九.遠くにありて

 ノランが出ていった翌日、ルゥリアにも寮の部屋を替えるよう指示が出た。引っ越し先は、やはりルームメイトが引退し、一人部屋になっていたアルビーことアルベリン・オスタンダムの部屋だった。

 ルゥリアの荷物は、今でも袋一つで収まるくらいしかない。片づけはすぐに終わり、アルビーの部屋に向かった。

「よろしくお願いします」

 ノックをして、ドアを開けたアルビーに頭を下げると、

「うん。あんたはそっちね」

 それだけを言ってアルビーは背を向けた。

「はい」

 彼女に示された方の半分に荷物を置く。振り向くと、アルビーは既に机に向かって本とノートを広げていた。その背中から声だけが飛んできた。

「わたしはノランみたいに世話焼く気無いんで。あんたも用がないなら話しかけないで」

「……はい」

 苦手な相手とも向き合って行こう。ノランとそう誓った心は、早くも萎れ始めていた。



「クルノちゃん、クルノちゃん」

 トルムスの街中で、クルノは後ろから不意に呼び掛けられた。

 聞き覚えのある声は、振り向く前に分かっている。従士隊副隊長タルーディの母、ロベリアだ。

 孫のサニエスはクルノの同級生だが、彼も父も遅くなってからの子で、ロベリアはもう七十を超えている。

 だが彼女の髪はまだ白髪も少なく、暖かい日なたの土の色をしている。

「あ、ロベリアさん。お久しぶりです」

 クルノは会釈した。

「はいお久しぶり。元気?」

「はい」

「良かった」

 にっこり笑った顔が、傾げられた。

「少し痩せちゃったかしら?」

「いえ、力仕事のおかげで脂肪が落ちただけですよ。ほら、筋肉はこんなに!」

 右腕をまくり上げて力こぶを見せると、

「あら、ほんと。そうね。この前会った時より、少し大人になったのね。そうようねえ。今はクルノちゃんが家の大黒柱ですものね」

「いえ、僕なんてまだ子供です」

 とはいえクルノとしては、そろそろちゃん付けをやめて欲しくはあるのだが。

「そうそう、クッキー焼いたの。持ってお行きなさいな」

 手のひらに載るほどの布袋を差し出す。

「いいんですか?」

「いいのよ。お茶会用だから。みんな持ってくるんだし、また次に持って行けばいいのよ」

「ありがとうございます」

 クルノは袋を受け取った。

「まだこちらに残られていたんですね」

「ええ。だいぶ寂しくなっちゃったけどね」


 従士隊の解散以後、クルノ一家以外の元従士達の家族は、一つ、また一つとトルムホイグを離れていっていた。

 先週は、トレンタの一家も引っ越すことになったと知らされたばかりだ。

 あの帝都から帰った日、クルノを励ましてくれたトレンタの電話。あの日漠然と約束した春の電話が、その知らせとなった。

 すまなそうな彼女に、クルノは気にするなと励ました。実際、寂しくもあったが、トレンタが自分の一家同様に人質扱いされるのは嫌だったから、ほっとしたのも事実だった。


「私は、顔なじみも多いから残りたいし、サニエスもここを離れたがらないわ。ここだけの話、サニエスはクルノちゃんの事、気にしてるのよ」

「そうなんですか」

「そうなのよ。そんなに心配なら、電話の一つもすればいいのにね」

「いえ」

 クルノは少し暖かい気持ちで首を振った。

「それが、あいつの気遣いなんですよ」

 本当、あいつはあいつで、親父さんに似てるな。クルノはそう思った。

「でも、タルーディおじさんに仕事が見つかったら、ご一緒に行かれた方が良いと思います。その方がおじさんも安心ですよ」

「クルノちゃん優しいのね」

「いえ、そんな」

「ルゥリア様も、お元気なのかしらね」

 不意打ちで、どきりとさせられる話を振られた。

「そうですね」

 答えながら、クルノは周りを意識した。目に見える範囲では、立ち止まって会話を聞いている人間はいないようだが、どこで見られているか分からない。

「分からないけど、きっとお元気に修行しておられますよ。とても偉い方が後見についておられるみたいですし」

「そう、そうね。大丈夫よね。ああ、そろそろ行かないと」

 ロベリアは腕時計を確認した。この世代のたいていの人と同様、彼女も携帯端末を使っていない。

「じゃあ、またね。クルノちゃん」

「はい。また」

 その背中を見送って、家路につく。

 クルノの心には、帝都で最後に見た瞬間の、遠くから見た小さな姿がまた浮かんでいた。

(ルゥリア様……)

 クルノは空を見上げた。



「先にシャワー使うよ」

 アルビーが体にタオルを巻いて、シャワー室へ入っていった。

「はい」

 ルゥリアは机に向かったまま答える。

 今日は一般学習の宿題があるため、ホベルドとの剣術修行は休みだ。


 アルビーとの生活が始まって三日が過ぎた。最初の悪い感触とは裏腹に、今の心境は落ち着いている。

 愛想が悪いアルビーだが、全く干渉しない姿勢にはすぐに慣れた。元々は内向的な自分の性格に合っているのかもとも思う。

 ある意味では、合いすぎるのが怖い。放っておかれれば、自分は昔のように思考の渦の中に自ら沈んでいきかねない。

 その渦の中には、いつも三つの人影がある。父と、母。そしてクルノだ。罪悪感と後悔で、目の前の課題から完全に意識が離れてしまう。しかしそれが行き過ぎる頃、アルビーが何か伝えるために声をかけてくる。たまたまだろうけれど、その事では助かっている。


 その時、カーテンの向こう、アルビーの机のあたりから振動音がしてきた。どうやら着信があったらしい。

 ルゥリアはシャワー室の扉の前まで行って声をかけた。

「アルビーさん、携帯にお電話です」

「分かった」

 ほどなく、シャワーから出てきたアルビー。タオルを肩に掛けただけで、横を通り過ぎていった。見るとは無しに視線をやったルゥリアは、彼女の耳に意識を引かれた。そういえば、いつも耳は髪に隠されていたのだった。初めて見た耳。その先は尖っていた。

 アルベリンは、エルフだったのだ。

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