2 お友達(?)になりましょう

「あ、噴水」


 野上がそう言って湖面に浮かんだ船のようなよく分からない機械を指した。湖の水をくみ上げて、循環させることで水質をクリアにしているのだろう。

 その噴水を中心にして、波紋が立っていた。緑の静かな湖面に、円形の波がさざめく。僕の心臓と同調しているような気がした。

「波、立ってるな」

 思わずそう呟いた。

「見るのはそこですか。独特な感性をお持ちで」

 わざとらしく言うのはさっき僕が詩人だと言ったことへの当てつけだろうか。

 僕たちは公園の端に置かれたベンチに腰かけていた。木が日陰になってくれていて、この六月のじめじめとした暑さを和らげてくれる。

「今のは特に意味は無いよ」

「そですか」

 少しの間沈黙が漂った。

 ただそれはどこか心地よい、午後の柔らかい空気感であった。

 二人同じタイミングでコーヒーを口にする。やっぱり思ったより甘い。


「ところでお兄さんは見たところ大学生さんと思われますが?」

 ああ、嫌な所を突かれた。僕はその一言で一気に現実に引き戻されて、夢から覚めたような気持ち悪いくらいの清涼感を覚えた。

 まあ、大学生に見えるくらいの知性が感じられたのなら少しは嬉しいが、一口に学生と言ってもピンからキリまでなので、正直たいした慰めにはならない。

 僕は振り払うようにふうっと息を吐いてから口を開いた。

「大学生、だったよ」

 すると野上は刹那その言葉を噛み砕いて言った。

「あ、ニートってやつですか?」

「……君はオブラートに包むことを知らないのか?」

 僕はさっきと違った意味合いでため息を吐いた。

「大丈夫です。私はそんなことでどうこう言うような小さな人間じゃありませんよ」

 そう言って野上はふんすと胸を張る。なるほどそうして上体を反らしてみると決して小さくは……いや、そうではなく。

「一応言い訳させてもらってもいいですかね」

「聞きましょう」

 野上は澄ました偉そうな口調で答える。本当に僕をからかっているのではないだろうな。


「神経衰弱、と言えば分かるだろうか。神経がおかしくなってしまって、どうにもまともな生活が送れないんだ。だから大学もやめてしまった」

「神経衰弱……?うつ病みたいなものですか?」

 野上はピンと来ずに小首を傾げている。無理もない。

「本当はもう今はそんな病名は無いんだけどね」

「と、言いますと?」

「昔は人格が崩壊したり、全く身動きが取れなくなるような状態ではないけど、精神的に正常な生活を送れなくなる状態のことを神経衰弱って言っていたらしい。あるいは神経症、ノイローゼって言えば、聞いたことがあるかも知れない」

 野上は相槌を打ちながら話を聞いている。どうやらここまではついて来てくれているようだ。


「今ではそう言った呼び名は使われなくなって、僕の病は正式には『気分変調症』、または『自律神経失調症』って言うんだけど……ややこしいでしょ?」

 僕が苦笑交じりに肩を竦めてみせると、野上も同意するように苦笑いを返した。

「ちなみにだけど、うつ病というのは半分正解で、半分間違っている。今の時代はうつ病の適用範囲が広すぎて、少し憂鬱になって体調が優れないだけで『うつだ』なんて言う人も多いけど、本来の大うつ病というのは本当に廃人のようになるらしくて、僕もそこまでは経験していない」

「人格が崩壊して、全く身動きが取れなくなる……でしたっけ?」

 賢い子だ。

「そうそれ。まあ入院や介護が必要なレベルと思っておいて問題ないと思う」

「お兄さんのは神経衰弱で、ノイローゼと何とか変調症、とかみたいなやつ……だから、そこまで酷くはない、と」

 野上は眉間にしわを寄せて必死に僕の解説を噛み砕きながらも、きちんと要点を理解しているようだった。

「どうやら僕はかなりマシな方らしい」

 今の言葉は自分に向けた皮肉と当てつけだった。

僕だって、好きでニートをしている訳じゃない。怠惰が故に世を逃れている訳じゃない。


 しんけい‐すいじゃく【神経衰弱】――神経症の一亜型。神経が過敏となり、思考障害・集中困難・があっていらいらし、仕事の能率が上がらず、疲労・脱力感・不眠・頭痛・肩こり・眼精疲労などを訴える……

 ――が、他覚的所見に乏しい。

 岩波書店 広辞苑 第六版より


 誰にも理解されることなく、自分もまた限界まで隠し通すことができてしまうガン細胞。かと言って決して病によって死に至ることもなければ、五体満足でいられるがために反って周囲の同情を引くこともできない宿病。

