十九.帰還

 いつしか、点在する炎以外の全てが闇に包まれていた。空も深夜の曇天のような暗黒が覆っている。

「うわあああああ!」

 背後から子供が泣き叫ぶ声がした。ここに来て初めて聞く人の声に、思わず振り返る。

「ひっ!」

 思わず悲鳴が漏れた。

 ぼんやりとした光が照らす中、多くの人が倒れていた。血にまみれ、あるいは手や足がちぎれ、あるいは黒焦げになっている。

 その中に、血を流して倒れている女性と、彼女すがりついて泣く少年がいた。

(生きててくれた!)

 近寄って手を差し伸べようとすると、少年が振り向いた。憎しみに満ちた顔がこちらを見上げて叫ぶ。

『人殺し!』

 彼が身を起こしたので、倒れている女性の全身が見えた。その顔には見覚えがある。サイデルガルス市に避難した時、子供たちの為にお菓子をくれた女性だった。

「そんな……」

 ルゥリアは頭を振った。


 違う。私じゃない。私が殺したわけじゃない。

 いや、そうだ。私が殺したんだ。でも、仕方ないじゃない。あの男が、先にひどい事をしたんだから。その領民だから、死んでも当然なんだ。

 だから、私を責めないで。私は悪くない。何も悪くないのに!


 耳を塞ぎ、目をつぶる。そうしているのが自分か、プリモディウスの体か、それももう分からない。


 嫌だ。もう嫌だ。何もしたくない。何も見たくない。聞きたくない。


 やがて少年の声も消えた。火が爆ぜる音も消えた。何の音も聞こえなくなった。目を開くと、周りは完全な暗闇になっていた。ルゥリアはそれでかえって安心した。


 これでいい。このままずっと一人でいて、やがて闇に飲まれて消えるのだ。



「所長! 手が!」

 ルゥリアの身体映像を見守っていたフェネイン主任が、悲鳴に近い叫びをあげた。

 皆が注目した先、そこではルゥリアの右手、操者殻の内側に突き出した人造竜骨アームを握る右手から、薄い煙が上がっていた。それでも、ルゥリアの顔は茫然とした表情のまま、ピクリとも動かない。

「グラン!」

 ケリエステラ所長があだ名で怒鳴り、

「くそっ!」

 ホイデンスは顔面を蒼白にしながら、選択した音声ファイルを叩くようにクリックした。



『ルゥ……』

 苦し気な声が耳を打った。

(え?)

 よく知っていた声。でももう聞けない声。ずっと聞きたかった声。

『……リア』

 父の声。

 懐かしいその声は、だが彼女の心を恐怖で凍り付かせた。

「お、父様……」

 私への恨みを言いに来たのだ。あの日、あの言葉、

”俺が生きて帰れなかったら、母さんを頼むぞ”

