十四.霧、晴れる

 深い流れの中でずっと翻弄されている。

 どれほど前からかも分からない。

 なぜそうなっているかも分からない。

 自分が何者なのかも、もう分からなくなった。


 苦しい。

 熱い。

 もがき、叫ぶ。

 だが同時に、これでいい、とも思えた。

 これは、罰だ。

 自分が犯した罪に与えられた罰だ。

 それが何の罪だったかも思い出せないけれど、罰を与えられるのに相応しかったのだ。

 だからこうやって苦しめられるのが当然なのだ。

 でも、これはいつまで続くのだろう。

 もう、終わってほしい。

 ずっと、眠らせてほしい。

 永遠の、死の眠りに。


『こんな所で、何をしておられるのです』

 誰かの声がした。

 何かの力が、自分を掴み、引き上げる。

(誰?)

 ぼんやりと考える。

『あなたは戻らなければ』

 明るい所へと自分がすこしずつ向かうのを感じる。

 苦痛が薄れ、遠ざかっていく。

『さ、もうお行きなさい』

 その誰かに押され、流れていく自分。

(あなたは、一体?)

 その問いに、答えはなかった。ただ少しの間を置いて、笑うような温かい雰囲気が伝わってきた。

『お父上に叱られたくはないですからね。あいつにも』

 遠ざかっていき、聞こえなくなる間際、最後に聞こえた声。

『お元気で』



 少しづつ感触が戻り、今まで自分が肉体を見失っていた事を思い出した。

 意識を取り戻したルゥリアは、自分がベッドらしきものに拘束されているのを感じた。右手は何かに固められて指も動かせないし、口にも何かを噛まされていて、話す事も出来ない。

 目を閉じたまま、記憶をたどる。それは途切れ途切れではあったが、自分がとてつもなく暴れたらしいことは分かった。その結果がこの拘束か。情けない結末に、ルゥリアは落胆した。


 目を開き、部屋を見回すと、傍らに細身長身銀髪の中年男性が座ってこちらを見つめていた。

 その特徴からすると、ホイデンス所長に間違いない。

 だがおかしい。顔色は普段の所長よりさらに悪いし、目の下には隈が出来ている。しかも思索もせずに、ずっと自分を見ていたようだ。

 これではまるで、自分を心配してずっと付き添っていたかのようではないか。

 目が合った彼が口を開いた。

「俺の言っている事が分かるか? 分かったら二回瞬きしろ」

 口はきけないので、仕方なく瞬きで答えると、ホイデンスはうなずいた。

「お前は五日間、意識を失っていた。何度も暴れた上、舌も噛みそうになったので、拘束している」

 そうか。罰として拘束された訳ではなかったのか。ルゥリアは少し安堵した。

「これから医師団を呼び、お前の状況を確認する。良好であれば拘束は解かれる。分かったな?」

 ルゥリアは瞼で肯定した。

「それからだ」

 コールボタンに手を伸ばしかけたホイデンスが姿勢を戻した。

「今お前が目を覚ました時にたまたま私が付き添っていたが、これまでの間にトルオ、ホベルド、アルビー、フェネイン、ルギウスが交代で付き添っていた。その事は知らせておく。彼等への感謝の念を忘れぬように」

 ルゥリアが瞬きして初めて、彼はコールボタンを押した。

 正確さを求める学者のお話というのは実に面倒なものだと、ルゥリアは思った。



 それから医師たちが呼ばれ、同様な問診の後、拘束が解かれた。

 そこから診断、口からの給水、体を拭かれる等、一騒ぎがあった。

 部屋を追い出されていたホイデンスが再び入れたのは、三十分は経った後だった。

 しかも部屋の入り口には中年女性の看護士が立ち、ストップウォッチとホイデンスを怖い顔で見比べながらの面会である。

 いささか気後れを感じながら、ルゥリアは腰を下ろすホイデンスを待った。だがその左手、巻かれた包帯に目が止まる。

「あの、包帯が」「気にするな。問題ない。時間もない」

 言いかけた途端に返されて口をつぐむ。確かに、面会は十分までと言われている。 

「まずは全体状況を説明する」

 ホイデンスは早口で説明を始めた。


 マハイル・シンドルダイグはあの決闘の後救出されたが、医療拘置所で治療と並行して取り調べを受けている事。

 その結果に関わらず、死罪または自害は既定方針と皆が見ている事。

 トマーデン公領は全土が国民軍に制圧され、解体が進んでいる事。

 そして。


「お前の体はもう限界だ。脱薬プログラムに移行する。実際には、あの決闘の日からもう移行している」

「はい」

「プログラムには約一年を見ている。健康な身体を取り戻せる事を約束する。竜骨騎騎士の力を失うかもしれないが、帝国政府もお前がトルムホイグの領主となる事は内諾している。……どうした?」

