二十三.最後の試練(後)

 魔学者グランクセルゲン・ホイデンスは機嫌が悪かった。

 ナイード代理人からの話では、形ばかりの陳情をすれば、少年の不起訴が決まる筈だった。

 それが、体調未だ優れぬルゥリアと共に早朝の寒い庭園で三十分以上も待たされたあげく、ようやく出てきた皇帝は、少年と引き合わせてルゥリアの心を乱した上に、二人を試すような事を言い出したのだ。

 見たところ、ルゥリアは覚悟を決めている。だが少年の方は完全にパニックに陥っている。

 他人の表情を察するのが苦手な自分にすら、彼の心の内がまる分かりだ。いったいこの少年が、どうやって何か月も秘密を守り通したのか不思議になるほどだ。

 何か助言したいが、その気配を見せただけで、皇帝が刺さるような視線で牽制してくる。

 ホイデンスは思った。


 おい少年。お前の考えている正解は、大外れだぞ。


 だが今にも、彼は誤った答えを口に出しそうで。

 ホイデンスはそっぽを向いてつぶやく。皇帝の知る筈のない、ある下世話な言葉を。



 クルネイス・バーニクはホイデンスが案じた通りの恐慌状態にあった。

 皇帝の言葉を聞いてから、答えの言葉は一つしか出てこない。それが頭の中で延々と鳴り響いている。

 だが、それが正解な筈が無い。

 皇帝は、この国の秩序の代表者だ。その方が求める答えが、これである筈が無い。

 正解は、きっとこうだ。


 忠誠心です。


 そうだ。それに違いない。

 この場を覆う圧迫感に責められ、クルノはその言葉を早く口に出したいと思った。

 その時、どこからか低い男性の声がした。


「ゴー・フォー・ブローク」


 それを聞いた時、トレンタの言葉が蘇った。



『ゴー・フォー・ブローク。かつて異世界人が伝えた言葉です。直訳すると、当たって砕けろ、となりますが…『愛の旋風』ってノヴェスタドラマの字幕では、『構うこたない、やっちまえ』と訳していました』

『いつか、先輩にも世界と向かい合う日が来ます。その時に、この言葉を思い出してください』



 そうか。

 世界と向かい合う。

 今が、その時だ。


 閲兵場で走った時、憲兵達を振り切った。数え切れない人々の前で無茶をした。

 それでも、今の言葉は思い出さなかった。

 それは、皇帝陛下のお言葉に押されたから。ルゥリア様を守るためだから。

 自分が、従うべきだと思ったものに従い、守るべきだと思ったものを守る為だったから。


 だけど今は違う。

 身分と秩序を体現するお方に、その秩序に背く言葉を言うのだ。これが、世界と向かい合う、という事だ。

 そう気づくと、また怖くなった。この小柄な老いた女性が、世界そのものなのだ。

 喉がカラカラになり、手が震える。


 土の上に揃えて当てられたクルノの手。その右手の甲に、小さな、柔らかい左手が触れた。いや、本当は少しガサガサしていて、豆が潰れた跡らしい手触りもあった。

 顔を上げると、ルゥリアと目が合った。

 きっと緊張はしている筈だが、色あせた唇を引き締めて、まっすぐにクルノを見つめる。彼女の左手に力が籠り、クルノの手を強く握りしめた。

 朝日を反射して輝く銀髪、爛々として、しかし少しまぶしそうな瞳。それを見て、クルノの震えが止まった。


 そうだ。ルゥリア様は自分が大事なものを守るために、取り返すために、どれほどの苦難を乗り越えてきたか。

 自分も、父や姉まで巻き込んで苦しめた。今更、何が怖いのか。

 もし自分が言おうと思っている言葉と、ルゥリア様のそれが違っていて、自分の独り相撲だとしても、死ぬほど恥ずかしい思いをしても、近くに居られなくなったとしても、いいじゃないか。

