中ノ上 昏く冷たい水底に差した幻想の月光

4 お見舞い少女と頭突き

 ――一日目


「こんにちは、お兄さん」


 翌日の午後四時半、野上は本当に僕の家にやって来た。

 田舎暮らしなので土地が安く、敷地だけは無駄に広い我が家。軽自動車くらいなら一台すっぽりと収まりそうな広さの玄関の前に、野上は立っていた。

 学校帰りなので、今日は制服を着ている。見た所、やはり僕の通っていた高校と同じようだ。

 往々にして、現実世界ではミニスカートの制服を許容する学校など聞いたことがない。野上はやんちゃをするような性格でもなさそうだし、公立進学校なら尚のこと。だから彼女の着こなしも至って地味なものなのだが、野上が着ると絵になるのはなぜだろう。

 清楚系と言えば腑に落ちるかもしれないが、その表現は俗っぽくて好きではない。雰囲気が大人びているからとでも言っておこうか。

 正直本当に来ると思わなかったという部分もあり、昨日知り合ったばかりの美少女高校生が家に訪ねてくるという非日常を前にしてあらゆる挙動が遅れていた。


「……お兄さん?」

 だからついぼーっとしてしまい、野上に心配そうに声をかけられることになった。

「ああ、こんにちは」

 僕がぎこちなくあいさつを返すと、野上は手に提げていた鞄から小さな袋を取り出した。水色のビニールでできた可愛らしい袋だ。口が白い紐で縛られている。

「これ、どうぞ」

 野上はその袋を差し出した。

「何これ?」

「お見舞いと言ったら差し入れ、じゃないですか!」

 野上は得意げに鼻を鳴らした。

 袋の中身は何の変哲もないクッキーだ。

「あ、ありがとう」

「私の手作りなんですよ、これ。どうです?ポイント高いでしょう?」

 野上は褒めてほしいと言わんばかりに主張する。確かに、女の子の手作りクッキーとは素直にグッとくる。僕には全くもったいない手間だ。

 取りあえず、食べて感想の一つでも言ってあげなければならないだろうと思い、石を敷いた土間に立ったまま中身を開けようとした。が、ふと思い立つ。

「あ、ちょっとそこに座って待っててくれ」

 そう言い残して、僕は土間を上がり、玄関から横向きに架けられた廊下を通ってキッチンに向かった。

 僕は戸棚から来客用のグラスを二つ取り出し、氷を入れ、水を注いで持って行った。


「暑かっただろう、よければ」

 僕は玄関に戻るとグラスを一つ野上に手渡す。

「ありがとうございます」

 上がり框(かまち)に座っていた野上はグラスを受け取ると一息に半分まで水を飲んで、ふうーっと人心地をついた。僕も隣に座って一口飲んでから、受け取った袋を開封した。

 「じゃあさっそく、いただきます」

 一口。

 サクッとした歯ごたえ、控えめな丁度いい甘さと塩気の効いたバターの風味。

「美味しい」

 素直な感想を述べる。

「ふふ、お口に合ってよかったです。お見舞いって言ったらリンゴをむくのが定番ですけど、それをこの季節学校に持っていくのはアレなので。無難にいつも作ってるクッキーを焼いたんですけど」

「リンゴも好きだけど、クッキーも好物だ」

「ならまた作ってきますね!」

 野上もとても嬉しそうに笑っていた。僕と同じでこの非日常的なイベントを楽しんでいるのもあるだろうが、根が世話好きなのだろう。


「体調はどうですか?」

 野上が見舞いらしい言葉を投げかけた。

「最近はまだマシな方だよ。今日は部屋の掃除もできた」

「あれ?もしかして、そういうこと期待してましたか?」

 野上が悪戯な笑みを浮かべる。きっと彼女は男性に対する己の価値を理解しているのだろう。容姿が優れている人間は、十代後半に差し掛かる頃にはそれを自覚するようになるものだ。

「君は今僕が部屋に誘ったとして、ついて来るつもりなのかい?」

 僕も思い切って反撃に出た。

「私を押し倒す勇気もない癖にー」

「……まあ、違いない」


 一瞬で負けた。

 男は皆狼だと言いうが、僕は被った羊の皮を脱いで襲いかかった後で猟師に腹を切り裂かれるのを恐れるヘタレだ。そのくらいの自覚はある。姉との行為は例外だ。あれもほとんど姉が先導しているだけなのだから。

