4. 藤井、ひとまず退散する


 あーあ、藤井、やりすぎ。

 神様が呆れ顔で呟くのを、藤井は自分の手の上という不安定な位置から笑顔で見ていた。そしていとも簡単に首を元のように据え付けると、往来に伸びてしまった松原ハジメの肩を揺すった。それでも松原はまったく目を覚ます気配がない。

「仕方がない。少し待ちますか……」

 藤井は独りごちると、横たわる藤井の隣に体育座りで待機していた。


──何だかおかしな夢を見ていた気がする。

 松原は倒れた拍子に頭をぶつけたのか、頭に鈍い痛みを感じていた。

──確か、ホテルマンみたいな恰好のおじさんの……幽霊?に遭って……

 そこまで記憶をたぐり寄せ、ゆっくりと目を開く。しだいにまぶたを押し広げていって視線を横にうつすと、果たしてそこにはホテルマンのような格好の初老の紳士がいた。

「う、わあっ!」

 大声を出すと、松原の頭はなおさら痛んだ。思わず松原は自分の頭を押さえてしゃがみこむ。

「いてて……」

「大丈夫ですか?」

 紳士は松原の顔を覗きこんでいた。走ってこの男から逃げたいのに、体が言うことを聞かない。

「申し訳ございません。この藤井、少々やりすぎてしまったようです」

 藤井と名乗る紳士は、恭しく頭を下げた。

「あなたがご覧になったのは、夢……そう、夢です」

 松原は目を見開き、よろよろと立ち上がった。この男の一貫性のなさがただ不気味だった。恭しい態度も余計に恐怖心を煽る。

「松原様に、信じていただきたかったので……」

 藤井は顔色を変えず、声の抑揚だけで申し訳なさを伝えてきた。

「それで……先ほどのお話なのですが、いかがですか?」

 松原は記憶をたぐり寄せた。

──何だったかな……。

 確か、契約がどうとか……。

「この藤井と契約すれば、あなたを必ず成功に導きます。とお約束したのです」

「いかがでしょう」

 松原は焦点のおぼつかない目で、曖昧に首を傾げた。


松原は、これが音楽を始めて間もない頃だったらこの怪しい男の話にふらふらと耳を傾けてしまったかもしれないと考える。

 初期メンバーとバンドを組み、曲を作って持ち寄ってリハをするのが楽しかった日々──。

「……少し、考えさせてください」

 松原はそう言葉を濁した。藤井は深く頷き、明瞭な発音で答えた。

「いいですよ。いくらでもお待ちいたします」

 確信を持って答えた藤井が幻なのではないかと思い、松原は何度かまばたきをした。

──音楽性のダメ出しをされたことで、夢を見てしまったのかな。

 松原が一瞬目を閉じ、再び開く間に、「藤井」と名乗る紳士は姿を消していた。

「いないし……」

 松原ハジメは呆然とつぶやいた。ごしごしと目をこすると、アルバイト先である知人の経営するデザイン事務所を目指して歩き始めた。

 どこも体は痛くなかったし、頭の中も不思議と冴え渡っている。

──かなりキツイことを言われたはずなのに、俺、大丈夫なんだな。

「落ち込む」という心の状態がかなり鈍麻している自分に気付き、先ほどとはまた少し違う恐怖を覚える。

「あの男とはまた会える気がする」

 松原は、誰もいない虚空に向かって独りごとを言った。

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