 その言葉から逃げた私への恨み。

 お母様を残して脱出して、死なせてしまった私への恨み。すくむ体を震えさせ、次の言葉を待つ。自分を責める、父の怨念に満ちた言葉を。

 だが。


『軍医先生の……』

 続いた声は、苦し気ながらも不思議な優しさに満ちていた。

『処置のおかげで……お前に話す時間が貰えた。有り難い』


 そこまで聞いて、ルゥリアにも分かった。これは、父があの日、死の間際に残したメッセージなのだ。

 父の言葉は続く。



 ルゥリア。

 お前は気にしいだからな。最初に言っておこう。

 お前が私の言葉を聞くのを拒んだ事と、この結果は何の関係もない。勝敗は実力と時の運だからな。気に病むんじゃないぞ。これは父からの、そう、お願いだ。



「お……父様!」

 ルゥリアは、顔を覆った。

 お父様は、気にかけてくれていた。許してくれていた。私が悔やむだろうことを、察してくれていた。

 胸を締め付ける感情が、手の指の隙間から零れ落ちる。

 父の声は、苦しそうで、時に意識を失いそうな状態だと分かる。それなのに、なぜこんなに楽しげなのだろう。



 なあ、ルゥリア。お父さんはいくさ馬鹿でな。

 あのグーフェルギと言う奴も、話してみれば存外気持ちのいい奴だった。この戦い、闘志には溢れていたが、憎しみは無かった。楽しかったのだ。

 お前を残していくのだけは心残りだが、お前といた十二年、最後の一瞬まで、本当に幸せだった。それだけは伝えておきたい。

 ありがとう……ルゥリア。



『お父様あああああ!』

 スピーカーからルゥリアの絶叫が管制室に響く。

 モニタに映るその肉体はやはり動かないままだったが、半開きのその双眸から、滴が零れ落ちるのが皆に見えた。

 一つ。そしてまた一つ。

「泣いてる……」

 トルオが呟いた。

「これは何だ」

 ケリエステラ所長が眉根に皴を寄せてホイデンスを見る。

「あいつの携帯端末に入っていたデータだ。普通では見えないように処理されていたが、あいつがトルムホイグに連絡を取ると言い出した時に、徹底的に調べて発見した」

 答えながら、ホイデンスは画面を操作した。

「次だ」



『ルゥリア』


 次に聞こえてきたのは、母の声だった。



 あなたがこれを聞いている時、私はもうこの世にはいないでしょう。初めからそのつもりでした。嘘をついたことは、謝らなければなりません。

 でも、これを聞いているという事は、脱出に成功したという事でしょうから、私は嬉しいです。そうそう。クルノにも疑いが掛からないようにするから、その事も心配しないで。


 あなたを脱出させたのは、仇を討たせる為でも、トルムホイグ騎士領を再興させる為でもありません。あなたが歪んだ結婚に囚われず、自分の人生を選べるようにする為です。今や、あなたには何の義務もないのです。


 私が望むのは、あなたが天に恥じない生を送り、時々ほっと息をついて幸せを噛みしめることができる事、それだけです。

 私はこれから、あの人に会いに行きます。当分は水入らずで仲良くしたいので、後からゆっくり来てね。

 愛してるわ。



「お母様……」

 ルゥリアは声を絞り出す。

 母は最後の最後で、ルゥリアを全てから解放してくれていたのだ。

 だが、義務よりも重い母の願い。それは優しく、しかし実行するのがとても難しい願い。

「私……ここで消えては駄目なんですね……?」



「フレーム温度、低下し始めました」

「主機回転数、レッドゾーンから抜けます!」

「心拍数、低下傾向にあり!」

「アドレナリン、基準値に戻ります!」

 モニタの中、ルゥリアの手から上がっていた薄煙も消えた。

「よし!」

 ホイデンスはうなずくと、外したマイクをホベルドに差し出した。

「今なら届く筈だ」

「了解!」

 ホベルドは力強くマイクを掴み取った。



 その声は、雷鳴のように沈黙を破って届いた。

『聞こえるか、ルーンリリア・バリンタ! 誇り高きヴィラージ・バリントス・デア・トルムホイグの娘!』

「殿下!」

 ルゥリアは顔を上げた。

 父と母の言葉は、過去からの声だった。だがホベルドの声は、今まさに話している、生きた者だけが持つ息遣いがあった。それは、自分が外の世界とつながっている事の、確かな証だった。

『そうだ! ホベルド・ローリステン・デル・グレニアだ! 聞こえているよ、君の声も!』



 ホベルドの言葉は、管制室所内に新たなざわめきを巻き起こした。

「え?」

「グレニアの……?」

「王子?」

 両所長を含む数人だけが、それに動じていない。

 ケリエステラが振り向いて一睨みで、そのざわめきを鎮める。



 ホベルドの声は続く。

『君は、怒りと怨念を力に転換し、一号機……プリモディウスの起動に成功した。

 今やプリモディウスにも自身の意思がある筈だ。その意思は、己が負の感情だけで存在する事を是とするだろうか。そのジレンマが、君達を闇の中に閉じ込めていると俺は思う』

 その言葉に、ルゥリアははっとした。

 確かに、プリモディウスと一体化してから、それを自分の体としてしか見ていなかった。父がそうしていたように、愛機と一体化しながら、同時にその意思を認めて対話する、そんな接し方はしていなかった。

「でも私、どうすればいいんでしょう」

『話をすればいい。プリモディウスと。そして心というものが持つ様々な姿を教えてあげるんだ。君は、生まれたての神様の母であり先生なんだから。それに、君ほどの適任も、なかなかいないと思うよ』

