二.英雄の資格
ノヴォルジの冬の日は短い。すでに空は濃紺から漆黒に変わりつつあり、ただ満月がそれに逆らうように光を放っていた。
トマーデン公マハイルの私室には、広いテラスが張り出している。夏であれば、テラスで盃をかわすのも良かったろうにと彼は思った。しかしその虚弱な体質に老いた体では、今の寒さでも十分堪えるであろう。彼は窓の際に置かれたテーブルを酒席の場に選んだ。月の光が窓からテーブルを光らせる。
リーフェルは使用人を下がらせ、自ら貯蔵庫からワインを選んで持ち出した。
マハイルは、ノヴォルジでは作られないワインを好み、ノヴォルジ人が好む酒精の強い蒸留酒は飲まない。
自分の目の前で他人が泥酔するのも忌み嫌い、それによって放逐された家臣もいる。
彼のワインの好みも、季節や時間によって異なるが、それを把握しているのはリーフェルだけだった。
「お待たせいたしました」
リーフェルがテーブルにワインとグラスなどを並べる。
「妻も子らも、孫達までも、必要のない限り儂の部屋には寄り付かぬ。諸侯も、儂との酒席では退出する時に最も寛いだ顔になっておる」
リーフェルがワインの栓を抜き、並べたグラスに中身を注ぐ間、マハイルは自嘲気味に語った。
「ノグドロール公とは、楽しげでいらっしゃいますが」
「あ奴は、謀略を肴に飲むような男だからな」
マハイルは口の端を上げた。
「貴様と二人で飲むのは、初めてであったかな」
リーフェルが席に着くと、マハイルはグラスを掲げた。
「英雄達に」
盃を干す二人。
「今、英雄と仰せられましたが、ルーンリリア殿の事でございましょうか」
「それもある」
マハイルは
「だがそれだけではない。革命騎士グーフェルギと称する賊。ヴィラージの従士一家。己の信ずるものの為に命を賭ける者、全てが英雄と呼ばれるに相応しい」
「マハイル様は、お若い頃より英雄に憧れを持っておられますな」
マハイルは微かな笑みを浮かべた。
「そうよな。この腺病質の体では、望み得ぬ事であった。が、それ故にこそ、であるな」
ノヴォロジ帝国成立以前、東部諸国の最強国である旧デクスラード公国は武辺の国であった。その大貴族でもあったシンドルダイグ家は、公国が同盟諸国に敗れて独立を失った後も、軍務を最大の誇りとしていた。
病弱だったマハイルはその期待に応えられぬ体質であったが、兄たちの病死、戦死により家を継ぐ事となったのだった。
「儂もどこかで、自ら戦の先頭に立ち、華々しく戦い、敵と雌雄を決する事を望んでおるのかも知れぬな」
リーフェルは笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「ならば、マハイル様のお望みを全力で妨げるのが、我らお仕えする者の務めでございましょう」
「そうであるな」
マハイルは口を上げて大笑した。
「マハイル様のお言葉、訂正する失礼をお許しいただけますでしょうか」
リーフェルが主の空のグラスにワインを注ぎながら言う。
「言うてみよ」
「閣下とは、以前にも酒席をご一緒させて頂いた事がございます」
「ほう」
「小空位時代、グレンデンスへ向かう最中、急な嵐に襲われ、小さな宿に身を寄せた事がございました」
「そうだ。そうであったな」
マハイルは視線を天井にやり、記憶を呼び覚ました。
「あの時は、国中を駆け巡り、諸侯を説得して回ったものよな」
「は」
「若輩ながら、懸命に利を説き、情に訴えたものだ。だが……」
苦い顔になる。
「儂の後にあの女が来ると、堅い支持を約束した者も、あっさりひっくり返された」
ノヴォルジを建国したギエルフ公国のゴドリック家が途絶えた小空位時代。その血縁を多く受け入れていた二つの大貴族が、皇位を争う事となった。トマーデン公シンドルダイグ家のベレンドスと、スヴァルフ公ゼノバ家のメンデック。
それぞれの子がマハイルと、『あの女』ロズフェリナである。
トマーデン公領はかつてのデクスラード王国の大半を引き継ぎ、スヴァルフ公国は同盟諸国の中では独立傾向が強く、共にノヴォルジ皇室から見ると外様であったが、それ故に末期の政争から距離を保つ事が出来ていたのだった。
「あ奴は、女だてらに騎士の姿で馬を駆り、いや二輪車や自動車、果ては飛行機まで乗り回して神出鬼没の活躍を見せおった。
怒りで正論を語り、真顔で協調を説き、笑顔で篭絡する。敵ながら見事であった。結果、儂の力は遠く及ばず、父は苦杯を嘗めた」
リーフェルはしばしワイングラスを回していたが、思い切ったように顔を上げた。
「若き日のマハイル様は、あの方に憧憬を抱かれておられたのでしょうか」
