第四章.演習場島ヴルカヌス
一.龍は笑うか
ノヴォルジ帝国の女帝ロズフェリナは、四か月ぶりに侵入者によって安眠を断ち切られた。
ベッドに身を起こした彼女は、渡された指先程の物体を目に近づけている。
「なるほど」
網膜に直接投影された文字を読み終えると、少し離れて立つ侵入者……全身に密着したスーツを着用した若い女にその小型投影器を投げた。
「潰して」
女の手が握り締められ、ぐしゃりという音。再び手を広げると、投影器は原形をとどめないほどに砕けている。
「それでいいわ」
女帝が了承すると、女性は残骸をスーツのポケットに仕舞い、首をかしげて問う。
「で?」
だがロズフェリナは澄ました顔で、
「もう忘れたわ」
「ちょっと!」
女性が強く、しかし小声でなじると、
「でも、彼女が」
ロズフェリナは静かに続けた。
「直近の課題を成し遂げたら、私も思い出すでしょう」
「なるほどね。それをクリアできなければ意味が無いものね。それにしても、政治家の記憶力って、便利なものね」
女性は溜息をつき、ロズフェリナは微笑んだ。
「ただ、事態が動く時は早いわ。くれぐれも、その時になって準備が出来ていなかった、などという事の無いように。そう依頼人には伝えておいて」
「分かったわ。……何?」
女帝がまじまじと女の顔を見つめていたのだ。
「変わらないわね、ルーチア。初めて会った頃と」
「急になに? 新しいシミでもできたの?」
「……警備員呼ぶわよ」
ロズフェリナの顔が厳しくなり、ルーチアと呼ばれた女は頭を下げた。
「お詫びいたします」
「よろしい」
ルーチアは溜息をつき、図星だったか、と口の中だけで呟いて、
「まあ、スタッフのメンテナンスのおかげでね」
「羨ましいわ」
「私としては貴方のように、綺麗な年の重ね方が羨ましいけどね」
ルーチアは肩をすくめて手を広げる。
「ありがとう。でも貴方にも、あるんでしょう? 年齢相応の体も」
「あるけどね。所詮は変装みたいなものだからね。自分だとは思えないかな」
「お互いに無い物ねだり、そういうのかしらね」
「まあ、そうね。じゃ、そろそろ行くわ」
ルーチアの姿が揺らめき、おぼろげな透明の人影になった。
「気をつけて」
「そう言ってくれるなら、来る度にセキュリティが厳重になってるの、やめてもらえない? 警報出ないようにレベル下げてるとは聞いてるけど、毎回ドキドキする」
女帝は艶然と微笑んだ。
「だって、貴方の能力を把握しておかないと、締め出さなければならない時に困るでしょう?」
「……やっぱり政治家は信用できないわ」
人影が肩をすくめ、寝室の扉を通り、テラスに出る。扉の向こうで手を動かすと、内側のレバーがひとりでに動き、扉をロックした。
影は小さく手を振ると、手摺を飛び越えて身を躍らせた。
ロズフェリナは手を振り返し、ベッドに横になると、レースで飾られた羽布団を肩まで引き上げた。
「私も、そう思うわ」
彼女は呟き、目を閉じた。
突然の汽笛が、ルゥリアの眠りを乱暴に破った。慌てて身を起こそうとしたが、寝袋だったために床につこうとした腕を伸ばせずに転がってしまう。
「痛っ!」
解放された船倉の天蓋から差し込む月明かりで辺りを見回すと、仮眠をとっていたスタッフが飛び起きて「なんだ?」「わからん!」などと会話が飛び交っている。
ルゥリアはどうにか寝袋から抜け出すと、傍らのプリモディウスにしがみつく。
貨物室の非常灯が点灯すると同時に、頭上のスピーカーから船長の声が降ってきた。
『傾注せよ! ドラゴン接近! 総員警戒!』
放送を聞いていたスタッフたちは大騒ぎになった。
だが、
「静まれ!」
ホイデンス所長の声が響いた。
「有事シフト発動! トルキー、指揮を頼む!」
続くケリエステラ所長の通る声が、狂騒を納める。
「了解! 爾後、私が指揮を執る!」
女騎士トルカネイがすかさず宣言する。さすがにこの状況で、呼び方にこだわっている場合ではないのだろう。
