二十五.怪物たちの恋歌
帝都ロゴドワードの郊外に広がる森林。その奥に設置され、厳重に警備されたヴァイドフ貴族刑務所。
争乱から一月ほど経った夜、女帝ロズフェリナがお忍びでその刑務所を訪ねた。
少数の護衛、秘書官と共に、一般棟に囲まれた中庭に進み、その中心に設置された特別棟の一角に入る。そこは、医療拘置所から身柄を移送されたマハイル・シンドルダイグの為に作られた特別室だった。
面会室に入った女帝は、スクリーン前の席に腰を下ろす。
刑務官がパネルを操作すると、明るくなったスクリーンに広々とした部屋が映し出された。黒檀のテーブルなどの調度が置かれた部屋は、上流階級が構える居館の居間を思わせる。
その中央、牛革張りのソファに腰を下ろしているのは、腰紐の無い囚人用ガウンに身を包んだマハイル・シンドルダイグ。向こう側にもスクリーンが点灯したものらしく、彼も視線を上げてこちらを見る。
ガウンの胸元から、左肩に貼られた治療用パッドが覗く。元々の痩身、細面が一層やつれて見える。だがその目は今までにも増して暗い輝きを讃えていた。
(そうでなくてはね)
女帝は満足を覚え、視線を僅かに横に向ける。その先にいた刑務官と護衛達が出ていく。そして書記官も、手にしていた小さなケースを卓上に置き、無言で退出した。
ドアが閉じられ自動ロックが掛かった後、彼女は宙に向かって話し始める。
「これを聞いている全ての者に告げる。他部署が盗聴を試みていないか全力を挙げて調査せよ。盗聴を発見した場合、これを行った部門責任者を厳罰に処すると宣告します」
言葉を切り、息をついて肩をすくめる。
「これで誰も聞く者はいないでしょう。皆、ライバルの失脚には関心がありますからね」
『貴様も難儀な事だな』
スクリーンの向こうで、マハイルが初めて口を開いた。
「ここの暮らし心地は
『快適、などと答えると思うか』
マハイルは口を曲げ、ロズフェリナは苦笑を誘われた。
「
『裁き、殺すために治療を施し、かくも豪華な一室を
「手順というのは大事なものなのですよ。それと、貴方にそれを言われるのは、かなり心外ではあるわ」
女帝が
『まあよい。用があるなら
「ええ。その言葉に甘えさせていただくわ」
ロズフェリナは秘書官が残したファイルを開き、老眼鏡を掛けて読み上げる。
あの事変の後、トマーデン公領は分割され、大半は帝室領に併合。残りは周辺公と独立都市、直参騎士領に編入された。
マハイルの嫡子ストミードは母と共にベランキ王国に亡命。他の家臣からも十五人が連座して有罪を宣告された。
そこで視線を上げて様子を伺うが、マハイルは反応を示さない。女帝は片眉を上げる。
「あなたは、領地や家族がどうなったか興味がないのですか?」
『勝者は敗者をどう扱おうと自由だ。口出しする権利も、その気もない。儂が勝者であれ敗者であれ、同じ事だ』
「貴方の家族である事は災難ね」
無表情に返す彼に、女帝は眉をひそめた。
『我が家宰は
だがマハイルから問い返し、女帝は虚を突かれて書類をめくった。そして息をつく。
「リーフェル・マテュクスは、強制捜査が入る同時に手榴弾で自害したとの事です。恐らくは機密の納められたメモリと共に」
『そうか』
彼が僅かに視線をそらし、目を伏せるのをロズフェリナは追悼の
『一つ聞きたい』
マハイルが女帝を睨み上げた。
「何かしら」
『貴様にとり、全ては想定通りだったのであろう。我が公領の背後を割いて騎士領を作れば、いつか儂が我慢ならず手を出すと。貴様はヴィラージを生贄としたのだ。あの才気あふれる若者を』
その問いを彼女は覚悟していた。数秒目を閉じた後で口を開く。それは、マハイルの問いに対しては肯定を意味する答えだった。
「彼はそうなる危険を承知の上でした。
それでも、自分の存在が帝国の守りになる事、貴方を牽制して大乱を防ぐことを願っていたのです」
『防げる筈が無かろう。儂が貴様に対する勝利を、どれほど渇望していたか、貴様は知っていた筈だ』
「ええ。知っていましたよ」
女帝は
「正義と悪の戦い、などと言うつもりは無いわ。どちらも己の理想の為に人を巻き込み、踏みにじってきた。ヴィラージの娘ルーンリリアが言った事は私にも当てはまる。私達は共に、自我の膨れ上がった怪物なのですよ」
画面の向こうで、マハイルは意外そうに唇を曲げた。
『貴様は、我を
「貴方、私をどんな人間だと思っているのかしらね。まあ、貴方の行いには色々申し上げたい事もありました……でも」
ロズフェリナは視線を落とし、乾いた唇を小さく舐めた。
「理想の世界を心に抱き、その実現の為に誰よりも上に立つ事を目指す。たとえ他人を偽り、蹴落としてでも。その意思と、それを実現する力も持っている。そんな人はそう居るものでは無いわ。この国では、恐らく私と、貴方だけ」
彼女は目を上げ、マハイルを見つめる。
「私は女であるが故に、貴方はその体の虚弱の故に、この国では生き