「儂がか?」
考え込み、口を緩める。
「ふむ、そうかも知れぬな」
グラスを口につける。
「ではあるが、あ奴が帝位に即いて50年近く。今や老い、政略にもかつての冴えはない。
儂は儂なりのやり方で、地を這い、にじり寄る様に勢力を拡大してきた。しかし儂もまた老いた。もはや無理をせず、我が大望は倅に託すか、と思いもしたがな」
首を振る。
「確かに銀狐の嫡子も大した人物ではない。だが共に凡庸な二代目同士なら、帝位にある者の方が有利であるな。忌々しいが、あの倅にそれを覆す程の才も覇気も無い」
「ですが、ストミード様の穏やかなご性格は、良き補佐があれば、人の上に立つに相応しいかと存じます」
「そういうものかな」
マハイルはいぶかしげに、しかし穏やかに答えた。
小さな振動音がして、リーフェルは頭を下げる。
「失礼いたします。帝都から最優先の知らせのようでございます」
「うむ」
許しを得て、端末を確認するリーフェルは眉をひそめた。
「民権派政府が準備中の補正予算案の中に、貴族の財産税免除範囲の大幅縮小条項が含まれる模様でございます」
「そうか」
マハイルは口の端を上げた。
「銀狐め。勝負を掛けてきたか」
「そのようでございますな」
「ならば、それを逆手に取ってやろう。
これで諸侯は民権派政府に反対で団結する。その諸侯が、巨人騎を持って集結する。帝都近郊の国民軍は手薄。治安騎士団も、詰めかける民衆相手に手一杯であろう」
マハイルは視線を宙に向け、口元を厳しく引き締めた。
「式典後、元老院を緊急招集する。補正予算案を否決後、内閣譴責決議を議決。あの女と会談して首相の交代を要求するが、あ奴はそれを拒むであろう。
そこで同心する諸侯の騎士軍が皇宮と議会を制圧。女帝を人質として元老院による新政権を発足させる。抵抗する者は兵であれ民であれ、巨人騎で蹴散らすのみ」
リーフェルは主の言葉を頭に刻み付ける。
「秘匿回線で諸侯と直々に話す。手筈を整えよ」
「は」
立ち上がり腰を曲げたリーフェルに、マハイルは声を掛けた。
「やはり、儂の代で障壁を飛び越えねばならぬ。儂自身はノヴォルジなどというまやかしの国の皇位に即くことを我慢してやる。だがストミードが即位する時は、デクスラード帝国の皇帝だ」
「御意」
頭を下げて退出しかけたリーフェルが、ふとマハイルに向き直る。
「もう一つだけ、お言葉を訂正してもよろしいでしょうか」
「うむ」
「……あの夜の酒も、今宵の酒も、大変美味しゅうございました」
「そうか」
マハイルはしばし物思う顔になった。
だが。
「リーフェル」
去り際の家宰を呼び止めた。
「真の英雄の資格、というものを知っておるか」
「さて。どのようなものでございましょう」
「分からぬか。もはや儂にも、あの銀狐にも満たす事が出来ぬ資格よ」
「それは……」
察したリーフェルの言葉が途中で消えた。
「それはな。若くして死する、あるいは何処へとも知れず消え去る事だ」
マハイルの目が昏い光を帯びてリーフェルを見据えた。
「従士の子倅どもには、その資格があるな」
「左様でございますな」
無言で会釈して去るリーフェルの背を見やり、マハイルは月を見上げ、声に出さずに独り言ちた。
(だから、儂と飲む酒は不味いと言われるのだな)
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ルゥリアは、遮蔽室で電話をしていた。
「クルノ、あのね、私、私……」
前に言い淀んだことを、今度こそ言葉にしようとする。
いつの間にか、そこは懐かしい館に変わり、目の前にクルノが立っていた。見上げると、キョトンとした顔で次の言葉を待っている。
心臓が胸を突き破りそうなほどに鼓動が高まり、怖気づいてしまう。
(駄目だ! 言わないと。言わないとこの後、クルノはいなくなってしまう!)
勇気を振り絞って口を開く。
「私、あなたの事が……」
開いていた筈の目をまた開いた。
そこは寝台の上。見慣れぬ暗い部屋だった。丸窓の向こうから、月の光が差し込んでいる。
ルゥリアはしばらく考え、そこが船室である事を思い出した。
(夢。夢だった……)
その喪失感が胸に刺さり、彼女は体を丸めて涙をこらえた。
彼女を苛む感情はもう一つ。クルノがどんな顔だったか、はっきり思い出せなくなっていたのだった。
(どうか、どうか、間に合いますように!)
ルゥリアは月に祈った。
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