「騎士、従士資格者のみ火器を取れ。攻撃されない限り絶対に撃つな! 他の者は手が空き次第、下がっていろ!」
スタッフががコンテナから銃火器を取り出し、彼女とホベルド、ルギウス、アルベリンに渡していく。
ホベルドは船内電話を船長に掛けた。
「船員も発砲させないで! ……ああ、総員後部甲板に上げて、救命ボートを準備させてくれ!」
「私もプリモディウスに……」
自分も軍用拳銃を受け取ったルゥリアは言いかけたが、トルカネイは首を振る。
「もう間に合わんし、刺激しない方がいい。だが側に居てやってくれ」
「はい!」
うなずく。プリモディウスに対しては、フレームに最低限の電流を流し、疑似意識が途切れないようにしている。それだけに、起動実験のような思わぬ反応をしないとも限らない。
ルゥリアは拳銃の安全装置を確認し、腰のベルトに差してプリモディウスの傍らに立ち、シートの隙間からフレームに手を振れた。
一瞬、故郷のガレージで弾倉を装填しようと四苦八苦していた少年の背中が思い浮かび、目を閉じる。
「来たぞ!」
複数の叫びに目を開く。もう彼女の耳にも、重い羽根音が聞こえてきていた。しかも羽ばたきごとに、それが近づくのが分かる。
船倉の開口部から覗く月の夜空を、黒い影が横切った。蛇のように細長い胴、その真中で皮膜の翼が上下している。
「全長目測!」
トルカネイが叫び、
「20!」
「22!」
「……17!」
騎士達が片腕を伸ばし、距離と視角からドラゴンの大きさを概算する。
「19。平均して20ヤグル前後。間違いない、神龍だ」
トルカネイがまとめた。
ルゥリアは息を呑んだ。世界に広く住まう龍たちの中でも、数百年の寿命と智慧を持つ、神々の如き龍たちだ。
「少なくとも、私より知能は上か」
トルカネイが口の端を上げ、狙撃ライフルを手にしたホベルドが軽口で応じる。
「お馬鹿な獣龍と違って、俺たちをデザートにしに来た訳じゃないって事だ。朗報だな」
「実戦経験者の余裕って奴か? 腹立たしいな」
携行対空ミサイルを抱えたルギウスが唸ると、
「経験者の見栄、だな」
ニヤリと笑って返す。
「そら、来たよ」
アルベリンの声と同時に、一際大きな羽ばたきの音。前部上甲板に巨大な影がふわりと降り立った。甲板がきしみ、船が揺れる。ルゥリアの心臓が激しく鼓動を打った。
開口部の向こうから、皮膜翼が空に向けて突き上げる。次いで四本の腕が開口部の縁に掛かり、首とも胴とも見分けのつかない長い体に支えられた巨大な頭が、月を遮って船倉に降りてきた。その巨体の輪郭が、月の光を受けて青銀の鋼の色で輝く。
ルゥリアが息を呑むと、その視界を半ば遮るようにルギウスが立った。一瞬邪魔だなと思ってしまい、その後で自分が庇われたことに気付いて、軽い自己嫌悪に襲われる。
しかしルギウスの大きな背中を以てしても隠しきれないほど、ドラゴンの姿は大きい。彼の肩の向こうに覗くドラゴンの頭。その側面にある横に長い瞼が開くと、その中に幾つもの眼球が並んでいるのが見えた。それが眼柄に支えられて外に出て、こちらを向く。
遠目では分からなかったが、このドラゴンがどれほど自分たちと異なる生命か、ルゥリアは思い知った。
「『十の目を持つ賢龍ウォゼル』だ」
トルカネイが小声で言う。同時に、ドラゴンの熱い呼気が突風のように船倉を吹き抜けた。
ルゥリアの全身に震えが走った。
神龍の中でも、最も深い智慧を持つと言われる伝説の竜。彼がプリモディウスを見に来たのだ。
人が生み出した、自分たちの骨のまがい物。それによって作り出された武具。
同族の骨で生み出したそれすら気に食わないものを、それを擬した新たな人の技とはいかなるものか。それを確かめに来たのだ。
そして。
もしそれを彼が否定するに至ったら。
そのブレスは、この船まで一瞬で焼き尽くしてしまうだろう。
何とかしなければと、ルゥリアは思った。だが、自分に何ができるだろう?
