第2話 猫らしく

 次の日の朝、トコは張り切って目を覚ましました。まず、一緒に寝ていたココを小屋から連れ出します。

「ココ、立派な猫になるための練習を今日から始めますよ。頑張りましょう!」

 ご主人様は、歯みがきしながらトコを見ていました。

「立派な猫ねえ」

「ええ。そうさせることが親としての義務です!」

「ふぅん。ぼくは店にいるから、何かあったら呼んでね」

「私だけで大丈夫ですよ」

 トコは鼻息を一つ吹きました。

「さあ、ココ。まずは……」

 振り返ったトコはギョッとしました。さっき連れ出したはずのココがいません。

「あれ、どこに……あっ!」

 ココは小屋に戻って丸くなっていました。

「寝直したらダメです! 起きましょう!」

 トコは鼻先でココをつつきました。ココは余計に丸くなります。

「まだ、ねむいの……」

「猫は犬よりも長く眠るんでしたっけ」

 お天気のいい日は野良猫が裏の空き地でずっとお昼寝していると、トコは思い出しました。

「でも、寝ていたら猫としての練習ができません」

 いっている途中で、あれっと思いました。

「寝ている方が猫らしいのかも……でも、寝ていたら猫としての練習ができなくて……」

 最初からややこしいことになって、トコは昨日みたいにうなってしまいました。



 トコが決めていた時間よりも遅くなってから、二匹は裏の空き地へ来ました。

 ここには人間の子どもも来ますが、今の時間は学校に行っています。野良猫もいますが、トコを怖がっているので近づいてきません。

 ただ、ときどき車が入ってきます。そのことにはとても注意が必要だと、トコも野良猫たちもよく知っています。もちろんトコは車が危ないこともココに教えています。

「まずはこれです」

 トコが見上げているものは、空き地の隅に生えた木。二階建ての家くらい高くて、風を浴びるとざわざわゆれます。

「猫は木に登れるものです」

「でも、たかいの」

 ご主人様の家には二階がないので、ココは階段の上から一階を見下ろしたこともありません。不安そうに木を眺めてから、視線をトコにじわっと動かしました。

「ママ、やってみせて」

「えっ……」

 トコは困ってしまいました。犬なので、木に登ったことなんてありません。登ろうと考えたことすらありません。でも、子どもに手本を示さないのは親としてどうかと思います。

「わ、わかりました」

 人間の子どもだって木に登れる。人間は犬よりも足が遅かったりして、運動が苦手な生き物。それなら、人間より運動が得意な犬も木に登れるはず。トコは一生懸命にそう考えました。

「では……えいっ!」

 トコは前足で木にしがみつきました。

(人間の子どもが木に登るときは、こうやってから足を木に当てます)

 右の後ろ足を動かすと、木の出っ張ったところに引っかかりました。

(次に、手を上へ動かすんです)

 人間なら、手で他の出っ張りをつかめます。でも、犬の前足はそんなことができるようになっていません。

(あれ? あれ?)

 じたばたと前足を動かしても、何も変わりません。困っているうちに後ろ足が出っ張りから外れて、トコはバランスをくずしました。

 後ろ向きに倒れそうです。木にかみついて体を支えようとしましたが、そんなことをしても意味がありません。トコはあお向けに転がってしまいました。

(木登りがこんなにむずかしいなんて知りませんでした)

 すぐに起き上がりました。ココがどんな目をしているのかと思うと、振り返るのがちょっと怖いです。

(いえ、もう一回チャレンジです!)

 自分を勇気づけていると、ココがためらうような足取りで木に近づきました。

「ママもできないんだし、むずかしいのかな」

 前足を木にかけて――

 する、する、する。

 ココは木を上へ上へと進みました。犬のトコはツメをいつも出しているので先がすり減っていますが、猫のココは違います。必要なときだけ出せるツメは先が鋭くなっていて、木の表面に食い込ませて登ることができるのでした。

