5 二人、雨宿り

 ――二日目


 次の日は、雨が降っていた。気象庁は梅雨入りを発表したようだ。

「ええとぉ、昨日はですねぇ、何か私もちょっとおかしかったかなあーなんて」

「ちょっとどころではなかったね」

「ああその、私昨日、そう!生理だったんです!」

「あ、それで……いや騙されないぞ」

「ダメかー……じゃなくて、示談金千円でどうでしょう?七対三(過失相殺のこと)で!」

「百歩譲っても九対一だ」

「ですよねぇ……」


 一夜明けた野上は、それはもう反省していた。

 もともと心優しく分別のある少女だ。どうせ家に帰ってから自分の奇行を思い出してベッドの上を転げまわっていたのだろう。

「許してくださいー。何でも……はできませんけど、もう一回頭突きしてほしいなら」

「誰が頼むものか。これ以上罪を重ねるな」

 今のセリフは死ぬまでに一度言ってみたかったものの一つだ。

「今日もクッキー持って来ましたから。ああ、あと私の桃水(ももすい)あげます。JKとの間接キスですよ?」

 桃のフレーバーが入った天然水のペットボトルを献上品のような格好で差し出してくる。

「野上」

「は、はいっ」

 何気に今初めて彼女の名前を呼んだ気がする。

「僕は怒っていない」


 その一言は、彼女を冷静にさせるのに十分だった。

「……でも、私お見舞いに行ったつもりが反ってお兄さんの気分を害して、あまつさえ身体的ダメージまで食らわして帰ってしまって……」

「僕がもういいと言っているからいいんだよ」

 努めて、優しい口調で野上をなだめた。

「何で、なんて言わない。君もまあ、なんだ。悩みの一つや二つあるだろう」

 そう言ってやると、野上は俯いていた顔をぱっと上げた。

「お兄さん……」

「おでこ、もう痛くないか?」

「……!」

 すると野上はまた泣きそうな顔をした。でもそれはうれし泣きに類するものと見えた。

 少しは年上らしく彼女の欲しがる言葉をかけてあげられただろうか。


「ごめんなさい」

「うん」

 この三日間で何度彼女から「ごめんなさい」という言葉を聞いたことだろう。文脈を考えれば別に異質なものはないのだが、何度も聞かされるのも無条件に良心が咎める。

 そう思った僕の手は、無意識に野上の頭の上に伸びていた。家で飼っている黒猫にいつもそうしているように、頭を撫でようとしたのだ。


 しかし、その直後野上はびくりと体を竦ませ、目を固く瞑ってしまった。

 まるで、僕の手に怯えるかのように。

 ……何だ、今のは?

 頭の中が凍り付く。明らかにおかしいと思ったが、すぐに笑顔を作ってごまかす。

「……ごめん。さすがに嫌だよね」

 すると野上は自分がとんでもないことをやらかしてしまったという表情をした。

「いや、違うんです!これは、単にビックリして、本当です!」


 なぜだ、普段距離感が異様に近いくせしてなぜこんなことで必死になる。「そうですよ。さすがに乙女の体に触るのはセクハラです」なんて、冗談を言って流すことだってできたはずだ。

「ごめんなさい……だから、だから……」

「落ち着いて。もうこんなやり取りばかりするのは僕も辛いよ」

「……はい」

 野上は力なく上がり框に座り込んだ。手に持っていた濡れた傘からばさりと水滴が落ちる。

 僕は無邪気で明るい野上雪奈の中に、無視することのできない「闇」が巣くっているのを確信せざるを得なかった。

 僕よりずっと強くて、たくましく、若い野上でさえ歪ませるこの世の不条理、その内のどれかと、彼女も戦っているのだ。


 ――似た者同士は引かれ合う。

 そんなことを、この無垢な少女との間に当てはめるのはおこがましいと思った。でも、仮に僕らが似た者同士だったら、この世界で生きることに失敗した人間同士だったら、一昨日公園で出会ったことは偶然でも奇跡でもなかったのかもしれない。

