第三章 月面
第1話
月面のクレーターがはっきりと見えてくる頃になると、〔メルバリー〕内では兵士たちの合間に緊張が張りつめていく。
ピリピリしている雰囲気はボランティアで動いているユノにもよくわかった。
「アン・カーヴェッジの艦影見えてるんだろ?」
「戦闘を避ける作戦を実施するんだから、警戒してるんだよ」
ユノは洗いたての衣類の入った洗濯籠を抱えて、横切っていく兵隊の会話に首をかしげる。
「ここの軍人は能天気なの?」
艦内に一般人を働かせて、作戦内容まで聞こえてきてしまう環境はとても軍隊の雰囲気ではなかった。
「戦うことばっかり考えて」
ユノは壁のリフトを使い、医務室に向かう。
部屋に入れば、明るい室内に重傷者を寝かせたベッドが連なっている。室内に足を入れると、すとんと足の裏が床をついて無重力で浮いていた髪も下へと降りる。
ユノはため息をつきながら、アップにまとめた髪の毛先を払った。少しでも重力を感じられることが心なしか安心できた。
医務室の壁や床天井には反重力流体を流した層があり、無重力の中では疑似重力として作用していた。空気を押し上げるのとは逆に、天井から床へ空気を押し付けているようなものだ。
「すみません。着替え、持ってきたんですけど?」
ユノがあたりを見ながら言うと、看護師の一人が患者のくだらない愚痴を適当に区切って近づいてきた。床を一蹴りでふわりと歩み寄り、彼女が一瞬神経質そうに頭を振ったのがわかった。
「ご苦労様。着替えでしょう?」
「はい。一通り――、大変ですね」
「えぇ、本当に」
看護師の重いため息を聞いたユノは、つま先立ちをしながら耳打ちする。
「洗濯籠の底にチョコがあります。よかったら、みなさんで食べてください」
「いいの?」
「働いている人が倒れるわけにはいかないでしょう。元気をつけないと」
「ありがとう。あ、そういえばあの子、起きてるわよ」
ユノは洗濯籠を看護師に渡すと、看護師が顎で示す方を目で追った。
「ソフィちゃん、だったかしら? まだ熱があるけどだいぶ落ち着いたわ」
「そうですか」
ユノはそう返事をしながら、ベッドの上で上体を起こしているソフィ・メルケルを観察する。
彼女は半纏を着込み、ニット帽やマフラーまで巻かれて暑苦しい格好をしていた。その手にストローをつけたドリンクを両手で持って、飲んでいる。
「低重力下での生活も慣れてきてる。お姉さんにもいい報告ができると思うわ」
「ありがとうございます」
ユノは一言礼を言って、ソフィの横にジャンプする。
床を蹴るとふわりと体が浮かんで、爪先が自然と床に降りていく。顔にはひんやりとした空気が流れ、足先はぬるま湯に浸るかのような温かさが揺蕩っていた。反重力流体の疑似重力が生み出す弊害だ。
「あ、ユノさん」
ソフィもユノを見つけると、ストローを口から離して彼女を迎える。
「調子、よくなったみたいでよかったわ。もうすぐ月につくからね」
「あ、ありがとう。心配してくれて」
「構わないわ。困ったときはお互いさまっていうもの」
ユノはベッドに腰かけて、真っ赤な顔をしているソフィを見た。
リンゴのように赤い頬や疲れた瞳の色みれば、全快とは程遠い。
「お姉ちゃん、まだ忙しいの?」
「ええ。一足先に月に降りるって――、だけど心配してないでしょ?」
「うん……。お姉ちゃん、だもん」
ソフィはストローを咥えて、つぶやいた。
「あたしを置いていかないもん」
「それだけわかってれば、月で会うまで我慢できる?」
「うん。ユノさんもいるから平気」
ユノは肩を上下させて、ベッドから立ち上がる。
ソフィ・メルケルが外交的な性格でないのは、シセルから聞いていたし、ここ数日付き合っていても知ることができた。それでも、根は純粋な子で人の好意を素直に受け入れてくれる。
「お人よしの姉妹ね……」
口の中でつぶやき、ユノは短く息を吐く。
姉妹揃って他人に甘い気がする。
シセルは人助けに理由をつけないお人よしで、ソフィは心を開いた相手に全身全霊で応えようとする。
ユノはこういう人を見ていると、宇宙での閉塞的な生活も我慢できるのだと思った。
「そうね。また様子見に来るから、早く元気になりなさいよ」
それだけ言って、ユノはソフィに手を振って医務室を出ていった。