その時、トルカネイが銃を置いて前に出た。
「高貴なる天空の王。地の底の支配者、全知なるウォゼルよ!」
両手を広げ、
「我らに害意なし。鎮まり給え!」
ウォゼルの目の一つが、彼女に向けられるが、引く様子はない。
『これは、何か』
誰かの声が聞こえた。
低くかすれ、男の声か女の声か分からない。少なくとも、知っている人の声ではない。そう思って振り向いたルゥリアは凍り付いた。
声の主は、アルベリンだった。
目を見開き、こわばった表情で立ち尽くしているアルベリン。自動小銃を持った右手は垂れ下がっている。
その口が動く。
『我らに似ている。だが異なる。これは命の力、だが死の力。お前たちは、何を作った。何を為さんとするか』
ルゥリアは震えた。これは、ウォゼルの言葉だ。彼が、アルベリンの体を借りて話しているのだ。
「それはだな……」「黙らせろ」「ムグッ!」
後方からケリエステラ所長の声が聞こえ始めたが、トルカネイが素早く振り向いて指示を出すと、くぐもったうめき声に変わった。
この状況でルゥリアは振り向けなかったが、ケリエステラが得意満面で話し始めたのを所員達が取り押さえて口を塞ぐ光景が容易に浮かんだ。彼女には悪いが、ルゥリアはほっとした。今の指揮官はトルカネイなのだし、両所長がしゃべりだしたら、かなりの確率でドラゴンを怒らせてしまいそうだ。
その時、ルゥリアの手に一号機のフレームからの振動が伝わった。
プリモディウスが、震えている。怒りと、その裏にある恐怖。
彼女の胸に、衝撃が走った。
「偉大なウォゼル!」
おもわず声が出ていた。
「私たちは、邪悪な事をしようと動いている訳ではありません。龍の皆様に敵対したり、平和を乱すものではありません」
プリモディウスを、守らなければ。彼は、私と一つの命を共有しているのだ。
「これは、プリモディウスは、私が私の世界を守るために必要な力、悪を正すために必要な力なのです!」
それに、もし彼を失えば、私は全てを失う。故郷も、守るべき人達も。
「お願いです、ウォゼル。彼は、悪しきものにはなりません。させません。約束します!」
『我らは……人間たちの約束なるものを、信じない。正義や、悪という言葉もだ』
アルビーの口から出たウォゼルの答えに、ルゥリアは戦慄した。
『人間たちの生は、あまりにも短く、その数は、あまりに多い。蟻の一匹が、たとえ女王であろうとも、その群れの行いをどれほど変えられるだろう』
「それは……でも、彼は、私が居ないと動きません。もし彼を受け入れられないと言われるのでしたら、私を、私だけを……」
クルノも助けられない。そう思った時、体の中で何かが爆発した。
「ルゥリアちゃん!」
ホベルドの制止も無視して叫ぶ。
「……殺してください!」
気が付くと、ウォゼルの目が全て引き込まれ、瞼が閉じられていた。
それがゆっくりと開き、再び目が出てきて、ルゥリアを見つめた。
『今、お前はまばゆい光を放った。お前たちには見えなかったのであろうがな、人間よ。その光は、短い生がもたらす、次へと繋ぐ命の輝きか』
その口が開き、熱い息が断続的に吹き付けた。
『だからお前たちは、人間どもは、恐ろしく、おぞましく、そして実に面白い』
そこで初めて、それがウォゼルの笑いだったと気付いた。
『約束は信じぬ。だが』
ウォゼルの翼が青白く輝くと、羽ばたいてその巨体を宙に浮かべた。彼は天を仰いで咆哮すると、体をよじって飛び去る。
船を揺るがす咆哮と羽根音の余韻が残る中、アルベリンがかすれた声で言った。
「しばし見守ろう……ってさ」
「ああ……」
ルゥリアは床にへたり込んだ。アルベリンはよろめき、ホベルドが支える。皆の口から安堵の息が一斉に漏れた。そんな中。
「ぷはあっ! 放せ! もういいだろうが! おい、撮れたか?」
「動画はな。可視光と赤外線画像で。魔力フィルタの方も途中からな」
「よし、ちょっと見せろ」
解放されたらしいケリエステラと、ホイデンスの会話が聞こえた。振り向くと両所長は、複合型のビデオカメラを覗き込んでいた。
「おお、良く撮れてるな」
「できれば発信機も付けたかったがな」
「うむ。もう一度来ないものかな」
ルギウス・コルネールがうめく。
「あの二人のせいで世界が亡びたとしても、さほど意外ではないな」
皆がそれにうなずいた。ルゥリアも含めて。
次に目を覚ますと、船倉にも陽の光が差し込み、スタッフ達もプリモディウスの点検に立ち働いていた。
「お目覚めかな?」
ホベルドが顔を覗き込んできた。
「すみません、すっかり寝過ごしてしまいました……」
目をこすりながら寝袋から抜け出す。
「仕方ないさ。あんなことがあった後だ。そうそう眠れるものじゃない」
笑ったホベルドが、手を差し伸べた。
「朝食の前に、ちょっと散歩でもどうかな?」
甲板に上がると、そこにはドラゴンの付けた足跡、爪痕が残っていて、船員たちが補強をしていた。
彼らに挨拶をして、さらに舳先を目指す。船首の一段高い甲板に上がると、ホベルドは手を目の上にかざした。
「ほら、見えてきたよ」
ルゥリアも目を細めると、水平線の向こうに青みがかった平らな台形に近いシルエットが浮かんでいた。
「あれですね!」
「そう」
ホベルドは爽やかな笑みを浮かべた。
「演習場の島、ヴルカヌス島だ」
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