4(疑惑)

 気がつくと、ぼくは自分の部屋のベッドに寝ていた。

 目覚めてすぐは何だかよくわからずに、ただぼんやりしていた。どうして頭に輪っかなんてはめられているんだろう、と思った。でもそうじゃなくて、ただ頭痛がするだけだった。

 そう意識すると同時に、ぼくはきいちゃんのことを思い出した。壊れたおもちゃみたいにぼろぼろにされたきいちゃん。空っぽの二つの穴から、暗い瞳がぼくを見つめる。

 胃の中に直接手を突っこまれたような吐き気を覚えて、ぼくは思わず体を丸くした。咽の奥が酸っぱくなって、胃に塩でも擦りこまれたみたいだった。吐こうとしても吐くだけのものがないのか、息ができなくて鼻の奥がつんと痛くなるだけだった。

 物音を聞きつけたのか、ドアが開いてお母さんが入ってくる。新聞紙を引いた洗面器を置いて、背中をさすってくれるけど、粘っこい唾液が出て、胃が裏返りそうに痛くなるだけだった。

「大丈夫?」

 しばらくしてようやく呼吸の整ったぼくに向かって、お母さんは言った。

 途端に、ぼくはきいちゃんのことを何もかも話さなくては、と思った。きいちゃんは殺されてしまったのだ。それも、これ以上ないくらい残酷な方法で。

「――お母さん、大変なんだよ!」

 そして、ぼくは一気呵成にしゃべった。

「ぼくね、工場できいちゃんと会う約束だったんだ。でもそこで会うときは、いっしょには行かないんだ。工場には猫がいて、ぼくが近づいたら逃げたんだ。それでぼくはきいちゃんが死んでるのに気づいたんだ。滅茶苦茶なんだよ。滅茶苦茶に壊されてたんだ。目玉がくりぬかれて、心臓のところに丸い穴があけられてるんだ。血は赤くなんかなくて、どす黒く固まってた。指が全部、鉛筆みたいに折られてた。とにかくひどいんだ。きいちゃんはぼくを怖がらせるために、あんなひどい死にかたをしたんだ。怖い話ばかりしているから、本当に怖いことが起こっちゃったんだ」

 ぼくが叫ぶようにまくしたてると、お母さんはただ困ったような顔をするだけだった。ぼくは不思議だった。きいちゃんは殺されたのだ。

 もしかしたらまだわかっていないのかと、ぼくはもっと詳しく説明しようとした。髪が引きちぎられていたことや、膝が砕かれていたこと、床に転がった白い骨の破片。するとお母さんは首を振って、「とにかく、落ち着いて」と静かな口調で言った。

 ぼくは口を閉じて、黙った。

「その話は、またあとでゆっくりしましょう。今は何も考えずにとにかく横になって。ぐっすり眠ったら、頭もすっきりするだろうから」

 ぼくにはどうしてお母さんがそんなに冷静なのか、理解できなかった。けど、頭の芯がしびれて、ぐらぐらするほど眠たいことに気づいた。確かにこんなんじゃ、まともにものなんて考えられそうにない。

 お母さんにそっとベッドの上で横にされると、ぼくはそのまま目をつむった。頭の中は宇宙戦争でも起こったみたいにごちゃごちゃしていたけど、眠りはすぐにやって来た。

 ぼくは夢も見ないくらいに深く眠り、気づいたらいつもの朝になっていた。



 それからぼくはあらためて、きいちゃんのことをお父さんとお母さんに話した。けど、二人ともどうしてだかまともにとりあってくれない。話をすっかり聞かせてみても、何故だか二人はそれを信じようとしないのだ。

 お父さんにいたっては、「軽く混乱しているんだよ」と言うくらいだった。ぼくは混乱なんてしていない。確かにきいちゃんは殺された。ぼくはこの目でそれを見たんだ。でもいくら言ってみても、お父さんは笑ってとりあってはくれなかった。

 ついには学校に電話をされて、ぼくは二三日のあいだ休むことになった。まだ気持ち悪いのは残っていたけど、病気になったわけじゃない。それなのに、ずる休みをさせるなんて――

 でも二人ともぼくが外出することを許さなくて、一日中家の中にいなくちゃいけない、と言われた。お父さんはいつもみたいに仕事に行って、家の中にはぼくとお母さんしかいない。

 二人が信じないというなら、もう警察にでも行くしかない。あそこであったことをみんな話して、きいちゃんを殺した犯人を捕まえてもらうのだ。

 ぼくが着替えて出て行こうとすると、お母さんがそれを見つけて訊いてきた。

「どこに行くつもりなの?」

 警察に行くんだ、とぼくは正直に答えた。

「ダメよ、寝てなくちゃ」

 お母さんはどうしてだか、ぼくを外に出したがらなかった。

「だって、お父さんもお母さんも、ぼくの話を信じてくれないじゃないか」

「いいから、今は寝てなさい。混乱してるのよ、あなたは」

 また、混乱!

