第1話-②
2
夕食中、ユァブは転生したい理由の旨をかなりの長時間をかけて話してくれた。それは僕が夕食に箸をつけた時に始まって、僕が味噌汁を飲み干した時に終わった。とはいっても理由がそれほどあるわけではなく、彼女はいかに自分が大変な思いをして働いてきたかをただくどくどと話しただけなのである。そういった曲がりくねった論説をまとめると以下の通りになる。
元々彼女は大型パン製造会社の営業部に就いていた。彼女は僕より一歳年上だから、五年程その会社に勤めていた事になるが、彼女の直属の上司が意地悪で嫌な思いを以前からしていたらしい。それに商品のパンにしても、一体何の種類が売れるのかがそれまでの研究によるノウハウによって明確に分かってしまい、五十年前から流行のサイクルをぐるぐると周っている市場が酷くつまらなく感じるのだという。また、何千年も変わらない料理である、パンというものに対して、単純に味が飽き、もうこれ以上パンを食べる事に辟易してしまったと言った。もう今ではパンの臭いを嗅ぐだけで吐き気を催すらしい。これらの理由によりもう仕事を続けるのが限界だったそうで、彼女は今日、辞職の願いを提出し会社を辞める手続きをする事にしたそうだ。
それが何故転生に繋がるのか僕には良く分からなかった。仕事が嫌なら転職すればいいし、そうでなくとも少しの間休業という形でゆっくり休めばいい。それに、彼女は今二十九歳だ。既に三十路は見えているが、逆に言えば三十路の人生を楽しんではいないし、それに彼女の寿命はあと五十年はある。その年月を消費せずに転生するというのはあまりにももったいないだろう――と、僕は説得を試みたが、ユァブの決意は固かった。
兎に角、彼女はこの世界の社会構造が心底嫌いになったそうで、転職すらもしたくないのだという(曰くどこの会社も、前職の環境と大きく変わらないから転職の意味がないそうだ)。もう世界そのものを変えなければ、幸せに生きる事なんて叶わない。だから転生したいのだ、と。
コップの麦茶を一気に飲み干し、それで僕は少し落ち着く事が出来た。目の前のテーブルにあった食器は既に、《ストロベリー》が全て台所に運びきって食器洗い機にセットしている。
テーブルの向こう側には、ユァブはいつもの通り座っていて、まるで何かから解放されたみたいにうきうきとしていたが、その目は一分も笑ってはいなかった。
「《ベリー》、麦茶をもう一杯くれないか」
《ベリー》が近くを通ったところで僕は言った。身長百四十センチ程の彼女は「『分かりました、旦那様』」と頷きコップを受け取った。そして主脚補助脚合わせて四つのローラーをキュルキュルと動かしながら冷蔵庫へと向かって行く。
「だからもう、こんな世界どうでもいいなと思ったのよ」
卓上のマグカップの淵を指でなぞりながら、ユァブはぽつりと言った。
「二十九年も生きてたら大体の事は分かるようになったし、別の世界で生きてみたいなって思ったの。どちらにせよ資本主義に毒された人ばかりが上にいるこんな社会じゃ、自由に生きる事なんて無理だわ」
「君はよくそういうけどね、百年前に比べたら労働環境は大分進歩したと思うよ」
「ねえ、今話してるのは現代の事。大体百年前っていつよ、その人達って馬車で移動したり洗濯板で洗濯してたんでしょ」
「それは二百年前だ」
「二百年だろうが百年だろうが、昔の事に変わりはないわよ」
ユァブは現代主義者で個人主義者だった。歴史を重く扱う事を止め、その代わりに現代における思想や科学技術を重視していた。今の二十代から三十代では一般的な考え方で、大学の第二専攻に歴史学を選んだ僕の方が、過去に引きづられた考え方で少数派だった。
「それに、どうせ二年後に皆死んじゃうでしょ。今のうちに異世界に生活を移した方がいいのよ」