「はい。ありがとうございます……」

 ルゥリアは頭を垂れた。

『俺としても、剣術指南を引き受けた以上、君がこんな所で消える事を許すわけにはいかない』

「はい」

 彼の声音が、突然軽くなった。

『それに、ルゥリアちゃんの初めてのキスをせしめる野望、まだ捨ててないからね』

「殿下……」

 ルゥリアは泣きながら笑う。


『あー』

 次いでアルビーの声に変わる。

『ナンパ王子の妄言はさておくとしようか』

 遠くで、(ひどい言われようだな)というホベルドの声が混じり、ルゥリアはまた笑った。

「アルビーさん……」

『ああ。うん』

 戸惑いながら話す声。

『こんな事を言うのはガラじゃないけどさ。何やってるんだよ、あんた』

 込められた強い感情に、ルゥリアはうつむいた。

『あんたみたいな面倒くさい子がさ、怒りだの憎しみだの、そんなシンプルな気持ちだけで出来てる訳がないだろ。

 あんたのそのちっちゃい頭の中には、ややこしい小理屈とか、腹の立つ毒舌とか、甘ったるい優しさとか、色んなものがグルグルしてるんだ。

 あんたは引っ込み思案で内向的で劣等感も強くて、そのくせ自己評価が高くて人を見透かしてる。そんなややこしい子だ。

 分かるんだよ、わたしには。前に言っただろ? あんたとわたしは似てるからさ』

 少しの間があって、

『とっとと戻ってきなよ。一人の部屋は、ちょっと広すぎるんだよ』

「はい……」

 ルゥリアは静かに涙を流した。胸の中に、暖かい気持ちが生まれているのを感じながら。


『ルゥリアちゃん……だったんだね』

 話し手はトルオに代った。

「はい」

『休憩室のベンダー、来週の更新でホットチョコレート入るんだよ。ずっとルゥリアちゃんがリクエスト出してたよね? 冷房強くしたエリアも作ったから。涼しい部屋で飲むホットチョコ、きっとおいしいよ。だから、帰っておいでよ』