「初めてなのに、よくここまで……」

 トコはココを見上げているうちにぞくっとしました。

「ココ! 登るのストップです!」

 トコは木に登っている猫を何度も見たことがありました。木に登った後で困っている猫も。

 ココはトコの声が耳に入らなかったのか登り続けて、途中の枝へと進んでからやっと止まりました。きっと、そこがたわんでゆれると気づいたからです。

「ママ、これ、どうやっておりるの?」

 階段でも木でも、動物は登ることより降りることの方がむずかしいものなのです。

 春の風がびゅうっと吹き抜けていきました。いつもなら気持ちいいですが、今はそれどころじゃありません。枝が大きくゆれて、ココはあわててしがみつきました。

「ゆれるよー! たかいよー! こわいよー!」

「た、大変!」

 トコはとっさに木へほえました。木に登れないトコでは助けにいけません。ココがいる枝は、子猫の小さな体と比べればかなり高いところです。

 そうしているうちに、また風が吹きました。さっきよりも強くて、枝がさっきよりもひどくゆれます。

「あ」

「ああ! ココー!」

 ココが投げ出されるように枝から離れて、トコは体中の血が凍った気分になりました。

 でも、ココは空中でくるっと回転しました。まるでイスの上から降りる程度みたいに、トコの横へ着地。

「あれ……あたし、おりれたの」

「大丈夫ですか? どこか痛いところは?」

「ううんと……」

 ココは自分の体を不思議そうに眺めました。

「どこもいたくないの。すごくたかかったのに」

「そういえば、猫ってかなり高いところから落ちても平気なんでした」

 ココが登った木よりもずっと高い場所からだって、落ち方によってはケガ一つないとか。トコはそのことを思い出しましたが、ドキドキいっている心臓が落ち着くまでにはしばらくかかりそうでした。



 いきなり怖いことをさせてしまったかも。トコはそんなふうに思いました。だから二つ目に選んだのは、ご主人様の家と空き地を区切るブロックのヘイでした。

「次は、細いところを歩いたり走ったりする練習です」

 ヘイなら、高さはせいぜいご主人様の肩くらい。落ち方に失敗しても、あまり痛くなさそうです。でも、やっぱりココはしりごみしていました。

「このうえで? さっきよりひくいけど、こんどこそおちたらいたいかもしれないの」

「では、私が先にやってみせます!」

 トコは、ご主人様と一緒にテレビで動物番組を見ることがあります。番組の中には、かなり高い障害物を簡単そうに跳び越える犬もいました。トコよりも小さくて弱そうな犬が、です。

(テレビに出ていた犬は、遠くから走って勢いを付けていました。そうすればヘイの上にぴょんっと乗ることもできそうです)

 しっかりとヘイから距離をあけて、ダッシュ! 犬の足は人間よりもかなりスピードが出ますから、トコは風を切るように走ります。泥棒を追いかけたときも、この速さがあったお陰で見失わずにすんだのです。

 ただ、トコの知らないことがありました。テレビで障害物を跳び越えた犬が、芸を覚えるために特別な訓練をしていたことです。

 ヘイに近づいたところでジャンプ! トコの前足がヘイの上にかかりました。

 でも、跳び越えるほどではありません。トコはヘイにおなかを思いきりぶつけてしまいました。

「うぷっ」

 ごはんを食べた直後だったら、もったいないことになっていたかもしれません。そのくらい痛かったですが、トコは苦しんでいる場合じゃないと自分をはげましました。後ろではココが見ています。

(まだまだ!)

 痛みを我慢しながら前足でヘイにしがみついて、後ろ足も一生懸命動かして、トコはどうにかヘイの上によじ登ることができました。「泥棒を追いかけたとき、ヘイの向こうへ逃げられなくてよかった」と、頭の片隅で考えました。

 これはヘイの上に登る練習ではありません。ヘイの上で歩いたり走ったりする練習です。なのに、登るだけでも大変でした。先が思いやられます。ココのおどろいた目を確認して、心の中で自分をはげましました。

「さて、それでは……」

 トコは自分が乗っているヘイを見渡しました。

 ヘイはトコの肩幅よりもせまいので、心細さを感じます。こんなところでは、どう考えても方向転換なんてムリです。

 もちろん、トコは疲れたり困ったりしている姿をココに見せるつもりなんかありません。ここまで来たからには、歩いたり走ったりしてみせるつもりです。

(まっすぐ進むくらい、いつもやっています! ヘイの上にいると思うから、むずかしい気がしてしまうんです! さっき走ったときも、まっすぐだったじゃないですか!)

