3 抱擁して慰めて

 ――夜


「賢一ぃ、何かいいことあった?」

 姉の綾香にそう言われた時、僕はぎょっとして操作していたコントローラーを持ったまま固まってしまった。

「何で?」

 僕は質問をされると、その質問の意図を聞いてから答えるために質問で返す癖がある。あまり答えたくない時などは必ずそうする。

 なんとか平静を保って指を動かし始めたが、画面内の男性キャラクターが崖から崖への大ジャンプに失敗して真っ逆さまに落ちていってしまった。

「(ゲームのキャラクターが叫ぶ)やべやべやべぇ!おうっ……(死ぬときのボイスは逆に静か)」

「姉の勘。全て見通す、姉の勘」

「何で俳句なん?」

「季語は無いけどね」

「じゃあ川柳か」

「いや、ワンチャン姉が夏の季語ってことで……って話を逸らすなー」

 姉が僕の背後にのしかかって来る。部屋着の薄着な姉の体をもろに受け止めた背中から、異性の熱が伝わってきた。

「(キャラクターが銃撃戦に見舞われて軽口を叩く)ああ、最高」

「何か話してたっけ?」

「もうっ」

 姉は大げさなため息を吐いた。息が右耳にかかって、思わずびっくりした。もうゲームに集中していられなくなり、中断してコントローラーを置いた。

「(キャラクター)くそ、マジか(ここでポーズ画面)」

「ああもう何さ」


 僕は立ち上がって姉を引きはがした。そのまま自室のベッドに腰かけ姉をにらむ。

「そう怒んないの」

 姉は僕の額を人差し指でつついた。

「今日のあんたはちょっといい顔してる」

「いい顔?」

「生気が感じられるっていうかね、ずっと打ち上げられたクジラみたいだったのが、今日は海に帰れたみたいな」

「うん、分かるようで分からん」

 僕はそんな言葉でお茶を濁したが、実際かなり的を射た比喩だったように思う。

 神経衰弱で弱り果てぐったりとして、生きる希望もなく目標もなく今日まで死んだように生きてきた。それが今、野上との出会いによって本当に久しぶりに明日が来るのを待ち遠しく感じている。