* * *
シセル・メルケルは今回の作戦が上手くいくかどうか、不安であった。
追跡している軍艦に対して欺瞞をするわけだが、タット・モルドーの船乗り的な考え方がどうにもしっくりこない。
「また囮になるのか……。ふわぁ」
ぶかぶかの宇宙服に身を包んだシセルはあくびをしながら、エアロックから直接〔メルバリー〕の前デッキに出て、甲板へとエアガンを操作して進む。
「こいつのバックパックはどうするん?」
「赤い奴につけるんだと。その前に献血用の流体触媒はまだか?」
オープンチャンネルの無線がひっきりなしに、ヘッドフォンから響いてくる。
シセルが壁際に視線を向ければ、直立で立たされている〔ヴェスティート〕がある。その横では先の戦闘で鹵獲した〔ビィ・ツゥ〕の縞模様のバックパックがつるされて、〔ヴェスティート〕の背部との接合作業中であった。
「あんなものをつけてどうするのよ」
シセルは整備員たちのやることに不満を覚えながら、視線を外に向ける。
艦首から先には煌々と光る月が横手に居座り、赤道に張り巡らされた集光ガラスの光りのさざ波が綺麗に波打って見えた。
そこから視線を甲板に向ければ、一機の小型宇宙艇が準備を進めている。
「これが〔ヴェスティート〕の飛行機?」
シセルは周りにいる整備員の黄色い宇宙服を横目に見ながら、機体の後部につかまった。
小型宇宙艇といっても、そのシルエットはか細いグライダーのような構造だ。大きなメイン・スラスターが胴体の大半を占めて、長い主翼が張られ、同じく長い尾翼の左右にはドラム缶状態に圧縮したダミーが括り付けられている。。
「飛べるの、これ?」
シセルは身体を浮かせて、尾翼を掴むと腕の力で体を前に押し出す。
むき出しのノズルには推力偏向パドルがついており、パタパタと角度を変えている。胴体を過ぎれば開け放たれたキャノピが行く手を遮り、機首のコックピットブロックにたどり着く。
「パドルの調子はどうだ?」
シセルはヘルメットの側面を押さえながら、コックピットで作業をしている整備員が、自分に向けて発しているものだと感じた。
「良く動いてますよ」
「何だ、その言い草は――。と、何だパイロットの。よく寝れたか?」
整備員は身体ごと振り返り、上に立つシセルを認めてサンバイザーを上げる。
ジャクソン・コーデルの顔が見えて、シセルもサンバイザーを挙げて対応する。
「緊張続きで寝れませんよ」
「寝るのもパイロットの仕事だ。今回の作戦もきついぞ」
「わかってます。これ、グライダーですけど大丈夫なんですか?」
「大気圏内での運用を視野に入れてるモデルだ、悪くないぞ」
二人は体を入れ替えるようにして、位置を代わった。
シセルがシートに収まると、さっそく機器の確認をする。その合間にもジャクソンはコックピットの横に体を浮かせて、肘掛けのコンソールパネルに手を伸ばす。
その操作で正面のタブレット端末型コンソールに武装情報が表示される。
映し出された機体のシルエットの主翼と尾翼に点滅箇所が現れた。
「主翼にあるサーベルの発振器がビームピストルになってくれる。尾翼には――」
「攪乱用のデコイ、ですか? こんなもの、つけて」
シセルは小型宇宙艇に武装を取り付ける軍人が嫌になる。
「ただでさえ大きいダミーを引っ張るんですよ。軽くしませんか?」
しかし、ジャクソンはコンソールから手を放すと、手を振って否定する。
「こいつには流体制御がないんだ。少しは重さを稼がんことにはな。それにもともと軍用の設計だったんだよ、これ」
「わかったんですか?」
「ああ、あっちのコンピュータバンクからサルベージした」
ジャクソンはデッキの方を親指で示しながら言った。本体である〔ヴェスティート〕を刺しているのだろう。
シセルは深いため息をついた。
「なんとも、嫌な話。結局、兵器ですか?」
「そういうな。このビアンケリーアだって道楽で終わりにするのももったいない。が、それだけに費用がかさんで量産化は見送られたみたいだな」
「ビアンケリーアって、ヨーロッパの言葉?」
「ん? わかるのか?」
ジャクソンはニヤついてシセルの頭を小突いた。
シセルはムッとしながら、その手を払いのける。それからコンソールに表示されている時間を確認する。