マハイルは口を開いて何かを言いかけ、そして閉じる。女帝は秘めていた問いを解き放つ時と見た。
「ねえマハイル、貴方がデクスラード再興を志すようになったのは、いつからだったのかしら」
『無論、デクスラードの遺民としてこの世に生まれた時からだ』
「そうかしら」
『
マハイルは鋭い目になった。
「あの空位時代、貴方と接した人々から後に話を聞きました。印象は人それぞれでしたが、ノヴォルジを救わんとする熱い志、それを疑った人は居りませんでしたよ」
『何が言いたい』
「我が兄が急死し、私が即位した、その日から貴方は、私とノヴォルジを一つと見なし、よって自らはクデスラードの亡霊と化した。私とノヴォルジを覆し、己が下に組み敷く事を目指し。そう推察しているのですけれど。
どうかしら、一生を掛けた問いの答え合わせにくらい、付き合って頂けないかしらね?」
マハイルは腕を組み、目を閉じて答えない。ロズフェリナは攻め方を少し変える事にした。
「あのルーンリリアが帰国した式典の日、閲兵場で私を手中に収めんとした時、貴方はどう感じたのかしら」
『どう、とは何だ』
「そうね。あけすけな言葉を使わせて貰うなら……興奮したのではなくて?」
マハイルは眉根に皺を寄せ、不快感を表す。
『我がクデスラード再興の戦いが、貴様を我が手中に収めるという下等な情欲の為に行われた、そう言いたいのか。己の
「一つ訂正させていただくわ」
予想通りの反応に、彼女は落ち着いて言葉を返した。
「私はそれを根源的ではあっても下等な感情とは思いません。そしてそれが幾十年も人を突き動かすなら、それを偉大な力と呼ぶ事に何の
ささやかな怒りに目を細めて見せる。
「年齢の事も含め、ヴィラージの未亡人を
マハイルは嫌な顔になった。
『前言を撤回する。貴様はやはり、儂をただいたぶりに来たのであろう』
その拗ねたような言い様に、ロズフェリナは口元が緩むのを抑えられなかった。
「私はただ知りたいだけですよ。無論、ここまで申すからには私自身についてもお話しますけれどね」
「あの時は私も、幾重もの感情に包まれました。恐怖と戦慄、勝利への確信と不安、そして……我が身を貫く生の、いえ、性の高揚をね」
マハイルは片眉を上げたが、黙っていた。
「空位時代から貴方は私と競い合い、争いってきた。そしてあそこまで追いつめられた中でも、貴方は私の自由を、命を、全てを奪いに来た。
私に愛を捧げた殿方も、憎しみを向けた敵も数え切れぬほど居たけれど、貴方ほど私に心を向けた人は他にはいない。そこまでに狙われたなら、女冥利に尽きるとも言えましょう」
マハイルは目を閉じ、長く息を吐いて眉間を揉んだ。
『初めて逢うた日から五十年、今や年の差など有って無きが如しと思うておったが、未だに儂は貴様にとっては若造であった、そういう事か』
苦い笑みを浮かべ、
『認めよう。儂は、貴様を……
「やっと、口にしましたね。マハイル」
彼女は自然と微笑みんだ。
「五十年前に、そう言ってくれれば、何かが変わったのかしらね」
『変わるとでも思うてか。所詮、我らはこの世界に生まれ落ちし時より、相容れぬ者同士ぞ』
首を振るマハイルに、
「私は貴方よりはもう少し、この世界で変えられるものはあると思っているのですけれどね」
『だが、過去だけは決して変えられぬ』
深く静かなその声に、彼女は一呼吸を置いて答えた。
「そうね」
『いささか無駄話が過ぎたようだ。そこに置いてある物をよこすが良かろう』
「ええ」
ロズフェリナは引き出しに黒い小さなケースを収め、閉じた。
機械音の後に画面の向こうでブザーが鳴り、引き出しを開けたマハイルは取り出したケースを机の上に置いて空ける。
手に取ったのは、金の象嵌を施した単発拳銃だった。
「見事な品だ」
マハイルは銃床を撫でた。
彼は裁判にかけられれば、国家反逆罪、殺人罪などで死刑を宣告されるだろう。
銃を渡された事で、彼はその裁きを受ける前に自害するのを『許された』事になる。
そのマハイルが、銃口をこちらに向けた。
もとよりカメラとスクリーン、そしてその間を隔てる壁は、拳銃弾を通す筈も無い。それでも銃口を向ける彼の心を察し、女帝は深い情動に体を震わせた。
『一つ忠告しておこう』
口元を引き締めるマハイル。
『民は近視の暴れ牛ぞ。
「その心配は息子に伝えましょう。私の時間は、もうすぐ尽きるでしょうから」
女帝が答えると、マハイルは微かに表情を緩めた。
『
マハイルは険の消えた笑顔を見せた。
『ではさらばだ。我が
彼は銃口を口に差し入れ、引き金を引いた。
だからね、マハイル、私は民に権力を委ねて行こうとしているのよ。
権力者同士の
とりわけ、血と火薬の匂いがする恋心などと言うものはね。
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