 冴えない顔のルゥリアにホイデンスが説明を中断する。

 黙り込むルゥリア。口を開き、閉じ、そしてまた開く。

「私にはもう、自分が何をしたいのか、そもそも何かをしたいのか、分かりません」

 話ながら、心はさらに深く沈んでいく。

 トルムホイグに、知っている人はまだ沢山いる筈だ。だが父も母も、クルノも失った今、その人とならトルムホイグで共に生きていきたいと思える人は誰もいない。たとえそれが従士隊の子供たちでも、学校の友人たちであっても。

 今、ルゥリアの心の中に有るトルムホイグの景色は色を失っている。


 口が裂けても言えないけれど、言ってはならない言葉だけれど、とルゥリアは思う。


 いっそ、あの時そのまま死なせてくれればよかったのに。


 これを口に出してみようか。言って、殴られた方がいいのかも知れない。


 そこまで思考が廻った所で、ルゥリアはホイデンスの異常に気付いた。普段なら必ず刺すような言葉を飛ばしてくるはずの彼が、黙っている。その様子は、なにか大変な爆弾を抱え、どこで爆発させようか思案しているように見えた。

「フェネインがな」

「はい?」

 唐突な発言に、思わず声が出た。何か彼にしてやられたようで、癪に障る。

「女帝の性格を分析していた。あの女は」

 そこでルゥリアが目を見開き、見張りの看護士が鬼の形相になった。ホイデンスは咳払いをして言い直す。

「皇帝陛下は簡素で断定的な物言いを好むらしい。正確さの為にあれこれ注釈をつけないようだとの事だった」

 そこで一旦言葉を切る。

 ルゥリアの胸に不安がこみ上げる。彼は一体何を言おうとしているのだろう。


 ホイデンスは深く息を吸い、口を開いた。

「正確性を重んじるのであれば、皇帝陛下はこう言うべきだった。

 トマーデン公は元従士隊長とその家族を違法に逮捕、監禁、拷問した。

 彼らは今朝救出されたが、元隊長が直後に死亡したのは、その拷問が原因だった、とな」


 え?


 思考が止まった。

 たしかにその言い方は学者らしく面倒だったが、その意味する所はすぐに分かった。分かり過ぎて、それが正しいのか、もう一度整理してみる。どう考えても、何度考えても、結論は一つしかない。


 でも、だって、そうだとしたら! そうだとしたら!

 

「それでは、クルノは」

 声が震える。

「ああ」

 ホイデンスがうなずいた。

「息子と娘は、無事とはいかぬが存命だ。命に別状も無い……無かった」


 ああ!


 ルゥリアは叫んだ。


 余りに嬉しいと、声が出なくなると今知った。

 涙がとめどなく流れる。


 自分はひどい人間だ。

 ゲオトリーさんが死んだと聞いても、クルノが生きていた事が十万倍嬉しい。

 ティクレナが生きていた事より、クルノが生きていた事が百万倍嬉しい。

 だって、この世界に、クルノが生きている!


 ホイデンスがもう一度咳払いをする。

「そういう事だ。退院したら会いに行けばよかろう」


 その言葉が、ルゥリアの心に氷の槍を刺した。


 会いに? クルノに?


 高揚した気持ちが一瞬に凍てつく。

 こんな自分が、クルノをカフェに置き去りにした自分が、ゲオトリーさんの死を悼むよりクルノの生存を喜んだような醜い自分が、クルノの前に立つ?


「無理です!」

 ルゥリアは首を振った。冷たい涙が目尻から流れ落ちる。

「自分のせいで、クルノ達の一家を苦しめ、傷付けました。合わせる顔なんてありません!」

「お前は、本当に取り扱い要注意だな」

 ホイデンスは眉根に皴を寄せた。

「会うも会わぬもお前の自由だが、せめて司法機関への弁明ぐらいはしてやれ」

「司法機関?」

 また予期せぬ言葉を投げつけられ、ルゥリアは目を見開いた。

「そうだ。少年は今、マハイル・シンドルダイグと同じ医療拘置所で、治療を受けつつ拘束されている」

「何故ですか?」

 ルゥリアは驚き、激高した。

「彼は被害者ではないですか!」

「容疑は四つある」

 ホイデンスは訓練のメニューを告げるように言葉を続けた。

「決闘への無届け介入、暴徒扇動、上級貴族への殺害未遂、下級貴族子弟――お前の事だぞ――への傷害だ。ついでに言うと、あの日から二日間、彼は意識不明の重体だった」

「え? え? え?」

 ルゥリアはパニックに陥った。

 だが所長の言葉の意味はやはり明らかだ。


 あの決闘、その日の朦朧とした記憶の中から浮かんでくる若者の姿。

 意味が理解できなかった若者の叫びが、頭の中の霧が晴れた今、具体的な言葉としてイメージを結ぶ。

『殺しちゃ駄目です、ルゥリア様!』


 あれは、クルノだった!

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