「はい……はい!」

 ルゥリアは両目の瞼をぎゅっと押さえて叫んだ。


 こんな世界にも、自分を助けてくれる人がいる。叱ってくれる人がいる。見守ってくれる人がいる。

 この島にはノランもいる。海の向こうにはノランの家族がいて、ノランを助けてくれた投資家の人も、会ったことの無いその孫娘さんもいる。

 世界は繋がっていて、ひどい事も山ほどあるけれど、いい事も沢山あって、そしてもっともっと多くの、数えきれない人たちの暮らしがある。

 どんな恨みがあっても、この世界を壊すことなんてできない。目覚めたばかりのこのプリモディウスを憎悪の神にしてしまってはいけない。


「帰ります。帰りたいです。でも、どうすればいいんでしょう。どれだけ歩いても、闇の中から出られないんです……」

『大丈夫』

 トルオの声は落ち着いていた。

『今、所長に替わるよ』



 アルベリンが話し出し、ホベルドが、

「ひどい言われようだな」

 と苦笑した時、ホイデンスは手元のメモ用紙に箇条書きを始めた。ホベルドがそれを覗き込み、眉をひそめる。

「何です?」

「お前がこの後話すべき事だ」

 顔も向けずに書き続けるホイデンス。ホベルドは厳しい表情でその手をペンごと掴んで止めた。

「何をする」

「駄目だ。所長が話さないと」

「俺の声は、あいつには届かん」

「今なら届く」

 押し問答が続く二人に、ケリエステラ所長が大股で歩み寄り、ホイデンスの胸倉を掴んだ。

「おい!」

 怒りに満ちた目で、ホイデンスを睨みつける。

「ここではお前が親代わりだろうが! お前以外の誰があいつを助け出せるんだ! 一度や二度無視されたくらいで拗ねるな馬鹿親父!」

 二人の顔が、息が届くほどに近づく。ホイデンスは半開きの口を閉じ、眉間に皴を寄せて考え始めた。

「拗ねる……そうか、これが拗ねるという感情か」

 その体が硬直状態から抜けると、ケリエステラの手を外した。

「原因が分かれば、対処は容易だ。手間を掛けたな」

 二人に視線を向ける。

「やれやれ。脅かさないでくださいよ」

 ホベルドが肩をすくめ、ケリエステラはホイデンスの肩をばしんと叩いて、席に戻っていった。

 ちょうど、アルベリンからマイクを引き継いだトルオが話を終える所だった。

「今、所長に替わるよ」

 差し出されたマイクを、ホイデンスは掴む。片目で操作盤の上を探し、書類の入っていたビニール袋を手に取る。

「ルゥリア!」

 話しながら、管制室の出口に向かう。その背中に、ケリエステラは小声でつぶやいていた。

「お前、しょっちゅう拗ねてるだろうが」


 ホイデンスの後に、ホベルドやアルベリン、トルオが続く。ケリエステラは、席から動かないフェネイン主任に声を掛けた。

「お前も行ってやりたいんじゃないのか?」

 フェネインは微笑んで首を振った。

「誰かがここを守らないといけませんから」

「そうか」

 ケリエステラは息をついた。

「お前みたいな嫁さんが欲しい」

 フェネインは口に手を当ててくすっと笑った。



『ルゥリア!』

 ホイデンス所長の声は、今まで感じたことがなかったほど頼もしく響いた。

「はい!」

『戻りたいか』

「……戻りたいです」

 泣きそうになるのを、懸命にこらえる。

「私は、何をすればいいのですか?」

 だが、意外な言葉が返ってきた。

『もう、済んだ』

「え?」

『もうお前は、それをやり遂げた、という事だ』

 所長の声は、自信を湛えていた。その声の背後、硬い足音が聞こえてくる。

『お前は、父が自分を責めるなと言ってくれていた事を知った。母がお前に義務を負わせないと言っていた事を知った。

 一号機……プリモディウスに今必要なものは何かを聞いた。お前自身の心の形も知った。この世界に執着するべき小さな幸せを思い出した。お前はこちらに戻る準備が既に出来ている』

 一度言葉を切り、

『俺のモットーを知っているか? 山に踏み込むなら……』

 それなら、何度も聞いたことがある。ルゥリアはその続きを繋いだ。

「地図を、必ず用意しろ」

『そうだ。そして今もお前は、俺の地図の上にいる。お前は、もう出口まで来た。後は、最後の一歩を踏み出すだけだ。目を閉じろ』

「はい」

『一歩前に出ろ』

「はい」

 見えないままに、足を踏み出す。

『今、お前は戻ってきた。そう口に出してみろ』

 深呼吸し、そして言葉にする。

「ルーンリリア・バリンタ、プリモディウス、共に帰還しました」

 そう口にした時、自分と周りの世界で、何かが切り替わるのを感じた。

『よし。ゆっくり目を開けろ』

「はい」

 ホイデンスの言葉を信じ、瞼を開く。

 まぶしい光が目に刺し込むと同時に、プリモディウスの感覚と重ね合わせるように、自分の体の感覚が戻ってきた。

 二組の目に、それぞれの視界が広がる。操者殻の中と、地下空間。

『ルゥリアちゃん、大丈夫?!』

 操者殻の中、モニタの隅に映るフェネイン主任が、せき込むように問いかけてきた。

「は…」

 言いかけて、今度は自分の体が空気を押し出し、口が動き、喉から声が出るのを感じた。

「はい。大丈夫です。ありがとうございます!」

『良かった!』

 安堵の声に変わる。

 直後、管制室に沸き起こった歓声がインカムから響いてきた。


 宙に浮くプリモディウスの視界には、地下空間の天井ドームが映っている。サイレンが鳴り響く中、非常灯の光が、スプリンクラーから降り注ぐ水を赤く煌めかせている。

 視線を下すと、フロアから激しい水流が自分に……プリモディウスにぶつけられている。跳ね返る水しぶきの向こう、移動タラップの上に立つホイデンスが見えた。ビニール袋をかぶせたマイクを手にしている。

 その後ろにはホッブも、トルオもいる。誰もが、降り注ぐ水を浴びて全身を濡らしながら、こちらを見上げていた。

 タラップの向こう、ハンガーの入り口には、壁に寄りかかって腕を組み、横目でこちらを見ているアルベリンの姿もある。

 こみ上げる熱い気持ちを、懸命にこらえる。

『一号機、パラメータ全て正常値に戻りました。本覚醒状態で安定しています!』

『操者、身体・精神数値共に全て正常!』

『放水中止!』

 管制室の声が次々と飛び込んでくる。程なく、放水銃からの水流が止まった。スプリンクラーの放水も弱まり、やがて途絶えた。

 サイレンも止まり、照明が赤い非常灯から通常の白色照明に切り替わる。薄暗かった赤い空間に、雨上がりのように光が差していく。


 ホイデンス所長がマイクを口元に運んだ。

『降りてこい』

「はい」

 ルゥリアは意識を集中し、プリモディウスをタラップ前に近づけていく。やがて機体の爪先が床に触れ、足の裏全体が接地。膝が曲がって衝撃を吸収した。機体から一斉に水滴が振り落とされる。

 姿勢を戻すと、頭上を追走していたガントリークレーンからのチェーンが降りて、機体を保持した。それを確認して、目の前のホイデンスに告げる。

「ただいま、です」

『うむ、ご苦労』

 厳粛な顔でうなずいたホイデンスの脇腹をトルオが肘でつつき、噛みつくように何か言うのが見えた。珍しい彼の怒りにホイデンスも押されたようで、ルゥリアの方に向き直った時は目が泳いでいた。

 ホイデンは口を開き、しばし迷い、それから言葉を絞り出した。

『お、おかえり』

 ルゥリアは、胸に溢れる熱い気持ちを一言に込めた。

「はい!」

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