 罪に問われても、それがどうしたって言うんだ。

 ゴー・フォー・ブローク。

 構うこたない、やっちまえ。


 二人は皇帝を見上げ、口を開いた。

「「愛しております」」

 その声は綺麗に重なった。


 心臓の鼓動が爆音のように耳の中で響いている。

 それは、永遠に続く時間のように思えた。


 やがて皇帝の謹厳な微笑が緩み、陽だまりのような笑顔になった。

「その言葉を、聞きたかった」

 クルノの、緊張に締め上げられていた全身が解放され、暖かい血が隅々まで巡るのが分かった。ルゥリアの手からも力が抜け、替りにぬくもりが伝わる。

 再び顔を見合わせると、泣き笑いで震える彼女。

 クルノもまた笑いながら嗚咽した。


「其方達のように互いに想い合う者を、罰によって引き離す事が良き裁きではあるまい」

 ロズフェリナが言葉を続け、二人は頭を下げた。

「これは検察庁の決める事であり、私には確かな事は言えぬ。だが恐らく、一両日の内に起訴の取り下げが告知されるであろう。

 それまで、被疑者クルネイス・バーニクの身柄は、トルムホイグ騎士領領主予定者ルーンリリア・バリンタに預ける」

 そこで声を低め、口元に手を当てて内緒話の形を作る。

「言う必要もあるまいが、決してその者を逃がすではないぞ」

「はい…はい!」

 ルゥリアの左腕が、クルノの右腕を強く抱きしめた。

「よろしい」

 女帝は腰を伸ばした。


「其方達への祝福の言葉が、我が民からのみならず世界の民から対応しきれぬほどに届いておる。

 また、事情を知っている多くの要人達からは、被疑者に寛大な計らいを願う嘆願が届いておる」

 女帝は、それら嘆願書の送り主をそらんじた。


 ノヴェスターナの資産家『投資王』ダク・ホジャイ。

 ワンドゥル王国の筆頭騎士マダン・ウー・ゴッソ。

 マレディオンの元宰相ルベンス伯ディグナー。


 それらの名を聞くたびに、ルゥリアの手が微かに震え、良く知った相手であることをクルノに教えた。

 さらにイグレス島王国の騎士団長、ロンバ帝国の官房長、エルフ公国の筆頭公女、グレニア王国の王妃までが嘆願を寄せたと聞き、クルノは困惑した。

「我が旧知の友ルチアからも、嘆願とも脅迫ともつかぬメッセージが届けられておった」

 今度はクルノが震えでルゥリアに知らせる番だった。

「さらには賢龍ウォゼルまでが、意味ありげにブルムンド港の沖を遊弋しているとの事だ。もし彼らの意向を無視したらどうなるか。恐ろしいばかりであるな」

 女帝はそんな言葉を楽しそうに口にし、長く息をついた。

「其方達、どのような旅をすれば、これほどの人々を動かせるのか」

 クルノが困惑した顔になるのを見て、彼に語り掛ける。

「クルネイス。たとえトルムホイグから離れずにいたのであれ、其方が体験してきた日々もまた、遠大な旅であった。私はそう思う」

「は、はい!」

 クルノは頭を深く下げた。涙の滴が土に落ちる。


「其方達も今はまだ、心と体の傷を癒し、新たな暮らしを始める為の時が必要であろう。いつの日にか、ここに来て其方らの旅の話をしてほしい。

 報告書や調書で分かる大筋ではない。本人の口からのみ語られる、物語の息吹というものに接したい」

 その瞳が、柔らかい光を帯びる。

「もし、この命がそれまで続かざる時は、ずっと後、其方らの生が終わりし時にローゼヌイの丘で話を聞かせて貰いたい。まあ、日頃の所業を思えば、私がそこにいあるかは定かではないがな」

「陛下……はい、必ず!」

「御心のままに!」

 ルゥリアとクルノは、土に額を擦り付けんばかりに頭を下げた。


 ロズフェリナは肩の荷が下りたように長い息をついた。

「さて。気持ちの良い朝であった。人に頭を下げぬと噂のホイデンス博士がひざまずく姿も見られたしな」

 ホイデンスは眉根に皴を寄せながら答えた。

「恐れ入ります」

 彼女は去りかけ、ふと思い出したように振り返った。

「そうであった。彼の日に言い得なかったが、今こそ言うべき時であろう」

 女帝ロズフェリナは、威儀を正して宣言した。

「ルーンリリア・バリンタ・デア・トルムホイグ、見事な仇討であった」


 十数分後、クルノはルゥリアとリムジンの後席で、肩を寄せ合い、互いの温もりを感じつつ、うとうとしてた。

「どうかしましたか、ルゥリア様」

 ルゥリアがびくっとして顔を上げたので、クルノは顔を覗き込んだ。

「あのね」

 声が止まる。その小さな体から感情が溢れそうになるのを感じ、クルノは息を呑んで待った。

「私が目を覚ます前、真っ暗闇の中で流されてた。もう消えてしまいたいって思った。でも見えない誰かが私を引き揚げてくれた。その人は、こう言ったの」


『お父上に叱られたくはないですからね。あいつにも』


「その時は、誰の声か分からなかった。でも、薬が抜けてきて、いま分かった。あれは」

 ルゥリアの声が震えた。

「ゲオトリー隊長だった!」


 父さん!


 クルノは拳を握り閉めた。涙を抑える為にギュッと閉じた瞼の裏、いつも厳格だった父が、穏やかに笑んでいた。

 その笑顔に、クルノはつぶやく。


 ありがとう。

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