ユァブはウォッカと何かを混ぜた何とかといったカクテルを一口飲み込んで言った。彼女が言っているのは二年後に地球に衝突すると言われている《カタストロフィ・ボーイ》と名付けられた巨大隕石群の事である。それは僕が生まれた時からまるで生活の一部のように存在し、共和歴百年に地球に衝突して生命を滅ぼす程度の気候変動を地上に及ぼすと言われていた。
無論、呆けて空に映る五つの光を見つめている人類ではない、一応公的な発表ではWTSOは、隕石を破壊するための兵器を衛星軌道上に幾つか作ったのだという。
今、インターネットや《拡張ネット》等でPRを行っているキャラクター《かたす君》も、WTSOが広告会社等と連携して、悪いイメージやら不安やらを払拭する為に造ったマスコットの一つだ。地球を滅ぼす程度に巨大な岩の塊達が、地上では携帯端末のアクセサリーやステッカー等に翻訳されているのだからおかしな話である。
「共和連合政府やWTSOが色々やってるだろ? 衛星型のビーム兵器なんか何十年も前から計画して造ってきたんだ。それにもし激突しても《地下コロニー》がある。死ぬ事はきっとないさ」
「そうね。一生地下に潜るはめになって、太陽の姿なんか二度と見られないモグラ人間になるのよ」
「…………」
「兎に角、転生という手段は貴方にとっても悪くないと思うわ。貴方だってぼやいてたじゃない、仕事が退屈すぎておかしくなりそうだとか、通勤時間が長くて苦痛だとか」
それは実際その通りだった。今の課に転属してから、慣れるのに長い時間を僕は費やした。自分にある程度のコミュニケーション能力があるのを、適性試験で自覚してはいたが、それと同時に環境の変化に対応する事が苦手だという事も、それによって判明していた。だから二年前の転属したばかりの時は、彼女に対しよく愚痴を漏らしていたような気がするし、それは半年程長く続いた。今は耐えられるようになったが、その事をユァブはよく覚えているのだろう。
《ベリー》がキュルキュルとタイヤを駆動させて、僕の元に麦茶を置いた。《ベリー》は邪魔しては悪いのだろう、とそそくさと待機場所へと戻っていった。顔面の表情モニタに映った彼女の表情は、どこか不安そうに見えた――そう見えるのは、僕の心の方が不安に満ちていたからかもしれない。
そんな僕の事は露知らず、彼女はにこにこしながら端末に写っている電子パンフレットを改めて僕に見せつけてきた。
「でね、私は転生するとしたら《第三異世界》にしたいの」
パンフレットには《連営会社共和連合日本支部ハートウォームワーカーホールディングス 『てんせい』》と書かれていて、その下には、
『安心安全な転生を私達は提供します』
『人生最後の そして来世最初の ライフプランを貴方に』
とキャッチコピーがくっついている。画像中部には《外世界》の種類が書かれていて、《第三異世界》は『中世ファンタジーのような世界 美しい世界へ生まれ変わりましょう』と説明づけられている。
「綺麗な世界に二つの月、ほら、この写真なんか本当に素敵でしょう? こんな場所、この地球のどこにも存在しないわ。やっぱり私は妖精型人類に生まれ変わる方がぴったりなんだよ」
うっとりとパンフレットを見つめる彼女に、僕はたじろぎながら反論した。
「……でも、いきなりそんな事言われても、俺だって仕事を辞める手続きを取らなきゃいけないし、それに多くの人に別れを伝えなきゃならない」
「分かってるって。転生するのは一か月後の予定。それなら十分時間があるでしょう? ユウマの仕事は辞めるのに結構面倒だしね」
「俺はまだ転生するとは一言も――」
「するよね?」
パンフレットから顔を上げれば、ユァブの鋭い目つきがいつの間にか私を捉えていた。
その顔はもう先程までのように微笑んではいなかった。
「するよね?」
「……考えてみる」
まるで蛇に睨まれた蛙の如く何も言えなくなって、私はそう小さく呟くほか無かった。
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