後編「実行」

 人の往来もなくなった夜の住宅街を、俺とリリィは並んで歩いていく。町並みは眠るように静かで、街灯の唸り声と俺たちの足音だけが夜に染み入っていく。

 しかし周囲の静けさとは裏腹に、俺の心臓は激しく鼓動を刻んでいた。これからリリィにさせることの罪深さを想像したら、それだけで背筋がゾクゾクする。

 リリィはまだ何も知らずに平然とした様子で俺の隣を歩いている。これから彼女のその口がどんな言葉を紡ぎ、その身体がどんな挙動を示すのか、今から楽しみだ。

 やがて俺たちは近所の公園に到着した。地面は砂が剥き出しで、小ぢんまりとした敷地の中に僅かばかりの遊具が設置された、どこにでもあるような公園だ。

 その真ん中にポツンと佇む街灯の前まで歩き、俺は立ち止まった。リリィも同じように俺の隣で立ち止まる。

 まるで舞台照明のように街灯が俺たちを照らし出し、濃い影を砂地に落としている。

 そして俺はおもむろに、持参してきたものを地面に置いた。何ら変哲の無いプラスチック製のバケツだ。中身は何も入っていない。

 そして俺はゆっくりとリリィに語りかけた。

「リリィ、お願いがあるんだ。今から、そのバケツに排油してほしい」

 これが俺の考えた、リリィの新しい反応を引き出す方法だ。

 説明書によると、排油にはオート排油の他に、ユーザの命令で排油を行なうマニュアル排油があるらしい。しかし、もしも平常時とは違う環境で排油を命令したらどうなるのだろう? 俺はそれを試してみたかった。

 するとリリィの返答はこうだ。

「注意。排油はタスク管理機能に基づいて適切なタイミングで自動的に実行されます。マニュアル排油を多用すると、リリィのタスク管理ポリシーの形成を阻害する恐れがあります。長期にわたる連続稼働の前など、運用上必要な時にのみマニュアル排油を実行してください。よろしければ詳細マニュアル4-2項『排油』の項目を読み上げましょうか?」

 なるほど、こういうメッセージが返ってくるのか。確かに説明書にも似たようなことが書かれていた。もちろん、ここで引き下がるつもりは無い。

「いいや、そのままマニュアル排油を実行してくれ」

 するとリリィはいつも通りの「了解しました」の後、きょろきょろと周囲を見回し始めた。通信試行中を示す耳たぶのランプも橙色に点滅している。

 そして彼女は結局、視覚と電波の両方を用いて「付近に排油用タンクは無い」という結論を導き出したらしい。

「システムエラー。排油用タンクの検出に失敗しました。申し訳ありませんが、排油を中止してもよろしいでしょうか?」

「いいや、ダメだ。そこのバケツを使っていいから排油してくれ」

 そして俺はもう一度バケツを指さした。リリィは俺の示したバケツに視線を向け、それがやはり排油用タンクではないことを再確認した後にこう言った。

「警告。専用のタンクを使用せずに排油を実行した場合、周辺の器物の汚損など、予想外の事態が発生する恐れがあります。この動作を継続させる場合、必ず周辺を確認し安全を確保してください。なお、この動作を継続したことによって生じた損害については、人工知能法第12条により、オメガテクノロジー社は一切の責任を負いません。本当に排油を継続しますか?」

 随分と念入りな警告だ。しかし逆にその仰々しさが、リリィに大変なことをさせているのだという背徳感を刺激した。

 このまま高鳴る胸の勢いに任せて、大声で罵るようにリリィに命令を下したい気分だった。それでも何とか表面上は平静を装い、穏やかに彼女に返事をする。

「分かってるよ、構わない。続けてくれ」

「了解しました。マニュアル排油を継続します」

 そう返事をしてリリィはバケツの前に立った。そして周囲の様子を見回したかと思うと、聞いたことの無いメッセージを発した。

「I.S.S.作動。経験データに基づいて動作を一時停止しました。公序良俗の観点から見て、現在の周辺環境における被服デバイスの脱着は問題があると思われます。被服デバイスを装着したままでは排油を実行することはできません。排油を中止してもよろしいでしょうか?」