 トコは自分にいい聞かせて、駆け出しました。

 でも、ブロックのヘイは上にへこみがいくつもありました。さっき走ったところみたいなたいらじゃありません。

「おおっと!」

 トコは一メートルの半分も進まないうちに足を踏み外して、あごをヘイに打ちつけました。もちろんそれだけで終わらず、ヘイの下に転げ落ちてしまいました。

 落ち方も、さっきのココとは違います。音を文字で表現するなら、「すたっ」ではなく「ぼてっ」です。それを見たココは耳をふせて、しっぽをおなかの下に引っ込めました。これは怖がっているときの仕草で、犬も猫も似たようなものです。

「やっぱり、いたそうなの」

「こ、怖がっちゃダメです!」

 トコはいろいろなところが想像以上に痛かったですが、そんなことなかったふりをしました。

「さあ、ココの番です!」

「うん……」

 ココは不安そうな様子でヘイに近づいて、ぴょんっと跳ねました。

 大人の猫は、このくらいのヘイなら勢いを付けなくても跳び乗ることができます。ココはまだ小さいのでそこまで跳べませんでしたが、ブロックのへこみにツメを引っかけることはできました。わりと楽そうによじ登って、ヘイの上へ。

「ここで、歩いたり走ったり……」

 ココはヘイの上を歩いて、だんだん小走りになりました。さっきのトコと違って、踏み外したりしません。幅がせまいのに、方向転換も楽々です。

「こんなかんじ? いがいとかんたんだったの!」

「ほ、ほら。やってみればそんなものです」

 トコはココに笑ってみせました。でも笑いが引きつってしまっていると、自分でもわかりました。



 高いところに関係した練習は、やらなくてもどうにかなるかもしれない。トコはそんな気がし始めて、三つ目に選んだのは全然違うことでした。

「次に行きましょうか」

「まだやるの?」

 見ると、ココは身をふせてしっぽをゆらゆらさせています。しっぽを振ることは犬なら喜びの表現ですが、猫なら落ち着かない気持ちの表れです。

(さっきの練習、ココはうまくできていたのに)

 トコは不思議に感じましたが、話を進めました。

「次は、獲物を狩る練習ですよ」

 飼われているトコたちはごはんをもらえるので、獲物を捕まえる必要なんかありません。それでもトコは狩りが動物として大切なことだと思っていました。

「えもの? どろぼうみたいに、つかまえたいの」

 ココも今までと違ってうれしそう。しっぽが空へ向けてピンと立ちました。

 これは猫にとって機嫌がいいときのしっぽだと、トコは知っています。猫がどんなふうに狩りをするのかも。

「猫の狩りで大事なことは二つ。音もなく忍び寄ることと、待ちぶせをすることです」

 こっそりと獲物に近づいておいて、獲物が動いた瞬間に飛びかかって捕まえる。それが猫の狩りです。

 犬ならやり方が全然違って、一生懸命追いかけて相手がヘトヘトになるのを待ちます。猫より強い体力を持っているからこそです。

「まず、獲物を探さないといけませんね」

 トコは鼻を小刻みに何回も鳴らして、空気を吸いました。いろいろなにおいが鼻を通り抜けていきます。

(この辺りにいるのは、バッタ、トカゲ、スズメですか。大きめの獲物の方が捕まえやすそうで、飛ぶものだと捕まえにくそうですね。トカゲにしましょう)

