2. 藤井、単独行動する


 藤井が下界に降り立ったとき、季節は夏だった。アスファルトから湯気が立ち上り、藤井の足元を揺らしたが、暑さを感じない藤井は涼しい顔をして街中を歩いていた。営業マンらしきサラリーマンも半袖シャツを着る中、藤井は汗一つかかずに白い長袖シャツとベストを着こんでいた。

 藤井はしばらく街中をうろついた後、小さなライブハウスの前で立ち止まり、出演バンド名が書かれた看板をじっくりと眺めた。そして、ためらうことなく地下のライブハウスへと降りて行った。


 天界でそれを見守っていた神様は、「はあっ?」と声を裏返す。自分が「発注」したアーティストとは違っていた。

「藤井……」

 藤井は時折、というかしばしば彼の独断で神様の命にあっさりと背いた。

「大丈夫です。ご主人のお使いは後で必ず」

 空に飛行機雲で文字を書いたように、藤井からのメッセージが浮かび上がり消える。

「主人の命令を後回しにするなよ……」

 神様は右手で額に手を当てたが、どこか楽しそうな笑みを浮かべた。


 藤井が見に来たのは、もうすぐ三十歳になろうとしている男性二人組のデュオだった。神様に付き合って時折水面下を覗きこんでいた藤井は、独自にあるアーティストに目を付けていた。

 音楽性そのものは、ふんわりとした優しいサウンドで、自然の下で聴くことが似合いそうな雰囲気だ。ヴォーカル、ギターとベースの二人組。

 ヴォーカルは男性にしてはやや長めの、マッシュボブのような髪型。ベースはセンターで分けた短めの髪。二人とも黒髪で、細身だった。服装はごくあっさりしているが、実は鏡の前で何度もシルエットを確かめたのだろうと藤井は後に知る。

 ライブハウスのお客も、彼らの音楽に呼応するような、そこそこおしゃれな若者たちだった。暴れて汗をかくでもなく体をゆっくりと音楽に委ねて揺らしている。

 どこでも浮いてしまう藤井だったが、言うまでもなくここでも浮いていた。

 ワンドリンク制なのでドリック代を払ったがチケットを交換せず、よく見える位置に移動した藤井は二人の男性をじっくりと見つめた。


「楽しそうではないな」

 神様も天界でつぶやいた。神様が目を付けがちなのは天才肌タイプで、藤井チョイスにはまた違う審美眼があった。言葉を当てはめようとするならば、それは「人間性」かもしれなかった。

「まあまあ気持ちよくて、聴いていて邪魔にはならないけど」

 神様は小さなステージの上の二人を眺め、交互に藤井を見つめた。藤井が何のために男たちに近付いたのか知りたかった。

 熱狂的な盛り上がりを見せることもなく、ライブは終わった。

 藤井は直立不動のまま、表情も変えずにいたが、彼が目当てにしていた「tipi」のライブが終わると静かにライブハウスを後にした。


「tipi」のギターボーカルである松原は、レコード会社の担当者から説教されている真っ最中だった。

「今日のお客さんの入りも今一つでしたね」

 松原自身もわかっていることを、担当者の女性、柏木美穂は淡々と告げる。恐らく年下であろう、メイクの濃い、自身もタレントのような容姿の持ち主だ。

「この間のEPで音楽の方向性を変えてみましたけど、正直何て言うか……いいけど地味なんですよね」

 ぐさりと音を立てて松原の胸が抉られる。実際にはもちろん無傷だし、こういったアドバイスはデビュー以来何度も受けてきた。

 松原は曖昧な笑顔を浮かべて「はあ」と頷いて見せた。何を言われても契約を打ち切られることだけは避けたかった。

「私は好きなんですけどね」と今さらのように柏木は言い、ちらりと傍らの新人男子を見た。

「僕もtipiさんの音楽、いいと思います。好きです」

 鶴見と言う名の、まだ学生のような新人プロモーターは、まっすぐな目で松原を見つめた。先ほどの女性の言葉が明らかなお世辞に聞こえたのに対して、鶴見の発言には嘘が感じられなかった。

