空よりも
「初めて一緒に読んだ詩集はなんだったか、覚えてる?」
どこかおぼろげで甘ったるいこの空間と雰囲気の中で、あの日の記憶の糸を辿っていく。
隅には埃がたまり、蜘蛛の巣が張った古い書斎で私たち2人は何を読んでいた?
オレンジ色の西日をランプ代わりにして、何をあんなに熱心に学ぼうとしていた?
私たちが初めて一緒に読んだ詩集。
この本を、大人になっても忘れずに、いつかまたこの本を2人で読む日がくるといいねと言葉を交わした、その詩集は誰の著書だった?
「ヴィクトル・ユーゴーの…?」
その答えが満点だというように、彼は、無邪気に子供のように笑った。
「正解。その彼の言葉にこんなものがある。」
笑うと垂れる眉は、昔と変わっていない。
精悍とは真逆な、優しさばかりを感じさせる顔をしているのも昔からだっただろうか。
"海よりも広いものがある。それは空だ。
空よりも広いものがある。それは人の心だ。"
覚えているとも。
幼心にも私達は、海と空の壮大さに心を打たれ、
さらにそれをも超える人の心というものはなんなのか。と、
何度も何度も子供遊びの討論を重ねていた。
十歳やそこらの子供にしては変にませた問いだったように思う。
当時、その答えはついに見つからなかったが、
今日この日まで、その問いかけさえも忘れていた。
それくらいに淡く他愛ないものだったのだ。
「君は雪の日の空が好きだと言った。
しかしヴィクトルから言わせれば、君が好きなその空よりも広いもの、
すなわち人の心がこの世にはあるということだ。」
ちらりと、窓の外にエドワードは目をやった。
あいにく今日は雪ではない。
それでも彼は窓の外の空を眺めている。
その横顔はどこかあの日々を思い出しているようにも見えた。
そして私の方はと言うと、もはや口を聞く余裕もなく、
ただ彼の、引き込まれる、俗にいう魅力というものと、
年月が積み重ねてきた彼と私の美しい時間に飲み込まれていた。
「僕はずっと疑問だった。
空よりも広いものなど存在するはずがないとそう思っていた。
人の心は…大人になって知ったけど、そんなに広くはない。
だからヴィクトルのこの言葉は嘘だと思っていた。」
どこか恥ずかしそうにはにかんで、まだまだ僕も幼かったんだ、
と付け足して彼はこちらに向き直った。
「空より広いもの。」
そう呟きに似た声で言って、
椅子に腰掛けた私の目線まで腰を落とし、目を覗き込んだ。
「君にとってそれはなに?」
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