたけど、あいつが僕に何を思っているのかが、今一つ分からない。ただ……」
「ただ?」
「僕とあいつは、似た者同士なんだと思う」
そう言うと、姉は真面目な顔で「そう」とだけ呟いた。手元に置いたコーヒーのグラスをあおって、ふうっと長い息を吐いていた。
「それで、あんたはその子とどうなりたいの?」
そんなことを聞く。
「僕は別に、今の友人関係が続けばいいって……」
「本気でそう思ってるの?」
呆れているような声色だった。
「どういう、ことだよ?」
「あんた嘘吐くの下手だからさ」
「なっ……」
僕は思わず自分の顔に手を当てる。顔に何か出ていたのかと探ったつもりだが、そんなことしても無意味なことはすぐに気付いた。
確かに、野上に異性としての意識を全くしていないと言えば、嘘になる。それはどうしようもなく胸の内にあった。認めざるを得ない。
「そりゃ、こんな渇いた人生送ってれば……期待だってするよ」
僕はそっぽを向いた。
「それともう一つ」
「何?」
僕は若干苛立ちを抑えきれないまま尋ねたが、対する姉は心配そうな表情をしていた。
「言ったよね、似た者同士だって」
「いや、それは僕の勝手な思い込みによるとこがあるからそうとも……」
僕の気弱な補足を姉の言葉が遮る。
「それって穏やかじゃないんじゃない?」
「……!」
「あんたって繊細なくせに色々背負い込みすぎて人間が厭になっちゃったタイプだからさ。同じような脆い人間が合わさったらさ、どんどん深みにはまって行きそうで。それが、ちょっと……怖い」
脆い人間。
その言葉は下手すれば侮辱になる言葉だが、今の言葉のニュアンスに含まれていた意味は、むしろ不安や恐怖だった。
脆いから、突然壊れてしまうんじゃないか、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないか。そんな怖れを、僕は今までもずっと姉から感じ取っていた。
やっぱり余計なことを言い過ぎたか。少し後悔した。
ただし、今の自分に自信をもって訂正できる箇所があるとすれば、その脆いという形容詞だった。
「あいつは脆い人間なんかじゃないよ。色々悩みはあるみたいだけど、僕なんかよりずっと気丈で、明るい人間だ。だから大丈夫だよ。ただ僕は……心を通わすことの出来る誰かが欲しい」
姉は、「私がいるじゃない」などと野暮なことは言わなかった。肉親だからこそ、言いたくないことも、距離を置きたいこともたくさんある。
それに、残念ながらというべきか、幸いというべきか、姉には僕の心の最奥と通わせることができるような、歪められた心を持ってはいない。
いつだって正しくて、柔軟で、強い姉の心では、どんな慰めを経ても通わない領域がある。
姉もまた、それを分かっているのだろう。それでも、僕を受け入れることを諦めなかった。
「じゃあ、頑張らないとね」
姉は僕の言葉に納得してくれたみたいだ。
頑張るとは、僕のこと。
「姉さんは僕が他の誰かと付き合っても文句ないのかよ」
僕は照れ隠しに意地悪を言う。
すると、
「そりゃ寂しいけどさ。でも、幸せならOKです。ってね」
姉はにかっと笑って親指を立てた。そして精一杯のどや顔。こちらが吹き出してしまいそうだ。不思議と、場の緊張感が解けていった。
ああ、やっぱり姉さんには敵わないな。
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