「ただ……tipiさんは四人だったバンドが二人になられて、音数も工夫が必要になって、苦肉の策として現在の形になりましたよね。それであのクオリティなので素晴らしいのですが……松原さんは今の方向性で納得されてるんですか?もっと……」

 鶴見はさらに何かを言おうとしたが、松原はそれを遮った。

 何らかの核心に触れられそうで怖かった。

「あ、それは……考えに考えて今の形にしたんで納得してます。でも、もっと売れるように考えないとダメですよね」

 松原は早く話題を終えようとした。鶴見は何か言いたげに口をぱくぱくさせていたが、結局のところは「そうですか」と言って黙ってしまった。

 元々四人のバンドだったのが、意見の食い違いから二人が脱退。新しく二人のメンバーが加入したが数年で脱退。そして今のメンバーが新しく加わってくれたが、実はもう音楽への情熱が薄れている。直視したくない状況だった。

「何だ。俺だけがこのバンドにしがみついているんだな……」

 打ち合わせのあった帰り道、松原は改めてそう思った。


 足取りの重い帰り道。

 松原はレコード会社の担当者からだけでなく、所属している事務所からも同じような話を何度も聞いた。CDの売り上げが悪いと、「どこが悪かったのか」という反省と、次回作を作れるか保証はないができるとしたらどんな方向性のものを目指すか話し合う。

 メンバーが辞めたのも、思うような音楽を作ることができなかったから──。

 松原はバンドのリーダーとして、メンバーの不満を汲み取り、レコード会社とメンバーの間に入ってうまく舵取りをしなければならないはずだった。

 ワンマンタイプに振舞うのなら、いっそそのほうがよかった。松原が信じる音楽を強引に押し通せばよかったのだ。

 しかし、温厚な松原はメンバー一人一人の意見をきちんと聞き、平等に反映させようとして、結果失敗した。

 全員の意見がぴたりと一致する方向性などというものは──まずないのだ。

 結局、そのときのメンバーの中で一番強引な者の意見にいったん流れ、音楽性はあちこちに漂流した。その評価は特別悪くもないが、そこまで好評でもなかった。


「……やっていて、楽しくないんだよなあ」

 暗がりから声がした。

 松原は一瞬自分が知らず知らず口に出していたのかと、心臓が縮み上がる思いがした。

「これは失礼。あなたの、心の声が聞こえた気がしましたもので」

 驚きのあまり、ぽかんと口を開けている松原の目の前に、紳士、と呼ぶ他はない衣装に身を包んだ男性が立っていた。

「……あなたは」

 と言いかけて、松原は思い出した。ライブハウスでこの紳士に似た、妙に浮いた男性を見かけたのだった。

「はい。先日ライブを拝見させていただきました」

 誰かお父さんに付き添ってもらったお客さんがいたのかと思っていた。

 こうして話しかけてくるところを見ると、松原の音楽に何らかの興味があるのだろうか?

 考えかけて、先程の台詞が蘇り、背筋が冷たくなった。

 確かに松原は、そう思ったのだ。

──音楽をやっていても楽しくない。

 それも、ここ何年もずっと。

 そんな、松原自身の中でも漠然としていた心のモヤモヤを年も価値観も違いそうな男性に言い当てられた。これと同じような目を、他にも知っていると松原は考えかけ、ふと思い当った。

──そうだ、さっきの新人プロモーターの……。

 まっすぐにこちらを射抜くようなその目を思い出していた松原の思考は、男性の言葉によって急に断たれた。

「どうですか?松原さん。この藤井と、契約してみませんか──?」

 どうして僕の名前を、と思ったのと同時に、紳士の眼の色が狂気を帯びているように見えてひるむ。

「契約?」

 何を言ってるんだ、この人は。

「はい……詳しい話は、これから致します」

 そう言って、「藤井」と名乗る男は、無表情な顔にうっすらと微笑みのようなものを浮かべた。

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