 最も、野上を押し倒したいか否かと聞かれたら、きっとイエスだ。でもそれは後先が無ければの話。

 まあそれでも、いきなり家に上げたりは、当然しない。幸いうちは玄関だけでも休むに十分なスペースがある。

「そう言えば、神経衰弱にかかると、具体的にどうなるんですか?」

 野上が急に真面目な話題を切り出してきた。まあ、昨日の今日で興味があるのだろう。

 僕はぐっと水を飲み込むと、何から話したらいいものかと逡巡し、やがて口を開いた。


「うーん。風邪にかかったことは?」

「もちろん」

「熱風邪は?」

「私は大抵熱が出ます」

「よし。じゃあそれが一週間、いや一カ月経っても一向に治らない状況を思い浮かべてみて」

 野上は視線を落として言われたことを脳内に再現しようとした。やがて、小さく唸って言った。

「学校行けないですね。まあ、私は行きますが」

「え、マジで?」

 その返しは予期していなかったぞ。

「あ、いや、私は特別なんで。家にいるより学校にいた方が楽しいですからね。もう気合で」

「う……なるほどね。学校にいた方が楽しい、か。うらやましいよ」

 あ、ちょっと涙が出そうだ。これがリア充と非リア充の差というやつか。

「僕は学校にいて、いい思い出なんてほとんどなかったや」

「うーん、私の場合逆に……あ、いえ。何でもありません」

 何か言いかけて、野上は口をつぐんでしまった。

 マイペースな子なのに、ときどき何かにぶつかったような言動をとる。案外、僕と似て頭の中で話す言葉を膨大にシミュレーションして喋るタイプなのかも知れない。

だとしたら、どこで躓いたのだろう。


「でもそんな状況が続いたら、結構へこみますね」

「まあ、本当にただ長引くだけの風邪だったらまだいいんだよ。神経が弱るということは、つまり精神にも直接影響が出るのさ。まあ体調を崩すから気が滅入るのもあると思うけど、精神がダイレクトに弱る。だから体にも不調が出る」

「『鶏が先か、卵が先か』……?」

 いい言葉を知っているじゃないか。

「そんな感じ。まあ相互作用だよ。 何もする気が起きなくなって、物事に集中することが難しくなる。夜は眠れないし、体は鉛が埋め込まれたように重く、怠い。そうやってあらゆる活動が困難になって、最後には何もかもを悲観的に感じるようになる。で、生きることにも希望を失って……」


 野上は僕の言葉に食い入るように聞き入っていた。まるで、一言一句から僕の心を暴こうとしているみたいで、ちょっと怖かった。

 それでも、続けた。


「色んな不安が重なった時に、ふっ……と、死にたくなる」


 死にたくなる。その言葉で話を締めくくった。

 さすがに引いてしまっただろうな、と少し自己嫌悪しながら僕は野上の表情を窺ってみて、

「……っ!」

 驚いた。

 頬をつうっと伝う一筋の涙。

 野上は僕と向き合ったまま、声もなく涙を流していた。そして、本人はしばらく自分が泣いていることに気付いていなかったらしい。僕があまりに複雑に困惑した表情をしていたのを見て、ようやく自分の頬に指を当ててそれに気付いた。

「あ……」

 野上は包丁でうっかり切ってしまった自分の指から流れ出る血を見るような表情で、拭い取った涙の粒を眺めていた。

「大丈夫?」

「ごめんなさい。私も何で泣いているのか分からなくて」

 まさか僕の苦しみに共感した余りに涙が出てしまったとでも言うのだろうか。いや違う。これは何か違うはずだ。彼女の表情は、もっと己に差し迫った何かに感情があふれ出してしまった色がある。まるで、この話が他人事でないかのようだ。

 だとすればますます分からない。野上のような明るく美人でいつも余裕を持っているような人間が、僕のような根暗で神経質な精神的弱者と同じ悩みを持つなど、考えられない。


「多分、お兄さんの話を聞いていたらこっちまで悲しくなってしまったんだと思います」

 思いついたように言っても、それが嘘だと分かっている。頬を掻くようにして口元を隠しているし、視線も不自然に逸れている。

 それに、僕は己の苦悩のまだ三割も話したつもりはない。もちろんゆくゆくはその全てを聞いてほしいなんて言わないが、こんなことで本当に悲しまれても困る。

「……やっぱり、私の求める……」

 野上が何か言ったように聞こえたが、声が小さくてよく聞き取れなかった。

「え?」

「いえ、何でもありません。何でも」

 野上の柳のような細くしなやかな手が僕の右手を包み込んだ。

「なっ、何?」

 突然涙目の美少女に手を握られて狼狽したが、野上はそんなことなど構わず顔をずいと近付けてきた。

「本当に、どうしたの?」

「お兄さん、もしあなたが……」

 キスでもするんじゃないか思うような雰囲気で迫ってくる。が、しかし野上の動きはそこで止まってしまった。


「……」

「……」


 沈黙が流れた。野上は何か思考を巡らせているようだったが、僕の思考は完全に真っ白だ。

 いつまでそうして見つめ合っていたのだろう。五秒か一分か、時間の感覚が麻痺するのはこういう感じなのだろう。

 と思っていると、突然野上はすうっと息を吸い込んだ。まるで何かの助走をつけるかのように。

 そして、


 ――ゴツン。


 強烈な頭突きがかまされた。

「いっだああああ!」

 今度こそ予想だにしなかった野上からの攻撃に、僕は額を抑えて悶絶した。本気だった。割と本気の頭突きだったよこれ。

「じゃあ今日は帰りますね」

 泣いて、迫って、しまいには頭突きを放って僕を振り回すだけ振り回しておいて、野上はスッキリしたような顔をして立ち上がった。

「君も大概頭おかしいよ……」

 僕はせめてもの抵抗としてそう悪態を吐いたが、帰って来たのはあの無邪気な笑顔だった。


「はい。知ってます」

 野上は扉を開けた。不意に差し込んだ西日が、少女を黄昏の色に染め上げていく。

「また来ます。それから、さっきの頭突き」

 僕の額をスマッシュした自分の額を指して言った。

「私も痛かったです」

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