 昨日野上は僕に頭突きを食らわした後にこう言った。

 ――私も痛かったです。

 こういう解釈もできる。


 私たちは同じ痛みを共有している。


 遠雷が鳴っている。思ったより雨が強いらしい。

「今から帰るのは大変だろう」

「そうですね。もしかして、私をお部屋に連れ込もうとしてます?」

 うん、軽口が叩けるのなら上等だ。

「僕にそんな勇気はない」

 だから、と続ける。

「リビングで休んでいかないか?」


 木材がふんだんに使われた洋風のリビングは、普段より狭く感じた。

 南向きの大窓からは大粒の雨が車軸を流したように降っているのが見える。庭の低木の葉や、広がる畑の土が雨粒に打たれてばらばらと音を立てる。

「別に僕は、何の弁解も要らない」

 昨日のようにグラス注いだ水をテーブルに二つ置いて、僕はそう切り出した。

「話したくないことは話さなくていいし、何もないならそれでいい。……何言ってんだって話だよね」

 僕は自分でも上手く言いたいことを言葉に出来た自信がなくて、頭を掻きながら続けた。

「僕は、君が見舞いに来てくれて嬉しいよ」

 そう言ってグラスの水を飲む。

 野上は落ち着きを取り戻していて、僕の言葉を聞いて静かに頷いた。

「そう言ってもらえると、ありがたいです」

 そして繕うような笑みを浮かべた。

「本当のことを言うと、自分の中では何でこんな訳の分からない反応ばかりしてしまったのか理解しているんです。でも、それを話すのはもう少し、待っててもらえますか?」

「うん、分かった。待つよ」

 僕らはもう、ただの顔見知りではない。かと言って純粋な意味での友達でもない。もっと深い所で繋がった、「訳」を抱えた者同士。

「やっぱり私は、頭のおかしい女でしょう?」

「お互い様だろ?」

「ふふ」


 ああ、心地よい。そう思えた。

 こんな会話を、卑屈や自虐に酔うのではなく、自然な感情として共有し合うことができる。自覚する狂気を受け入れてくれる。しかしその間柄を意識するがために生まれる丁度良い距離感。そして今、こうして笑い合うことができる。なんと温いことか。

「じゃあ気を取り直して、ゲームでもする?」

 僕が提案すると、野上は目をぱっと輝かせた。

「ゲーム、私やったことないの。やってみたい!」

 今テレビ用のゲーム機は二階の自室にある。リビングで遊ぶには持ってきて繋ぎなおす必要があった。

 僕は野上を置いて自室へゲーム機を取りに行った。自室の小さなテレビに繋がれたゲーム機のコードを外し、二人で遊べそうなソフトを選んで降りようとした。

 その時、

「きゃあ!」

 野上の叫び声が聞こえた。

「どうした!」

 慌てて階段を降りて行って、僕はため息を吐いた。

 何のことは無い、家で飼っている黒猫のコロンが、来客に甘えていたのだ。

「お、おお兄さん!猫!」

「見れば分かるよ」

 野上は遊び相手になって欲しくてすり寄って来たコロンに対して怯えていただけだった。

「見てないで助けて下さい!」

 野上が必死のあまり聞いたことのないような裏声で叫んだ。

 仕方がないので僕は適当な所にゲーム機を下ろすとコロンの脇を持ってひょいっと抱き上げた。

「猫は苦手?」

「いやあ、間近で見るのは初めてなんです。馴染みがないから動物自体ちょっと怖くて……」

 野上は抱き上げられて万歳をする格好になったコロンを恐る恐る見ている。確かに初めては噛まれないかと恐れるのも無理はない。

 コロンはというと、にゃんともすんとも鳴かずにぶすーっと、ふてぶてしい目つきで野上を見つめ返しているようだ。こいつは人懐っこく、初めて会う人間には取りあえずあいさつをしに行く。

「撫でてみたら?」

 ずいっとコロンを近付けてみる。野上は近付けた分だけ後ずさっていく。

「噛まないですか?」

「噛まないよ。多分」

「多分って何ですか!」

「怖がっているとそれが猫にも伝わって、余計に警戒される。こっちが怖がらなければ大丈夫」

「それが初心者に対するアドバイスですかぁ……」

 野上は戦々恐々としながらも、幾分か余裕を取り戻してきている。ふうっと息を吐くと、意を決したようにそろりと手を伸ばした。

「よーしよーし」

 野上は半分自分を鼓舞するかのように猫なで声を出し、形から入ろうとしている。

 ……可愛い。

 その手が、とん、とコロンの頭の上に置かれた。

「……」

 野上の表情からは段々と恐怖や不安が消えていき、真剣な眼差しでコロンの頭を撫で始めた。

 すりすりすり。

「どう?可愛いでしょ?」

「うん、いい子」

 噛みついてくることはないと分かると、初めて触る猫の感触と温もりに対する感動が上回ったのだろう、頬を緩めて何度もコロンを撫でた。

 それから僕ら雨脚が弱まるまで、しばらく取り留めもない話をしていた。


 野上は犬か猫ならどちらが好き?

 犬かな。

 何でさ、この流れでなぜ猫と言わない。

 だって、犬は従順そうだから。言うことも簡単に聞いてくれるでしょう?

