はぐれ羊の無能と、お見舞い少女の幻想に捧ぐ

西田井よしな

序幕 ダム湖の畔で君の影を切り取った

1 自販機の前にひれ伏す少女

「うーん、あと少し……」

 一人の少女、およそ高校生と思しきその少女が、自動販売機の前にひれ伏していた。


 いや、ひれ伏していたのではない。自動販売機の下に手を突っ込んで、小銭を探していたのだ。

 しかも少女は私服ではあるが、スカートのすそから下着が今にも覗きそうであった。


「なっ……」

 それを見ていた僕は、赤面せざるを得なかった。彼女の無防備が悪いのに、謎の罪悪感が僕をさいなんだ。


 ――僕が今いるのは、近所にあるダム湖のそばの公園。

 僕が住んでいるのは東京の人たちはきっと知らないだろう内陸、山間の片田舎。ただ、そよの人が初見では読めないような変わった名前の市であることにのみ愛着がある。

 家から山沿いにけられた道路を昇り、トンネルを一つ抜けた所にあるそのダム湖は、山に囲まれ、石が積まれたロックフィル式。高さ、湖面の広さ共になかなかのものだ。

 ダム湖沿いの公園は、昔に比べると少しさびれている。まるで田舎の漠然とした寂しい空気に冒されたかのようだ。


 僕はそこへ、堕落だらくした日々の鬱屈うっくつとした気分と退屈を紛らわすために車で来たところだった。

 一面に広がる深い緑の湖面は、眺めているだけで心が洗われる心地がする……のだが、今はそれどころではなくなってしまっていた――。


「君、はしたないから止めなさい」

 僕はあらゆる緊張で声が上ずるのを必死で堪えながら少女に声をかけた。

 すると少女は気が付いてその体勢のままこちらに振り向いた。

「あ、ごめんなさい。邪魔でしたね」

 少女は自分のみっともないところを見られたことを恥じるでもなく、僕が飲み物を買おうとしているのを邪魔していたことを詫びた。そして何食わぬ顔で立ち上がると、服をぽんぽんとはたいた。

「いや、それはいいんだ」

 そう言って続けようとして、次が出てこない。

「……ええと、君は……」

「?」

 少女はそんな僕の様子を見て、やがて何かを悟ったような顔をしてこう言った。

「あ、はい。野上雪奈のがみゆきなです。高校は……」


 違う、そうじゃない。

「あ、いや、お金でも落としたのかなーって」

「ああ、五円玉を落としてしまって」

 野上雪奈はさも大事なものを失くしてしまったかのようにしみじみと言う。

「……五円?そんなもののためにあんな必死になっていたの?」

「五円を笑う者は五円に泣きますよ」

 野上は人差し指を立てて諭すように言う。

「それにすごく綺麗な五円玉なんです。小判みたいで、地味に大事にしていたんです。なのに誤って落としてしまって……」

 野上は再び肩を落とす。僕は呆れてしまったが、彼女は大真面目らしい。

 その時、僕は何だかくすぐったい感情に駆られた。


 助けてあげたい。野上に喜んでもらいたい。

 何でこんなことを思ったのか僕にも分からない。が、ここで放っておくのも何か違うような気がした。

 僕はスマホを取り出すと懐中電灯機能をオンにする。スマホに取り付けられたカメラの横から白い光が放たれた。

「え、何を……」

 そう言う野上を横に、僕はスマホを自動販売機の下に向けて隙間を照らす。放射状に放たれる光の中を舞うホコリが白く反射して、そこだけ雪が舞ったようになった。

 よく見てみると、奥の方に黄金色に光るものが見えた。


「あった!」

 僕はぐっと手を伸ばす。成人の男性にしては背が低いが、それでも手の長さは何とか足りるはず。

 指先が二度宙を掻き、三度目でようやく五円玉を捉えた。

 後は奥に押しやらないように、ゆっくりと、こっくりさんのように五円玉に押し当てた指を手前に引いて行く。

「もう少し……よし、取れた!」

 遂に五円玉を日の当たる所まで引きずり出して、それを服で少し拭いてやる。

 なるほど、確かに綺麗な五円玉だ。製造してまだ浅いのか、曇りない光沢を放つ小さな硬貨はどことなく手元に残しておきたい魅力を放っている。


「どうぞ」

 僕が五円玉を野上に手渡してやると、彼女は少し茫然としていた。

「あ、ありがとう、ございます」

 そう歯切れの悪くお礼をすると、何か言いたげにそわそわしていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「あの、別に私どうしても取り戻したかった訳じゃないというか、いやそう言うとあれですけど。欲しかったですけど、なんかそこまでしてもらうのは悪いですよ」

 そう言って野上ははにかんだ。一体この少女の恥じらいのツボはどうなっているのだ。さっきの格好を見られても恥ずかしがらないのに、親切をかけられるだけで恥ずかしがるとは。


 でも正直、可憐だと思った。

「別に大したことじゃないよ。そんなことより、君はもうちょっと気を使った方が良い。その……」

「?」

 野上ははてと首をかしげる。本当に、調子の狂う子だ。

「さっきの格好。無防備すぎる」

 僕はさっきの野上のお尻を突き出して地面に伏したポーズと、露になった白い脚を思い出してまともに彼女を見れなくなり、顔を背けて手で覆ってしまった。

「あ、あはは。そっちですか。すみません、気を付けますね」

 野上はやはり意に介さぬ様子で詫びる。

 苦い声色が混じっているので恥じらいがないという訳でも無さそうなのだが、その余裕は何なのだろう。

「もしかして、見えてましたか?私は別に大丈夫ですから、お気になさらず胸にしまっておいて下さい」


 本当に、その余裕は何なのだ。

「見えてない!胸にもしまっておかない。すぐ忘れるから大丈夫だ」

 僕が即座に言い返すと、野上は可笑しそうに笑った。

「笑うな」

「あははは。ごめんなさい。でもすぐ忘れられたら、私嫌だなぁ」

 野上は呑気に言う。

「からかっているのか?」

「いいえ。ただ、私がそんな魅力のない女だったら嫌だなって思っただけです。そんなすぐに人の記憶から消えてしまうようなつまらない人間だったら嫌だなって。それだけです」


 野上は少し遠い目をして真面目に答えた。

 本当によく分からない子だが、その返答は個人的に嫌ではなかった。

「君は若いのに詩人なんだね」

「あなただって若いじゃないですか」

 馬鹿にされたと思ったのか、野上は少し頬を膨らませている。

「まあ、これでも二十一なんだけどね」

「へえ、じゃあ先輩後輩って訳でもないんだ。お兄さん……?まあでもそんなことはいいんですが」

「さいですか」


 僕は話もそこそこに自動販売機でコーヒーを買った。冷たい微糖の、そのくせきっと予想以上に甘いであろう、普段はあまり飲まないやつを。

「まあ君の言いたいことも分かるよ。自分が、誰からもすぐに忘れられるような存在だったら、自分に何の価値があるのかなんて思うよ。僕も」

 そう言いつつコーヒーを取り出そうとすると、中には同じコーヒー缶が二本も落ちてきていた。

 僕が不思議がりつつ二本とも缶を取り出すと。野上が「あっ」と声を上げた。


「そうだ、私まだ買ったっきり取ってなかったや」

 なるほど、野上が同じものを買っていたのか。僕は苦笑いしながらコーヒー缶を一本手渡す。

「ありがとうございます。えへへ」

 我ながら、何をやっているのだろう。事がひと段落してふうっとため息を吐くと、野上が声をかけてきた。

「あっちで休みませんか。ここは暑いです」

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