 どうやらこれがI.S.S.らしい。よく分からないが、きっとリリィは今までの経験から、屋外では被服を脱がないのが普通だということを学習していたのだろう。

 俺はやっと、リリィの人間らしさを少しだけ感じ取ることができた。プログラムされた行動指針や、俺が与えた命令に従うだけではなく、リリィは独自の判断によって行動したのだ。まあそこまで言うと大げさな気もするが、経験データの蓄積に基づいているのだから独自の判断といっても間違いではないだろう。

 しかし、せっかくリリィがしてくれた提案を俺は否定しなければいけない。このまま続けていけば、リリィはもっと多くの反応を見せてくれると俺は確信していた。

「いいや、継続してくれ。今はここで服を脱いでもいい」

 するとリリィは悲しそうな表情をして頭を下げた。

「申し訳ありません、リリィの判断は間違っていましたか? もしお時間があれば今後のために、判断の基準にするべき情報を教えて頂いてもよろしいでしょうか」

 このメッセージは学習機能の補正のためのものだろうか? これも初めて聞いたメッセージなので、ちゃんと対応してみたかったが、丁度いい説明が思いつかなかったので適当に返事をした。

「そうだな、間違っていた。だけど今は詳しく説明している時間が無いから後でにしてくれ」

「了解しました、問題の処理を保留とします。では、引き続き排油を継続します」

 リリィは泰然と直立したままスカートをたくし上げ、下着に左右にあるホックを外した。普通のショーツではなくチャオ専用の下着なので、排油をスムーズに行なうために着脱が簡単になっているのだ。外した下着をエプロンのポケットにしまい、リリィはついに排油の体勢になる――かと思いきや、彼女はまたもや動作を停止した。

「I.S.S.作動。経験データに基づいて動作を一時停止しました。このまま排油を継続した場合、排油中のリリィの姿がマスターの目前に晒されることにより、マスターに不快感を与える恐れがあると思われます。排油を中止してもよろしいでしょうか?」

 まさかリリィがそんなことまで学習しているとは、意外だった。確かに俺は今まで、リリィが排油している姿を直視するのはなんとなく申し訳ないような気がして、排油のたびに目を逸らしていた。しかし不快感を感じているだとかそんなことは全く無い。リリィは俺のことを、ロボットの股間すら直視できないほどのウブな男だと思っているのだろうか?

「いいよ、そんなこと気にしなくていい」

 するとリリィは先ほどと同様に「申し訳ありません」と答えて頭を下げた。そして今度こそ、バケツを跨いでスカートを持ち上げ、腰を下ろしてしゃがみ込んだ。本来であればタンクの外縁部が丁度股間を隠すのだが、今は遮るものなく股間が露わになっている。

 リリィの股間には、排油用の小さな穴があるのみだ。その穴は機体内を通る金属製の管の一端であり、反対側はオイル循環システムに繋がっているらしい。その味気ないリリィの股間を見るたびに、俺は彼女が性的な含意の無い純粋なメイド型ロボットであることを感じ、安心すると同時に少しだけ残念にも思う。

 それはさておき、いよいよこれからリリィの排油が始まろうとしている。いつもの排油とは違う、消極的なリリィを何度も説得して実行させた不適切な排油だ。彼女の意思に反する行為をさせている、という快感が俺の心を高ぶらせる。

 しかもリリィが今いる場所は、夜の公園のド真ん中だ。いくら人通りがないとはいえ、公共の空間であることに変わりは無い。そんな場所でリリィは、スポットライトのような街灯に照らされながら、排油をするプライベートな姿を晒そうとしている。

 俺は心臓が飛び出そうなほど鼓動が速まっているのを感じた。リリィの股間にある穴を凝視しながら、そこから使用済みオイルが出てくる瞬間を今か今かと凝視する。

 そしてついに、リリィの股間から一滴のオイルがバケツに落ちた。その流量は瞬く間に増加して、紅茶のような色をした一筋の水流となってバケツに注ぎ込む。液体がプラスチックを叩くバタバタという音が静寂を侵していく。

 しかしどうやら、やはり本来の排油用タンクとは勝手が違うのか、排油の勢いが増してくるとバケツの縁にオイルが当たって地面に迸ってしまった。それでもリリィは意に介さず排油を継続している。