 僕は目に見えない呪いによって、ギリギリの所でしがみついていた「人間社会」というものから滑り落ちた。

 そこまでのことは、今ここで彼女に訴えた所で分かってはくれないだろう。


「そういう訳だから僕は仕事にも学校にも行ってないんだよ。いや、行けないんだ」

「そうでしたか。ごめんなさい、話しづらいことを」

 そう言う野上の目には同情の色は窺えず、かと言って引いている様子もない。今の話を聞いて一体何を思ったのだろう。

「気にすることないよ。僕も聞いてもらえて少し楽になった」

 これは世辞ではなく、本心からの気持ちだ。僕は悩みを打ち明けたわけではなく、ただ少し不条理な現状を説明しただけ。要するに自己紹介だ。それを野上はただ僕が求める通りの反応をしてくれた。僕のことを知っても退きもしないし踏み込みもしない。それが僕には心地よかった。

「……あの、一つ確認してもいいですか?」

 野上が遠慮がちに挙手をした。

「どうぞ」

 さっきの話で分からないことがあったのだろうか。だとしても細かいことは聞き流してくれて構わないのだけれど。

 少女の唇が開いた。


「今お兄さんは、苦しんでいるんですよね?」


 言うべきか迷いながらも、放たれた裏表のない質問。

「……!」

 僕は言葉が見つからなかった。

 相変わらず修飾を知らない彼女の言葉だが、まるで日向を束ねた矢で胸を貫かれたかのような温かさと切なさがこみ上げてきた。

 初対面の男にこんな「まっずぐな言葉」をかけられる少女がいただろうか。同情ではなく、理解の言葉を自然と選び取るこができる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。

 この一瞬だけで、僕の中の呪縛が解けてしまうのかと思った。

 だが同時に、非常にこの場から逃げてしまいたくもなった。

 自分の本質的な部分、脆く感じやすい部分を射抜かれた僕は、どうしようもなく恥ずかしくなったのだ。

 どうか、それ以上は踏み込まないでくれ。そうでなければ、僕はこのいたたまれなさと君への恐怖で狂ってしまいそうだ。このまま君の首を絞めても、文句は言えないと思ってくれ。

