六.善神・邪神
「あ、ホッブ!」
帰ってきたホベルドを、トルオが通路で呼び止めた。彼は、ホベルドの正体が分かった後も接し方を変えていない一人だ。
「ちょっといいかな?」
そのまま、研究所員の控室に招き入れる。
「ルゥリアちゃんは?」
尋ねるホベルドに、肩をすくめた。
「反省文を出し終えて、休憩室で勉強中だよ」
「また反省文?」
少し意地の悪い笑みを浮かべるトルオ。
「セキュリティ上の問題行動でね」
「ああ、やっぱり、俺のあれか」
ホベルドからのメッセージを開けてしまった為だと察し、ホベルドは頭を掻いた。
「俺もルゥリアちゃんに反省文を提出しないとなあ」
「ま、それは後にして、ちょっと意見を聞かせてよ」
トルオは彼を隣に座らせ、今まで操作していたタブレットを見せる。
「……ゼーヴェ殿の経歴を?」
「うん。所長は話してくれないんだよ」
それで自分で調べているのだが、ネット上では情報が少ないのだと、トルオは語った。指導騎士として幾つかの国で短期間教えた記録はあるが、戦歴が殆ど無い。
「それでいてあの自信と貫禄、どこから来るのかと思ってさ。何も実績ない人に所長が頼むはずがない。ホッブとの関係を差し置いてまでね」
「そこは所長を信頼しているんだな」
「もちろん」
トルオは力強くうなずいた。
「それに、ホッブの指導も信頼してるぜ」
「ありがとな」
「いやいや。それでさ」
「ああ」
ホベルドはタブレットの画面に意識を向ける。
「ふーん……なるほどね。彼の名は、きっと偽名だ。本名で教えるのが差し障りあるような場合に使っているんだろう」
「差し障り……ヴェストリアとの関係があまり良くない国、とかか」
「それが一番ありそうだな」
ホベルドは指を顎に当てた。
「得られる情報からだけでは、正体は出てこないだろう。でも、その逆……存在しない情報が教えてくれるかもしれない」
「存在しない情報……そうか!」
トルオは右の拳で左の掌を叩いた。
「短期間でも騎士団で教えている間は、正規の騎士団長などを務める訳にはいかない。つまり、その期間の動向が抜けている著名な騎士が正体という訳か。……モーラ、聞いてたな?」
『はい』
研究所の人工知能がネットを通して回答する。
『当てはまる最上位の候補は……引退騎士デワン・グリーロヴです』
「「剣聖グリーロヴ」」
二人の声が揃った。
『そうです』
モーラが静かな声で答えた。
剣聖とは、ノヴォルジ帝国、ウェストリア連合王国、ノヴェスターナ帝国の三大国にて行われる騎士トーナメントを全て制覇した者に送られる称号である。
ヴェストリアの騎士であったグリーロヴは、若き日にこの偉業を成し遂げた。更に東方デイイン帝国の武術大会、ディヴァ皇国の総裁御前試合も制し、当代一の騎士と謳われた人物である。
「なるほど、剣聖様なら、あの貫禄も納得だなあ」
トルオは感極まった様子で天井を見上げた。騎士マニアだけに、身近に剣聖がいたという事実に圧倒されているようだ。
「もちろん所長もご存知の筈だ。なるほど、それなら所長がルゥリアちゃんの指導を任せたのも……ああ、ホッブ、ごめんね」
「いや、いいんだ。そこは気にしてないよ。ただ……」
「なんだ、浮かない顔じゃないか」
考え込むホベルド。
「剣聖なら、子供の頃に声を掛けられたこともある。当時は高齢に差し掛かりながらも筋骨隆々、堂々たる体躯だった。引退されたのはつい最近だが、その映像も見た事がある。その時にも痩せられたなと思ったが……今の姿は別人のようだ」
「ああ……そうだな。確かに俺の記憶とも、ネットの画像ともまるで違う」
「ご病気なのかもしれないな」
「うん」
「それと、もう一つある」
「なに?」
「剣聖グリーロヴ、確かノヴォロジに行っていた筈だ」
「あ、……ああ!」
トルオが気づき、端末で調べはじめた。
「うん、二年前だ」
「そしてそれは、トマーデン公の招聘だった」
ホベルドが小声で補足すると、トルオは青ざめた。
「そうだった。たしか、公の負担で近衛騎士団にも指導したって見た事がある。その時は、公と女帝、案外仲が良いのかと思った覚えがあった! ここにも公の依頼で来たとか? だとすると、ルゥリアちゃんの居場所がばれた? どこから? まさか、ルゥリアちゃんをさらいに来たとか?!」
「落ち着くんだ。まだそうだと決まった訳じゃない」
自問自答するうちパニックになりかかっているトルオを、ホベルドが宥めた。
「だが、もし漏れたとすれば、ルゥリアちゃんが電話をした従士の息子、あるいはその家族から、という可能性も捨てきれない」
「ああ!」
トルオは頭を抱えた。
「剣聖なんて、俺の憧れの存在だぜ。神様みたいなもんだ。今すぐ飛んでいってサイン貰いたいくらいだってのに!」
「聞き捨てならん話だな」
ルギウスが歩み寄って近くの椅子に腰を下ろした。
「あー、来ちゃったか」
