第8話

「来ました。〔ビアンケリーア〕帰投!」


 ウワファの港。


 天蓋型の入港ハッチから降りてくる〔ビアンケリーア〕を、〔メルバリー〕の甲板でデッキクルーが見上げていた。


 機体の帰投を知らせるホイッスルの甲高い音が艦内の観測所から発せられる。港の空間に甲高い音が長く緩く、二度に区切られて響き渡る。


 その音に背中を押されて、ユノも甲板に出てきた。


「シセルが帰ってきた」


 ユノは嬉しさと天蓋の照明の眩しさに目を細める。


〔ビアンケリーア〕のシルエットが尾っぽの長い海鳥のように見える。見知らぬ小島に迷い込んだかのような機械の鳥は、緩やかな円を描きつつ着地姿勢を取り出した。


 同じように甲板で出迎えをするカービン達も手をかざしながら様子を窺う。


「随分お時間がかかったな?」

「列車でくるんじゃなかったけか?」


 ヘンリーの問いかけに、三角巾で腕を吊るしたメットが重ねる。


「色々あるんだろ」


 カービンは男二人にそう言って、シセルの帰還に胸をなでおろす。


 やがて、主翼を畳み、垂直で降りてくる〔ビアンケリーア〕から来る熱風が髪を揺らす。徐々に近づいてくると、その風は轟音を伴って激しさを増していく。


「いかんか? 全員、下がれ! 救護班を呼べ!!」


 いち早く異変に気付いたデッキクルーのジャクソンが太い腕を振り回して、集まった全員に叫んだ。


 デッキクルーたちやユノも後退りながら、〔ビアンケリーア〕からランディングギアが出てくるのを確認する。


「進入速度、オーバーだ! 警報!」

「オーバースピード?」


 ユノは振り返って、収納デッキの外部スピーカーを見て、それから周囲に視線を巡らせる。


 デッキクルーたちの後退る歩みが次第に早くなり、安全距離を確保しだした。


 そして、〔ビアンケリーア〕が危ういバランスで乱暴に甲板に着陸。すさまじいジェットエンジンの風圧とおもちゃの様にグライダーが弾む。甲板も揺らめき、クルーたちは腰を落としてエンジン音に顔をしかめる。


 ユノも捲れそうなスカートの裾を押さえて、少しずつ〔ビアンケリーア〕に歩み寄っていく。


 それよりも早く動く人たちがいた。オレンジ色のつなぎの救急キットを手にした人たちに、濃い顔のジャクソン・コーデルが血相を変えてコックピットに取りつく。


「これ、外部コンソールから開けられるか?」

「下がってくれ。今開ける」


 ジャクソンはいの一番に機体に張り付いた救急隊員を押しのけて、コンソールを操作する。


 遅れて駆け寄ったユノは大人たちの緊張した様子に思わず距離を取る。


 次第にエンジン音も弱くなり、キャノピが開かれると簡易タラップがコックピットに駆けられ救急隊員がコックピットを覗く。


「おい。大丈夫か?」


 救急隊員はシートに沈むようにして座るシセル・メルケルの肩を叩いて、意識を確認する。そして、ツンと鼻を衝く臭いに一瞬顔を歪めた。


 シセルの顔は青ざめており、熱気を感じられなかった。その膝元にはほとんど胃液らしい黄色が見て取れた。操縦桿を握る手も小刻みに震え、ぐったりとした瞳が救急隊員を見る。


