エドワード・ウィルコックス
「…婚約者候補はあなたよ。」
彼の、ページをめくる手が止まった。
ほんの数秒、沈黙がこの場を制した。
ああやっぱり何も言わずに、両親には断ればよかったか。
そりゃあそうだ、好きでもないただの腐れ縁の女に、
あなたが私の婚約者候補ですと言われても戸惑うだろう。
失敗した。嘘だと言ってごまかそう。
そんな考えがものすごい速度で頭を駆け巡っていった。
「僕は構わないけどね。」
間違いなく彼はそう言った。聞き間違いなど断じてなかった。
この距離で言葉を聞き間違えるほど年は食っていない。
結局、困惑したのは私の方だった。
「今なんて…?」
上半身だけ振り返って、彼の顔を見上げた。
彼もまた私を見ていた。
少し決まりの悪そうに、困ったように小さく微笑んで。
どうしてそんな顔をするのか、私には分からなかった。
しかし、意識すると、人というのは全く別人に見えるらしい。
今まで私の中のこの男の姿は、十数年前の出会った時のままだった。
笑うと下がる眉と、右頬にだけ遠慮がちに浮かぶえくぼがどこか優しい印象を与える顔。
しかしその顔を、婚約というのを意識して見ると、出会ってからの十数年を一気に含んだ姿になる…ということを今初めて知った。
彼は、昔、父の書斎で隠れて本を一緒に読んだ時の少年ではなかった。
あどけない少年は、今や目の前の男の面影としてしか生きてはいなかった。
彼はもう男だった。エドワード・ウィルコックスという1人の男だった。
少年が、あの日の夕焼けに溶けていく錯覚を見た。
「僕は構わないけどね。って言ったんだ。」
エドワードはもう一度、真っ直ぐ私の目を見て言った。
そこに嘘はないと、よくわかる目だった。
彼のその明るい蒼色の目には、驚いた顔の私が映っている。
彼の目に、私はいつもこんな風に映っていたのか。
怪訝そうな顔をした、最低限の化粧だけを施した、疲れた女の顔。
私はこんな顔じゃなかった。あの頃は、もっと生き生きしていたはずだ。
あの日々、書斎で彼と一緒に本を読んだ日の私はもっと…。
こんなに疲れた顔で彼の目に写っていることが、急に恥ずかしくなった。
しかし彼はそんなことはつゆほどにも気にしていないという様子で、
さっき窓の外を見ていた時と同じ、ほのかな微笑みを浮かべ、
一文字一文字を噛みしめるように言った。
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