「露骨に嫌そうな顔をするな! まあいい。しかし剣聖ともあろう方が、祖国の主君でもない者の走狗となるなど、有ってはならん事だ」
ホベルドは顔をしかめる。
「俺もそう思うよ。だけど、有ってはならない事が有るなんて、珍しくもない事だ」
「それは貴様の実体験か」
「そりゃあお前さんよりは世界で色々見てきた自覚はあるが、俺だってまだ若造なんだからな。そう何でも体験してる訳がない」
ホベルドは頭の後ろで手を組んでのけぞり、ルギウスはその言葉を受けてニヤリとした。
「貴様のそういう顔を見ると、多少とも溜飲が下がる」
「楽しんでもらえたようで何よりだよ」
ホベルドは投げやりに答えた。
ルギウスは真顔に戻り、
「まあ、我々が達した結論に所長が辿り着いていないという事は無かろう。それでも、我々は我々で、それとはなく警戒しておこう」
「まあ、それしかないな」
「で、ルゥリアちゃんには、話した方が良いのかな?」
トルオは迷っている様子。
「でもルゥリアちゃん、あの人の事は信じてるって言うか、信じようとしているのは確かだと思うんだ」
「そうだな」
ホベルドの答えを、二人は待つ。
「ルゥリアちゃんには、当面黙っておこう。確証がある事じゃない。彼女はずっと従士の息子の事を気にしている。鍛錬へ集中している意識が削がれるのは避けたい」
「同意だ」
「うん、そうしよう」
ルギウスとトルオはうなずいた。
*****************************
それは約一月前。ルゥリアからの電話があった次の日の事。
家族でラマルギオ率いる憲兵隊に連行されたクルノは、領主館の敷地に設けられていた従士詰所の留置場に拘禁された。
従士隊の解散後、ほとんど足を踏み入れることの無かった領主館。久方ぶりに来た館は、かつて漂っていた暖かな空気の代わりに、冷たく淀んだ瘴気に囲まれているようだった。
それも当然だと、クルノは思った。今やバリントス家の誰も住んではいない館。今の主は、陰鬱な気配を身にまとったリグル・スワルダなのだから。
かつて、祭りの日に酒を飲みすぎて暴れた者が一晩だけ留め置かれた牢。父たちの手伝いをして人をここに入れたこともあるが、明かりが灯され、父やタルーディ副隊長、時には領主ヴィラージ自らがその前に椅子を置き、酔客をなだめ、酒だと偽って水を勧めたりして、眠りに就くまで付き合っていた。
その時は明るくて清潔で、それほど嫌な所だとは思わなかったが、今こうして閉じ込められてみると、薄暗く冷たく、そして陰惨だった。深い水の底のように。
父や姉とそれぞれ別の牢に収容されている。誰も憲兵隊が家に来てから以後、一言も口をきいていない。その前の日に三人で話し合い、そう決めたのだ。
情報を与えないため、互いに話をしないし、それぞれが互いの目の前でどれほど痛めつけられても口を割らない。そもそもルゥリアの行方を二人には話していないのだから、それはクルノの為の誓いなのだが。
収監から間もなく、真っ先に取調室に引き出されたのは、やはりクルノだった。
手錠を掛けられたうえ、椅子に縛り付けられる。
「さてと」
憲兵分隊長ラマルギオが向かいにどかりと腰を下ろす。
「聞きたい事は一つしかない。ルーンリリア嬢の居場所だ」
クルノは黙っている。言い逃れしようと何か一言でも漏らせば、それが情報を与える事になると、これも決めていたのだ。それが杞憂でない事は、連行される時の会話で思い知っている。彼はプロだ。それでも、守り通さなければならない。
「だんまりか」
ラマルギオは口の端を曲げた。身を乗り出し、テーブルの両端を掴んで顔を近づける。
「私は慈悲深い人間であるつもりだ。だから、そこまで暴力的にふるまうつもりはない。精々……」
裏拳が飛んできた。衝撃と共に思わずつぶった目の中に火花が飛んだ。体重を乗せた一撃は、顔を背けるくらいではそらせなかった。首が折れるのではないかという勢いで、クルノの体を椅子ごと床に倒し、頭を床に叩きつけた。
「うっ!」
クルノの意識が一瞬途切れる。
「……このくらいだ。あるいは」
立ち上がり、倒れたクルノに近づく。
「この程度だ!」
軍靴の先がクルノのみぞおちに打ち込まれた。
「っ!」
息が詰まる。
想像はしていた。それでも、現実の痛みと恐怖は、そんなものではなかった。
「一時間は思いの外、長いぞ」
冷酷な声が、頭上から降ってきた。
「一日はもっと長い。一月でも、二月でも、こちらは交替で面倒を見てやる」
それはまるで、天上神による死刑宣告のように聞こえた。
「我慢比べを始めようか。勝つのはこちらと、決まっているがな」
覚悟はしている。ここでは、これからこんな時間が続くのだ。僕がルゥリア様をもう一度裏切るか、死ぬか、そのどちらかの瞬間まで。
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