「大丈夫、です。ちょっと、疲れちゃった……」

「降りられるか? 手を貸すか?」


 救急隊員が手を差し伸べるが、シセルは肘掛けに両手でつかんで体を起こす。


「いいえ。一人で降りられます」


 隊員はふらふらとシートを立つシセルにタラップを空けて、彼女がよたよたと降りるのを見守る。


 と、最後の一段で踏み外し、しりもちをついてしまう。


 すぐにジャクソンが肩を貸した。強烈な刺激臭に彼もすぐに気付いたが、新米のパイロットにはよくあることであったから動揺はなかった。むしろ、喜ぶべきだと彼は思う。


「疲れているな。報告は後でいい。上には俺から言っておく」

「すみません。けど、一人でいいですっ」


 シセルがジャクソンを突っぱねるが、その勢いにまで足元が追い付かない。


 千鳥足になって、咄嗟にユノがさっと飛び込んで腕を抱え込んだ。その重さに彼女もつんのめってしまうも、どうにか背筋を伸ばして抱え上げて見せる。


「強がってないで、疲れてるんなら頼ったっていいの。服も汚して」


 シセルが文句を言う暇を与えず、ユノは強引に彼女を〔メルバリー〕へと引っ張っていく。たどたどしいシセルの足取りに不安が募る。


 疲れで噴き出した汗の臭いや胃液の腐臭が合わさって、シセルからは朽ちかけの果実のような甘酸っぱい香りが漂っていた。


「シャワー浴びて、よく寝て……。妹さんに元気な顔、見せてやんなきゃダメでしょ? みんな、辛い思いをしてるんだから」


 ユノは口早に言って、足腰に力を入れる。


 そうしなければ、シセルともども倒れてしまいそうで、起き上がれる気がしなかった。


 戦争の只中に放り込まれて、環境が変わり、状況の変化に体がついてこない。頭で考えていても、突然に順応できるほど思春期の子供が頑丈にできているわけもないのだ。


 その背中をジャクソンは見送り、クルーたちを見回す。


「すぐに牽引車と掃除道具持ってこい!」


〔ビアンケリーア〕の帰投はすぐに仕事へ変わり、お祭り騒ぎもすぐに消える。それほどに当たり前の出来事として、処理されるのだから。


       *      *      *


 タット・モルドーは数人の兵を連れて、ガッドマンをウワファのさる国の領事館へと護衛していた。前後に護衛の車が走り、その間に挟まれた黒塗りの電気自動車一台が多層化した町のハイウェイを走る。


 周囲の明かりはすべて照明器具で彩られる。


 多層化した地面の上に平屋のような家々が並び、その屋根には芝が敷設され、シダ植物のカーテンが垂れ下がっているのが目につく。整地された川を流れる水は上層にある運河からの水を支柱の中でろ過し、地下へと返していく。


「アラブ諸国への働きかけかね?」


 ガッドマンがそうつぶやくと、向かいの席に腰掛けるタットは手持ちの端末をいじるのをやめて顔を上げる。


「いえ、自分にそれほどの力はありません」

「そうか。ドミニオンの艦隊編成は准将が取り仕切っていると聞いた。やはり、アン・カーヴェッジの強襲はあるのだな?」

「月の戦艦保有数は前から増加傾向があります。アン・カーヴェッジと手を組んだ企業が建造しているのでしょう」

「それはこちらも同じこと」


 それよりも、とガッドマンはタットを正面に据えて手を組んだ。指を絡める仕草は落ち着いており、何かを企てている様にも見えるだろう。


 タットのように心配性な男はその挙動一つでも気になった。


「特区での戦闘、と報道があるようだが?」

「わかっています。よくご存じで」


 タットは手元の端末を裏返して、ガッドマンを見た。


 特区、つまり月の地球模倣テライミテーションが行われている区画でAMアームド・ムーバと戦闘機が交戦したことだ。先ほど入ったばかりの、民放でも速報として取り上げられた事件であり、その一端には〔ビアンケリーア〕が関わっているのは容易に想像がついた。


 が、ガッドマンがその情報を知りえる機会はなかったはずだ。タットが端末を思わず裏返したのも、彼が目ざとく端末の記事を読み取ったと思ったからだ。


 しかし、鉄仮面の男は肩を上下させると、指をといて側頭部を軽く叩く。


「これは端末やモニタにもなっていてね。輸送していた鉄道部隊が月の軍事警察に抑えられたそうだな。ご友人の安否が気になるのもわかるが」

「そりゃ、覚悟はしてますよ。一応は軍人ですから」


 タットにしても友人のメルモランが逮捕されたことには驚かされた。


〔ビアンケリーア〕の運搬に関しても、シセルが予期せぬ事態を脱出するために飛び立ったとしても積み荷については『ただ依頼されたものを運んでいただけ』と言い張れるように仕込みもしておいたのだ。


 どこかでミスがあった。タットは自分に原因があるのではとも考えたが、ただの速報記事を読んでいるだけではわからないことだらけだ。


 その不安を察してか、ガッドマンがいう。


「このまま、あの新造艦に残ってさえくれれば、いくらでも挽回のチャンスはあるのではないか?」

「うまいことを言いますね? でも、自分は帆船のほうが性に合ってるので」

「キミの指揮能力なら問題ない。艦の運営は引き続きしてもらうよう掛け合っておく」

「引継ぎもありますので、それはご遠慮いただきたい」


 タットは表立って戦場に出る気はなかった。


 だが、友人のことを考えると逃げ出す様な後ろめたさを感じるのも事実だ。戦況に関わっていれば、幾分か罪滅ぼしというか精神的に楽な気がした。困難な逃げ道ではあるが、タット・モルドーの思考はそれが健全だと思える。