 矛盾した、相反する、アンビバレンスな感情が僕の中で渦巻く。君には分かるまい。


 うかつだった、僕は、


「……そうだよ」


 そう言うのがやっとだった。

 コトリ、と野上がコーヒー缶を置く音が聞こえた。

 波紋。

 中身が空になって軽くなった金属の震える音が、目の前の噴水が作り出す波紋のように空間を駆ける。


「私がお手伝いしましょうか?」

「……は?」

 僕は一瞬野上の言葉の意味が分からなかった。だがそれが、僕の「神経衰弱によって困難になった生活のお手伝い」を指しているのだと気付いて、ますます混乱した。

「馬鹿なことを言うなよ。僕のヘルパーにでもなるつもりか?いくらなんでも突拍子だ」

「果たしてそうでしょうか?さっきお兄さんは私のこと助けてくれたじゃないですか。そのお返しだと思って」

「それでは対価が釣り合わない」

 僕は首を横に振った。

「対価?」

「僕がたかが自販機の下に落ちた小銭を拾ったくらいで、君に生活の助けをしてもらうなんて。こっちが見合わないと言っているんだよ」

「別にこれは取引ではありませんよ。ただ私がそうしたいと思っているからそうするんです」

 そして、野上は少し間を置くと切なそうにこちらを見つめてくる。

「それとも、私は邪魔ですか?」

 それはいくらなんでもずるくないか。そんな反応をされて突っぱねることができるほど、僕は女慣れしていない。

「……好きにしなさい。でもあくまで僕は君を友人として扱うからね」

「じゃあ、お見舞いですね!」

 野上は上手いことを思いついたとばかりにどや顔をした。

 見舞い。そう言われると、急にすとんと腑に落ちる自分がいた。

 ああ、そうか、見舞いか。まず神経衰弱になったやつに見舞いなんて聞いたことがないが、ああ、それは悪くない。決して悪くない響きだ。

 僕は静かに首を縦に振った。

「ふふ。決まりですね」

 まるで友達と行く旅行の行き先が決まったような風に喜んでいる。

「少しは退屈せずに済む、か」

「ええ、退屈させませんよ」

 今になって思うと、まるでこっちが口説かれたみたいだが、さすがにそれは自惚れだろうとそっと自嘲の笑みを浮かべた。

 ちょっと親切にされただけで、向こうの気まぐれで好意を向けられただけで、相手が自分を好いていると勘違いする童貞の鑑。

 それも相手は五つくらい下の少女。もしかしてこれは犯罪では、と過剰な心配がよぎった。


 ラインを交換しようと言われたので、スマホを取り出して互いのアカウント情報を送信した。ディスプレイに表示されたバーコードを読み取るというあれだ。

 画面を確認してみると、ほとんど家族の分しかなかった寂しいフレンド欄に新しいアカウントが追加されていた。

 アカウント名はシンプルに「雪奈」だった。何のキャラクターかは分からない猫のぬいぐるみの写真がアイコンにされている。

 僕はそれを見て、どうしようもなくそわそわとした気分になってしまった。ああ、僕は喜んでいる、期待している。なんと浅はかな。

吉見賢一よしみけんいちって言うんですね」

 野上は送られてきた僕のアカウントを見ている。

「ああ、うん」

「ま、私はお兄さんって呼びますけどね。いいでしょ?」

「……お好きなように」

 お兄さん呼びは少し恥ずかしくはあったが、もう今更だし、どうせ何を言ったところでそう呼んでくるのだろうから仕方なくといった風に了承した。


「じゃあ、早速ですがお兄さんのお家を教えてもらえますか?」

「ああ、やっぱそうなるのね」

「私はお見舞いをするんですから」

 それはいいのだけれど、一つ困ったことがあった。

 僕が一人暮らしだったら問題はなかった。いや、それだと神経衰弱のせいでまともに生活できないのだからそれはそれで問題だが。そうではなく、僕は両親と姉との四人暮らしなのだ。

 つまり、野上が下手に家に見舞いに来ると、他の家族と鉢合わせる可能性があった。余計な誤解や詮索を避けるためにも、それは御免だった。


 僕はそのことを野上に説明した。

「……だから、できれば家族のいない時間帯に来てほしいんだ」

 すると、

「確かに二人きりの秘密の逢瀬……というのも悪くないですねえ」

 野上はわざと妖艶な口調でそんなことをぬかす。

 野上がどこまで勘ぐっているかは知らないが、僕は断じてやましいことは考えていない。ただ家族には会わせづらいだけだ。

 ただそうやって言うと野上に余計な餌を与えるだけになると学習したので、黙って聞き流すことにした。

「住所を言う。それをマップで検索して確認してみて」

 僕は野上に家の住所を教え、野上はそれをスマホのマップアプリで検索にかけた。

しばらく待つと、野上がスマホの画面を見せてきた。

「ここでいいですか?」

「うん、そうそう。隣にシャッターの閉まった店があるはずだから、それを目印にするといいよ」

「じゃあ、明日さっそく行きますね!」

「え、明日?」

 今日は日曜日。明日は平日ということになるが。

「部活に入ってないんで、放課後は暇なんです。バイトも校則でダメだし。夕方は家族いませんか?」

「うん。共働きだからね。姉が一人いるけど、きっと学校で帰ってこないだろうから」

「じゃあ放課後にお見舞いに行きますね。お姉さんは大学生ですか?」

「まあね。名古屋の方まで毎日行ってるよ。君は校則でバイトできないってことは進学校?」

「はい。私頭いいんですよ」

 野上は得意げだった。たぶんこの辺なら僕の出身校と同じかもしれない。ただそれを追求しても、僕と野上の間には必要のない情報だと思い、学校の名前までは聞かなかった。

 今僕らに必要な事柄は、野上が放課後に僕の家に見舞いに来てくれるということ。それだけだ。

 僕らはベンチを離れ、それぞれの家路につくことにした。


「送っていこうか?」

 僕は駐車場で車のロックを解除しながら野上に言った。まさか自分がこんな気障なことを言うなんて、少し変な感じだ。いや、こんなことは気障には入らないだろうが、それにしても僕がこんなセリフを。なんだかむずかゆい。

 しかし、野上は首を横に振った。

「歩いて帰れるから大丈夫です。ありがとうございます」

「そうか」

「それに……」

 野上はふと申し訳なさそうな、気まずそうな顔をした。何か言いたくないことを言わされるときの表情だった。それを自分から言おうとするというのも変な話だが。

「私の家には招待したくないというか、お兄さんは知らなくていいんですよ」

「僕の家に来たいと言っておきながら、自分の家に来られるのは嫌かい」

 僕はまた呆れてため息を吐きそうになったが、止めた。野上の表情が変に思い詰めているように見えたのだ。思春期特有の恥じらい感情か、単に私に不審者に対するそれのような警戒心を抱いている部分があるのか。いや、それも何か、うん。

「ごめんなさい」

 野上が駄目押しのしおらしい謝罪を述べる。今度こそ、僕は酷い罪悪感に襲われた。

「いや、こっちこそ、ごめん」

「何でお兄さんが謝るんですか」

 野上が困ったように笑って見つめてくる。少し風が吹いて、野上のシルクのような黒髪をなびかせる。それは本当に胸にしまっておきたくなるような一枚絵だった。

「えと……明日、待っているよ」

 僕は何か気の利いた言葉をかけようとして、これが精一杯だった。

「はい」

 野上は真面目な顔で頷くと。背を向けて僕が車で来た道とは逆方向に歩いて行った。

 僕が車に乗って駐車場から出る時、野上は振り返って手を振ってくれた。穢れのない花のような笑顔で。

 かくして、人生の落伍者と翼の灼け落ちた天使は出会ったのだった。

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