 それはそうかも知れないけど、犬だってしつけ次第だ。飼い主の手を噛むことだってある。その分猫は本来が気まぐれで思い通りにならないから愛しいんだ。言うことを聞いてくれるだろうという変な期待もなく、お互いのペースを尊重し合うことができる。

 お互いのペースを尊重……か、いいなあ、それ。

 と、言うと?

 ううん、別に大したことじゃないですよ。ほら、この年頃って色々束縛を感じて嫌になるでしょ。

 反抗期?

 頑張ってそうしてるつもり。難しいけど。

 そっか。僕はそもそも反抗期のはの字もなかったなあ……。

 真面目かっ、なんて。

 いいや、そんなじゃない。ただ、僕が臆病だっただけ。大人の言うことは全部聞いて、いい子にしていれば幸せになれると思っていた。

 思っていた結果がこれだよ、的な感じですか?

 別に家族を責めはしないけどさ、それこそ真面目が美徳だと思ってた所が強くて、色々背伸びしすぎたから。全部が駄目になってから、じゃあ僕が今までやってきたことは何なんだろうって。しかも周りの大人たちは口を揃えて言うんだ。「この子なら大丈夫だ」って、今の僕のことをさ。大丈夫なわけないじゃん。今更、重しにしか感じないや。

 それ、私も分かります。

 本当?

 私も大人にあれこれ押し付けられて育ちましたから。勉強だって頑張ったし、絵を描けって言われたから自分は絵が好きなんだって思いながら描き続けたこともありました。でも全然ほめてくれなかったんで、もういい加減でいいやって思ったり。

 絵か。いいなあ、、僕はそういう一芸がないから。

 私だって素人に毛が生えたくらいのものしか描けませんよ。

 絵は嫌い?

 多分実際好きなんだと思います。でも嫌いでもあります。そういった感情に、どちらにしても変なものまで付いてきちゃうので。何とも。でも、お兄さんに描いてほしいって頼まれたら、きっと喜んで描けると思います。

 随分懐かれたものだな。

 本当ですよ。私、お兄さんのこと結構好きになってきました。

 ……年上をあまりからかうな。

 あ、照れましたね?ふふ。

 ったく、ようやくいつも通りの調子に戻ったな。

 ええ、お陰様で。


 時計の針が五時半を回った頃、雨はようやく小降りになった。

「野上は他にどんなお菓子を作れるの?」

「カップケーキとかパイとか、ですかね。何かリクエストがあれば聞きますよ?」

 野上は玄関で置きっぱなしだった傘を持ち上げ、軽く水滴を払う。

「いや、聞いてみたかっただけだよ。無理に張り切らなくたっていいから」

「別に余った分は私や学校の友達の分に回すだけですから、普段からよく作りますし、気にすることはないですよ」

 そう言ってにっと笑った。

「チョコチップ……」

「え?」

 野上が小さい声でもごもごと呟いた僕の声を聞き返す。

「チョコチップ入りのクッキー、が、食べたい」

 僕はこの一言が酷く恥ずかしく思えて口ごもっていた。子供っぽいからとか言うよりは、人に何かをねだることに対する羞恥心だった。


 自分から何かを頼むことを恥じるという癖が、僕の中にはあった。

 どうせ聞き入れてはくれないし、僕の頼みを聞いてくれるほど周りの人間は僕を大事にはしていない。そんな暗示を物心ついてから植え付けられてきたせいで、どうせ無下にされて情けない思いをするくらいなら、誰にも期待しない。と、そう思っていた。

 そんな暗示を取り払って、甘えてみたいと思ったのは、姉の綾香に次いで野上が二人目だった。

 この時僕は、むしろここで野上に甘えないことが反って失礼になるのではないかとまで思ったのだ。

 きっと、僕が彼女を信頼することが、彼女にとっても救いになるのだと。

 お互いが、その親愛を求めている。そう思うのは自意識過剰だろうか。

「もう、だったら初めからそう言ってくれればいいんですよ」

 野上が呆れるように、苦笑いを浮かべた。

「……」

 身も蓋もないことを言われて、僕は閉口した。

 ああ、何だこれ。むしろこっちの方が余計に恥ずかしい。

 例えるなら、ライトノベルの表紙をブックカバーで隠して読んでいたのに、他人から覗かれた時に都合悪く色気溢れる挿絵のページを開いていた時の居たたまれなさに似ている。

 すると、野上が不意に顔を近付けて、耳元でささやいた。

「楽しみにしていてくださいね」

 故意に耳をくすぐるようなウィスパーボイスにあてられて、僕は刹那くらくらとめまいがする心地がした。

 リンゴのように赤面する僕に笑みを投げかけ、少女はその日も楽しそうに帰って行ったのだった。

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