 僕を海の中に帰してくれたのは野上雪奈という少し変わり者の少女だった。


「で、何があったの?」

「……」

 どこまでも追及してくる姉に少しばかり辟易する。

「何もないよ」

「嘘だあ」

 姉はベッドに座り、仕方ないといった様子で笑った。

「まあいいや。そんなに姉ちゃんに秘密にしたいことなら、もう聞かない」

「……」

 そうしてくれると助かる、なんて言うと、何かいいことがあったことを認めることになる。そしてそれをあえて姉に秘密にしたいことも。だからここは沈黙が金。

「……あんたが生き生きとしてくれるなら、何だっていいよ」

 姉は真面目な口調でそんなことを言う。そんなこと言われると、こっちが悪いみたいじゃないか。つくづく女性とはずるい生き物である。

 ただ、姉のその言葉は、本当にそのままの意味である。――つまり、僕がこんな日陰に茨の境遇を生きている中で、少しでも笑ってくれるのなら何でもする積りでいるのだ。


「じゃあ、今日はシなくてもいいのかな?」

 姉が大人しめの甘い声のトーンで囁きかけてくる。そのまま、僕の両肩に手をかけ、ゆっくりと体重をかけた。

 僕も姉が押し倒すままにベッドに倒れ込む。

 そのまま、姉弟は恋人のように見つめ合う。

 姉がくっと首を下げて、その柔らかい唇を僕の首筋に押し当てた。

 艶めかしいキスの音が一回、部屋に木霊する。

「んっ」

 僕が声を漏らすと、姉は嬉しそうに笑った。

 お互いの頬が紅潮している。姉の目は、夜の水面に映る月のように潤んでいた。

 ――二人だけの秘密の「慰め」。

 家族にも、もちろん野上になど明かす訳がない、背徳の遊び。

 それを、このタイミングで姉が迫るのは、


「……嫉妬ですか?」

 思わずそう、口をついて出てしまった。

「誰に?」

 姉は不敵に笑った。この瞬間だけは、この関係だけは誰にも侵すこができないことを、彼女は知っている。

 僕は姉のシャツのすそに手を伸ばすと、それをゆっくりとめくり上げた。

 余計な肉の付いてない白いお腹の上に、かすかにあばら骨が透けている。そしてもっとまくっていくと、暴力的な二つの乳房が露になった。薄緑色の可愛らしい布に包まれた、歪さの欠片もない曲線美に基づく白桃。

 ああ男というものはなぜこんなものに憧れと劣情を抱くのだろう。抗い難き本能の仕業か。いや、エロスというものの本質、イデアがにじみ出ているのだ。笑止。

「いいよ」

 姉は恥じらいながらも抵抗する素振りを見せない。

 僕は姉をそのまま抱き寄せた。そして横向きになって、二人ベッドの上に抱き合ったまま寝転がる格好になる。

 だめだ、今はこうして甘えていたい。

 僕は姉、綾香の胸の間に顔をうずめて、ここだけが僕の安全地帯だと感じ、ひたすらに安心感と溶けていく孤独感を感じていた。

「今日は、このままで、いい」

「ん」

 姉はいやに色っぽい声音で返事した。

 僕はただ、虚ろな目でどこを眺めるわけでもなく、蒼い陽光が差し込む水底に横たわるように抱かれていた。


 姉が初めに僕を誘ってきたのは去年の春。

 神経衰弱で心身ともに極限まで追い詰められて、頼るような友人もなく、大学を去り、一人暮らししていた名古屋のアパートから(多少の誇張はあるが)命からがら引き上げてきた日の夜だった。

「可哀そう」

 そういって僕を抱擁した姉の言葉は、今も鮮明に覚えている。

 変に同情して慰めようとするなと、僕は忌々しい感情と共に姉を突き放し、ベッドの上に倒れた姉の首に指をかけた。

 いつも優しくて、僕が心を開いていた唯一とも言える存在。そんな彼女に小学生以来手を上げた僕を、姉は怒りも悲しみもしなかった。

「じゃあ、私の全てであんたを慰めてあげるよ」

 首を絞められているというのに、姉は笑っていた。その笑みの意味だけが、今でも分からない。

 犯されても殺されても構わないと思ったのかもしれないが、彼女はそんなにペシミストではない。

「あんたを私がいる限りは死ねないようにしてあげる」

 僕はその言葉にすがった。それが僕の蜘蛛の糸だった。


 そして今に至るまで、僕らはこうして淫らに触れ合ってきた。

 ただ不思議なことに、と言うべきか、僕らは今まで一度たりとも「最後まで行った」ことがない。十分に近親相姦の域を侵しておきながら、その営みにおいて達するはずのギシギシアンアンは経験していない。

 それは、姉弟という関係性を繋ぎとめるある種の契約だった。だからどちらも暗黙の了解としてその一線だけは越えようとしなかった。

 加えて姉には彼氏もいる。きっとセックスだってするだろう。でも僕は何も言わないし、姉も僕への行為に遠慮はしない。でも、僕の前では決して彼氏の話はしなかった。


 ――そんな曖昧で心地よい関係が、いつまでも続くと思っていた。

 野上の存在が現れたことを、その関係の変容と思ってしまうのは色んな方向に傲慢だ。そんなことは百も分かっていて、それでも僕の口から零れ落ちた言葉。


「ごめん」

「ばかね」


 何に対しての「ごめん」か、姉は聞いてこない。

 僕は姉の腕の中で、いつしか冷めた頬をまた胸に擦りつける。

 しばらくは、姉からの慰めは求めないだろう。

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