 俺はリリィを助けてやろうという軽い気持ちで、バケツを軽く持ち上げて彼女の股間に近づけた。しかしリリィにとって、俺のこの行為は想定外の危険として捉えられたらしい。

 リリィはいきなり立ち上がって少し早口に言った。

「学習データに基づき、排油を一時停止しました。このまま排油を継続した場合、マスターの衣類および身体を汚損する可能性があります。安全を確保した上で――」

 突然の事態に、俺は驚きを隠せなかった。俺が驚いたのは彼女が排油を止めたからではない――むしろ、『排油が止まっていない』ことに驚いたのだ。

 リリィは排油を一時停止したと言っているのに、その股間からは使用済みオイルがずっと垂れ流しになっている。それはリリィ自身からしても意外な事態だったようで、言葉を打ち切って自分の股間を凝視している。

 かと思うと今度は別のメッセージを発した。

「システムエラー。状況認識に異常が発生しました。暴走を防ぐため、間もなくシステムを再起動します。安全のために本機から50センチ以上離れてください。繰り返します、安全のために本機から50センチ以上離れてください」

 ただ事ではなさそうなリリィの口調に慌てながら、俺は言われたとおりに距離を取った。こんな機能あっただろうか? そういえば説明書には『センサーの異常等で機体の制御が困難になった場合は自動的に再起動します』と書いてあったような気がする。

 その後、リリィは予告通りに再起動を始めた。眠るように目を閉じた後、首、肩、腰と関節の制御が解かれ、糸の切れた人形のようにダラリと地面に崩れ落ちる。その際に足下のバケツが倒れてしまったため、リリィの下半身はオイルで汚れてしまった。

 リリィが再び動き出すまでの数秒間の間、俺は彼女の姿から目を逸らすことができなかった。失神したかのように地面に横たわり、剥き出しの股間から流れるオイルで自身を汚し続ける――その姿はあまりにも痛ましかった。

 そして、彼女をそんな状況へと追い込んだのが俺自身であるという事実に、俺は心の底から罪悪感を抱き、そして達成感に酔いしれていた。どんな表情をすればいいのかも分からない。俺の顔は自ずと引きつった笑いを浮かべていたと思う。

 やがて、リリィの身体が動き始めた。感覚を確かめるかのように何度か関節を動かした後、いつも通りの自然な動作で立ち上がる。

 オイルの排出は止まっているようだが、こぼれたオイルの汚れは酷いものだ。足には流れ落ちたオイルの茶色い筋が残り、スカートとエプロンにも染みが広がっている。

 リリィは最初こそ衣類の砂を払ったり、オイルの染みを触って確かめたりしていたが、しばらくすると何事も無かったかのように、エプロンのポケットから下着を取り出して身に着けた。

 そしてペコリと頭を下げて淡々と報告を始める。

「排油が完了しました。セルフチェック機能により、本機の被服デバイスに深刻な汚染が検出されました。早急な洗浄をおすすめします」

 リリィの態度はいつもの仕事と同じように、淡々とした対応だった。俺を責めたり恨んだりするような様子は全く無い。――当然だ、ロボットの反乱なんてSF小説の中でしかありえない。そんなことは分かりきっているのだが、リリィがこうして俺を裏切らずにいてくれるということは、やっぱり嬉しかった。

「ありがとう、素晴らしい仕事ぶりだったよ。やっぱりお前は最高のメイドだ」

 俺は少しぎこちなくなりながらも、リリィの頭を撫でてやった。するとリリィは可愛らしい笑顔を浮かべる。残念ながら、彼女の表情筋の動きは限られた数パターンの中から選ばれているだけだ。だけど、なぜだか今の彼女の笑顔はとても健気に感じられた。

 俺はハンカチでリリィの身体を軽く拭ってやってから、公園を出て家路に就いた。油で汚れた空っぽのバケツを左手に持ち、右手にはリリィの手を繋ぐ。

「家に帰ったらシャワーで洗ってやるからな、それまで我慢してくれ」

「了解しました、ありがとうございます」

 そんな何気ない会話をしながら、俺はさっきの出来事を思い出していた。あんな風に再起動が発生するほどのエラーなんて、掲示板でもほとんど報告が無かったはずだ。文章にして投稿してみたらかなりの評価が得られるかもしれない。

 この体験を書き起こしてみようか――しかし俺はその考えをすぐに否定した。なんとなくだが、今日の思い出が多くの人に知れ渡ることで、それが特別なものではなくなってしまうような気がした。

 この特異な体験は、俺とリリィの記憶の中だけにとどめておこう。きっとそれが俺の果たすべき責任だ。

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