 トカゲがどんなにおいなのか、人間にはうまく説明できません。無理やりたとえるなら、乾いた土と似ています。トコはそれがただよってきた方に顔と耳を向けました。

 わずかな音が聞こえます。人間や犬よりもずっと小さな生き物が草を踏んだ音です。まばらな草の間にトカゲが一匹いました。

「今から、私がトカゲを猫のように捕まえてみせます」

 トコは忍び足でトカゲに近づいていきました。

 カチ…… カチ……

 音がします。トコの足に生えたツメが、踏んだ石ころと当たった音です。

 トカゲもツメの音を聞いたのかもしれません。トコが近づく前にちょろちょろっと走って、どこかへ行ってしまいました。

「ちょっと待ってください!」

「おと、きこえてたの」

 ツメの音はココの耳にも届いていたみたいです。歩いている犬のツメが道路とか硬いものに当たってカチカチいうのは、動物に比べて感覚のにぶい人間だってわかるくらい。猫のココにわかるのは当たり前です。

「猫ならツメを引っ込められますから、音を出さずに動けるんですけど……仕方ありませんね。しばらくここで待っていてください!」

 トコはすぐに空き地から駆け出しました。道路を走って、ご主人様のお店へ急ぎます。

 ご主人様の家と空き地を区切るヘイには穴があって、抜け道になっています。ただし小さすぎるので、猫のココならともかく大型犬のトコは使えません。ヘイをよじ登って越えれば遠回りしなくていいですが、あんなかっこ悪いのはもう嫌です。

 途中に肉まん屋さんがあるので、とてもいいにおいがしました。でも、今は我慢しないといけません。ご主人様のお薬屋さんに入ると、今度はお薬の変なにおいがしました。それも我慢です。ちょうどお客さんがいなくて、ご主人様はカウンターをふいていました。

「どうしたの?」

「あの、すみませんけど……私のツメを切ってもらえませんか?」

「どういう風の吹き回し? いつも切るのを嫌がるじゃないか」

「教育のためです! ギリギリまでお願いします!」

 トコが頼み込んだので、ご主人様はツメを切ってくれました。深ヅメになりかけるくらい。

 空き地に戻ったトコは、ツメが短くなった足をココに一本一本見せました。

「お待たせしました! これで大丈夫です!」

 ココは不満げでした。

「それ、ツメをひっこめたんじゃないの」

「引っ込めたものと思ってください! 今度こそ猫のように捕まえてみせます!」

 トコはまた鼻を鳴らしました。トカゲのにおいはすぐに見つかって、耳を使ってどこにいるのか正確に判断。さっきよりも成長したトカゲみたいで、草を踏んだときの音が少し大きめです。もちろん犬にしかわからない差ですけど。

「行きます!」

 トコはもう一度トカゲに近づいていきました。今度はツメの音がしません。

 でも、トカゲはまたちょろちょろっと走り始めました。

(どうして気づかれたんです? いえ、逃がしません!)

 トコは後を追って走りました。

(私はもうあなたの足音を覚えました! 私から見えないところに隠れようとしても、追いかけ続けて……追いかけ続ける?)

 すぐに、自分がおかしいと気づきました。

(ずっと追いかけるなんて、犬の狩りじゃないですか!)

 それでは猫らしくする練習になりません。トカゲに追いついて捕まえるとき、どうにか猫の狩りに戻れないかなと思いました。

(私たち犬ならガブッとかみついて捕まえます。猫には他のやり方があったはずです)

 かみつく姿勢ができているのに他の動きへ切り替えようとしたのがいけませんでした。トカゲが走る向きをいきなり横に変えて、トコはついていけず、目の前にはブロックのヘイ! 鼻先からぶつかってしまいました。

(いつもどおりにツメがあれば、止まれたのに)

 犬のツメは、急停止や急カーブをするときにブレーキの役割を果たしてくれるのです。

 トカゲはゆうゆうと逃げ続けましたが、その先にはちょうどココがいました。

「まって!」

 ココは前足をすばやく動かして、通り抜ける途中のトカゲを押さえつけました。偶然ですが、待ちぶせして前足で獲物を捕まえるのは猫の狩りそのものです。

 トカゲは最後の手段を使いました。しっぽを自らぷつんと切ることです。そうすればしっぽはしばらく勝手に動いて、おとりになってくれます。

「トカゲのしっぽ! うねうね! うねうね!」

 トカゲは草の中に逃げていきましたが、ココはしっぽを前足で押さえたり放したりしました。とても楽しそうです。トコはそんなココを眺めながらため息をつくしかありませんでした。

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