 電気自動車は目的地の門前につき、警備員の了承を得ると官邸へと赴く。敷地は狭く、官邸前のロータリーには国旗を模した花壇があり、いささか悪趣味な感じがする。


 自動車が停車すると、官邸からセキュリティサービスの男たちが露わて恭しくドアを開ける。


「代表、お待ちしておりました」


 ドアを開けた一人が言った。


 それに対してガッドマンは軽く手を挙げて返事をし、今一度タットを見た。彼の務めて平静な顔が鉄面皮の政治家にはよくわかる。


「ご苦労だった、艦長。引き続きの任、頼んだ」


 ガッドマンは足先を外に向けて、敷地に足をつく。


「滞りなく、次の人には伝えておきます」


 タットはその背中にツバでも吐きかけたい気持ちで言い、彼から視線を外した。


 すると、車から降りたガッドマンがドアに手をかけてしばらく虚空を見るように顎を上げる。そして、言うのだ。


「例のパイロットな。ドミニオンで捕らえておけ。厄介なことにならんようにな」

「ん? どういう意味です?」


 タットは視線だけ今一度ガッドマンに向ける。


「アン・カーヴェッジが探しているようだ。先手を取られた」


 ガッドマンはドアから手を放すと、官邸へと進んでいく。


 タットが思わず顔を向けた時にはドアは閉ざされ、ガッドマンが振り返ることはなかった。


「モルドー中佐。出しますが、よろしいですか?」

「ああ、頼む」


 運転手の兵士に返答して、タットは膝元の端末に視線を落とす。


 ガッドマンの言葉の意味を考えるよりも、彼の姿を思い出して端末を表にする。そして、最新のニュース記事を探す。


 そして、社会欄に新しい記事が更新されていた。その内容にタットも思わず顔を覆った。


「まったく、面倒な――ッ」


 記事の見出しは『ドミニオンの過激派レジスタンス、月に密入国か?』とあり、そこにはシセル・メルケルの顔写真まで掲載されていた。


 月の政府発信で指名手配されている。そのフットワークの速さにも驚かされるが、月政府だけの施策にしては要領が良すぎる。


 ガッドマンがアン・カーヴェッジの仕業だと予測するのもわかる。そして、その思惑がただの小娘一人を捕らえるだけに収まらないのも想像がついた。


「艦隊を抑え込む気か」


 アン・カーヴェッジの作戦を察知して、艦体の準備を進めているこの状況で月の都市全土に大手を振って調査をする一団が練り歩くのだ。


 無論、その調査役はアン・カーヴェッジだろう。


       *      *      *


〔メルバリー〕のシャワー室は狭い個室だ。宇宙空間を航行する艦にあっては、水の取り扱いはデリケートであり、シャワー室を使う機会は少ない。


 シセルはユノにされるがままに、服を脱がされてシャワー室に押し込められる。


「重力は働いてるからマスクはいらないからね。わたし、着替え持ってくるから」


 ユノはシャワー室のドアを閉めると、脱衣所で散らかったシセルの服を抱えて出て行ってしまう。


 シャワー室に残ったシセルは大きなため息をついて、コンソールに視線を移す。蛇口などはなく、すべてが防水コンソールで管理され、その隣には呼吸器がついている。無重力の際に使うもので、それを装着して呼吸をする。


 そうしなければ、足元にも細かな吸気口がお湯もろとも空気を吸い込むのだから息が続かないのだ。


「疲れた……」


 シセルはそうつぶやいて、コンソールに触れる。


 固定されているシャワーヘッドから熱めのお湯が降り注いだ。細やかなお湯が肌を撫で、滴る音が床ではじける。


 俯いて、頭から被ると体の奥底でくすぶっていた熱も一緒に足に流れていく気がした。首筋を伝い、乳房の柔らかな線を流れ、お腹から足へと落ちていく。壁についたしなやかな腕へ伸びるお湯の流れがやがて大玉となって床に滴る。


「……生きてる」


 シセルは壁から手を放して、自分の肩に手を置いた。それもやがて力なく滑り、指先がまだ過敏な突起を引っ掻くと、チクリとした感触がはっきりと残る。


 指先はお腹を撫でて、その先からは湯気のむこうに消えて、彼女の視界も次第に薄れていった。


 力が足元から吸い取られるように崩れ、壁に肩をこすりつけるようにしてへたり込んでしまう。


「疲れたよ……、あたし」


 シセルは先ほどまでの煩悶として、濁流のような思考の渦から開放された。しかし、それは泥沼に沈む様な倦怠感を伴い、身体をも疲れ果てさせる。


 このままお湯のように体が溶けだしてしまいそうで、意識は湯気のように朦朧と消えていってしまいそうだった。


 口の中の気持ち悪さも忘れて、ただただ煩悶とする想いだけが身を焦がす。


 戦いの中で感じた欲求不満だけがしこりとなって居座り、心が刺激を求めていた。恐怖が快感に、平穏は不快に、これまでの世界がひっくり返ったような興奮の洪水に胸の奥が疼いて仕方がない。


 頭を働かせる理論的なものではない。


 足し算や引き算、そんな明瞭明晰な解の導きでもない。


 いうなれば、根源。


 神の証明に信奉者たちが科学を用いる以前から、あるいは絶対者を想像するもっと前からある矛盾の肯定。


 生きている全能感。その満足感をシセル・メルケルは渇望する。


「あたしは……」


 シセルにとって〔ビアンケリーア〕の、〔ヴェスティート〕のコックピットが自分の世界だと思いたくなった。


 重い瞼が降りてきて頭も朦朧としはじめる。


 立ち込める湯気がはっきりとした現実との境界を薄めていく中で、夢心地の中で『彼女』の言葉を思い出す。


『わたし、お姉ちゃんになんだ。嬉しいな……』


 それはシセル・メルケルが持つ古い記憶の一つ。


 人造人間クローンとしての自分を認識する存在にして、己を否定する原型であるシセル・メルケルの遺志である。


 意識を失う寸前になっても、シセルが『シセル・メルケル』であることをやめられない。


 死人に繋がれた人造人間クローンには自由とは遠い理想の様に感じられた。


 その渇きの中で彼女は裸のまま眠りについた。


 

 

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