 ぼくはまったくの正気だった。おかしいのは二人のほうだ。きいちゃんが殺されたっていうのに、どうしてこんなにいつも通りでいられるんだろう。二人とも、きいちゃんのことなんてどうでもいいんだろうか。

 でもぼくが何を言ったところで、お母さんはそれをとりあおうとはしなかった。おまけにぼくの外出を禁止して、リビングから廊下を監視した。そこを通らないと、玄関までは行けないのだ。

 仕方なく部屋に引っこんで、ぼくはどうすべきか考えてみた。でも考えてみると、二人が話を聞こうとしないなら、ほかの人だって同じかもしれない。こっちがどれだけ真剣に話しても、子供のたわごとで一蹴されてしまいそうだった。

 現場を見せるしかない、と思って、途端にぼくはきいちゃんの死体を思い出した。頭がくらくらして、胃が雑巾でも絞るみたいに締めあげられる。ごみ箱に向かってげえげえ吐いた。さっき飲んだスポーツドリンクが逆流して、紙くずやお菓子の袋と混じった。

 頭が痛んで、ぼくは立っていられなくなった。ベッドに横になると、ぼくが来るのを待っていたみたいに眠りがやって来た。でも今度の眠りはとても浅くて、ぼくは何度も起きたり眠ったりした。夢と現実の境界が曖昧で、まわりのものが大きくなったり小さくなったりした。

 そのどちらかで、ぼくは誰かの足音を聞いた。

 子供が不器用に走りまわるような、どたどたした足音だった。妙だな、とぼくは思った。お母さんがそんなふうに足音を立てるはずがない。

 一度ちゃんと目を覚まして、お母さんの持って来てくれたジュースやゼリーを口にしているときに、ぼくはそのことを訊いてみた。

「――足音?」

 と、お母さんは訝しげだった。

「そんなの聞いてないわよ」

 ぼくはまた眠り、再び夢と現実を行ったり来たりした。

 咽が渇いたので、飲み物を取りに階段を降りて台所に向かった。その時、ぼくは奇妙なことに気づいた。階段のところに、誰かの靴跡がはっきり残っているのだ。革靴みたいなぺたんとした足跡が、上に向かっていた。どうしてこんなところにこんな跡が残っているんだろう、と思いながら、ぼくは台所で水を飲んだ。

 部屋に戻るとき、その足跡はもうなくなっていた。

 結局、夜中になるまで、ぼくは眠ったり目覚めたりを繰り返した。時計の進みかたがでたらめになった感じで、気づいたら部屋の中が真っ暗になっていた。

 お父さんもお母さんも、もう眠ってしまったみたいで、一階からは何の物音もしない。晩ご飯を食べていなかったけど、特に空腹は感じなかった。

 ぼくはベッドから抜け出すと、トイレに向かった。

 夜中に、暗い家の中を一人でトイレに行くというのに、ぼくは全然怖くなかった。あんなものを見たあとだけに、きっと耐えられないくらい怖くて仕方ないだろうと思っていたけど、実際には何の気持ちも湧いてこない。

 暗がりから白い手がのびてくることもないし、便器の中に突然引きずりこまれることもない。時計の音が何かを引っかくみたいに大きく響いて、冷蔵庫のコンプレッサーが立てるぶーんという低い音が聞こえた。

 たぶん、怖いものはみんなあそこにあるからだ。

 半壊したきいちゃんの死体といっしょになって、あそこに。怖いものはここにはなくて、ずっと遠く、世界の裏側みたいな場所にあって、絶対に手が届かない。怖いものはみんな、そこにだけ存在し続ける。

 ぼくは部屋に戻って、明かりもつけない暗闇の中であることを考えていた。

 ――どうして、二人ともきいちゃんの話を信じようとしないんだろう?

 ――寝ているときに聞いた、あの足音は誰のものなんだろう?

 ――階段についていて、あっというまに消えてしまった靴の跡は?

 ――そもそも、ぼくをあの場所から家まで運んできたのは誰なんだろう?

 それに、きいちゃんがいなくなっているのに騒ぎになっていないのは何故なのか。きいちゃんの家の人だって、今頃は心配しているはずだ。それなのに、少しもそんな様子がない。

 ぼくは考えた。

 夜が明けるまで考えつづけた。

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