二十一.リグル・スワルダ(幸福の総量)

 記憶にある母は、殆ど一人で、どこか寂しそうだった。

 他に身寄りもなく、家政婦として働いて俺を育てる生活は苦しかった。

 それでも、俺と食事を摂る時の母は幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 父はいない。

 母にそのことを尋ねても、あまり話したくは無いようだった。それでもいつもこれだけは言ってくれた。

『あなたのお父様は、強くて、そして寂しい人だったの』


 外に出ると、周りの子供達からこんな言葉が俺に浴びせられた。


 妾の子!


 妾の子!!


 俺は、その意味がよく分からなかった。恐らく言った方も同じだっただろう。

 それでも、その言葉に込められた蔑みの響きは俺にも、そしてあいつらにも分かっていた。きっと、彼らの親が、あるいは周りの大人が、そう言っていたのだろう。

 彼らは笑い、囃し立てた。

 俺は体は弱い方ではなかったが、いくら反発しても、抵抗しても、多勢には勝てない。こういう時の子供は残酷なものだ。

 なぜ、人を殴り、罵りながら、皆はあれほど楽しそうなのか。

 そして俺は悟った。世界に幸福は決まった量しかなく、幸福を得るには他人から奪うしかないのだと。


 俺が十四歳の時に、母は病を得て死んだ。

 収入の当てもない、母の葬儀すら出せない。俺は後を追って死ぬものと覚悟した。

 だが一人の男が会いに来て、俺の運命を変えた。彼はトマーデン公の使者で、母の葬儀を出し、俺を大きな屋敷に連れて行った。

 そして俺は、公の麾下にある騎士の養子になった。実際には養父とはほぼ合う事も無く、その屋敷、つまり公の別邸で育てられたのだが。

 そして俺は、ようやく自分の生い立ちを知った。母は公の屋敷で働いていたメイドだったが、公の愛を受けて俺を宿し、職を辞して身寄りのない街にやって来たのだった。俺が知らぬ俺の父は、トマーデン公マハイル・シンドルダイグだったのだ。


 騎士の叙勲を受けてから、全てがうまく回りだした。

 公は、父は、人の目を忍びながら、俺を気遣ってくれた。

 公夫人は俺の出自を知っていた筈だが、徹底的に無関心を貫いた。その子であり、公の嫡子であるストミードは、俺にも優しく接してきた。

 新しい機械ゴーレム・デクスマギンを得て、俺は注目される存在となった。

 革命騎士グーフェルギを破った事で、その声望は跳ね上がった。実際には戦ったのはデキスマギンの方で、俺は操者殻に座っていただけなのだが。

 代行とはいえ、領主になった。下級ではあるが、貴族階級の娘との婚姻も内定した。

 故郷に人をやり、俺を罵り、殴った者たちを捕らえた。その処分は、ラマルギオに任せた。彼らが埋められたと聞いた時、俺は笑った。やはり幸福は人から奪うものなのだと確信した。


 だが、父――トマーデン公がトルムホイグの館を訪れ、未亡人を犯した時から、歯車が狂い始めた。

 結婚するはずだったヴィラージの娘は逃げ出し、俺は恥辱を味わされた。

 娘と信を通じていた少年を家族ともども捕らえたが、ラマルギオに責めさせても口を割らない。


 俺はあの少年が嫌いだ。人の闇を知らない、幸福に育ったと分かる素直なあの眼差しが。

 俺は彼とその家族から幸福を奪った。なのにあの少年は、なぜ今でもあれほど真っ直ぐな目でいられるのか。

 きっと奴は父の命を奪った筈なのに。俺が今、奴の体を撃ちぬいたというのに。


 俺は他にもトルムホイグで、多くの幸福を奪った。民の財産を、家族を、貞節を、命を奪った。

 だのになぜ俺は、少しも幸せだと感じられなかったのか。あの少年は不幸に見えないのか。今まさに俺の目を見ながら倒れるその瞬間も。


 肺から溢れる血で息が詰まり、意識が薄れる。世界が暗くなる。俺は地に顔を伏せた。もう全てが終わりだ。


『リグル』


 懐かしい声。だがもう、顔も上げられない。


『あなたが幸せなら、私は幸せなの』


 そうか。

 幸せはいつも、あの場所にあったのだ。

 奪われる事も、磨り減る事も無く。


『あなたは、強い人にならなくてもいい。多くの人に囲まれて、幸せな人になってね』


 俺は、ずっと間違えていたのだ。恨みと憎しみ、自分の苦しさを晴らすために、母の言葉を心の底に閉じ込め、見ぬふりをしていた。


 ねえ。俺が罪の為に暗い闇に沈むとしても、いつかそれを抜けた遠い遥かな先で、あなただけは待っていてくれるよね、僕を。

 ごめんなさい、母さん。

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