「やめてください。作戦まで時間ないんですから」
「真面目だな。ビアンケリーアの意味は知らない方がいいかもな」
「バカにしてません?」
「いいや。地中海の方でな、下着って意味だ。パンツってこった」
シセルは聞いたことを後悔しながら、ジャクソンの口から再び下着の話題が出てくるのが最悪であった。
おまけに彼の高笑いまで聞こえてくるのだから、顔まで熱くなってそそくさとキャノピを閉じる。
「怒んなよ。作戦の内容分かってるな?」
ジャクソンが小型宇宙艇〔ビアンケリーア〕から離れる。
シセルはアイドリング状態のエンジンの調子を窺いながら、操縦桿を握る。
「スイングバイを使って相手の攪乱をする、でしょ? それでわたしは月のモルフェージュに寄港する流れなんでしょ。連絡、できてるよね?」
「できてるよ。そっちこそ書状を忘れるな」
ジャクソンはサンバイザーを下ろして、他の整備員たちに腕を振って下がるように指示する。
『作戦開始、3分前。各員持ち場に着け』
いよいよ艦橋からの伝令が走り、デッキクルーを残して整備員たちの黄色い宇宙服がデッキに引き返していく。
同時に船外活動をしているクルーたちも命綱を巻き上げて、艦内に戻っていく。
「もう? パネルの補強、完全じゃないんけどいいの?」
その中には後部の装甲補強をしていたティータ・コニンとヘンリー・スミスが大人たちをふり仰いでいう。
「ティータ、つっかかってもいいことないぜ? カービンだって戻ってる」
ヘンリーはティートの背中を叩いて、艦底から上がってくる〔ライター・ヘッド〕を指さした。ちょうど彼らの位置は後部デッキに近かったが、〔ライター・ヘッド〕のずんぐりした機体は前部の方へ流れていった。
ティータはそれを一瞥して、一度後方を確認する。今では地球も大粒の飴玉ほどの大きさでしかなく、暗い宇宙の背景が続いている。そこにアン・カーヴェッジの追跡艦など見えるはずもなかった。
「敵がついてきてるのはわかったから。けど、月に行ったってどうするのよ、あたしらの場合」
スペースコロニー生まれのコロニー育ちでは、被災者を保護してくれる機関がどれだけあるかわからない。ただたらいまわしに別のコロニーに押し込められると思った。
ティータが想像していることに、ヘンリーはみじんも危惧しておらずいう。
「だからさ、シセルがいるんだろ。いいとこのお嬢様の口添えならいいように取り計らってくれるさ」
ヘンリーの楽観視にティータは呆れて、船外活動を中断する。
ちょうど〔ライター・ヘッド〕が艦橋のむこうに消えていくところであった。
艦橋でもそれを確認して、通信士のネーメンが言う。
「おい、着地には気をつけろ」
無線で言った途端、〔ライター・へッド〕が荒々しく甲板を踏みつけて着地する。
〔メルバリー〕全体が震え、〔ライター・ヘッド〕も申し訳なさそうに膝を伸ばして直立する。
「着地成功」
「何が、だ。グライダーの発進の邪魔! すぐに退けろ」
カービンは宇宙服のヘルメットから聞こえるネーメンの怒号にしかめっ面になりながら、甲板で待機している〔ビアンケリーア〕を見た。
「シセルが出るのか?」
彼女が乗っているだろうことはわかったが、〔ライター・ヘッド〕をまだ思うように動かせない彼にはこのまま小型宇宙艇を跨いで、デッキに入れることが危ないとさえ思えた。
すると、〔ビアンケリーア〕の無線が開いた。
「いいです、時間もないんでしょ? このまま垂直離陸してみます」
「わかった。進入角度修正」
通信士とシセルのやり取りを傍で来ているカービンは、モニタ越しに〔ビアンケリーア〕がスラスターの推力で垂直に浮き上がるのを見守る。胴体の底と繋がる係留索がへそのように伸び上る。
〔ビアンケリーア〕が〔メルバリー〕の艦橋を超えた位置で滑空し、発進命令を待った。
「艦長、〔ヴェスティート〕の小型艇、発進準備完了です」
「ん。そうか……。どうも帆がないとしっくりこないな」
航海士と打ち合わせていたタットはネーメンの声に反応しながらも、帽子の位置を整えてぼやいた。
「そういわないでくださいよ。ソーラーセイルなしでも上手く光に乗れたんですから」
「それがしっくりこないんだ。波任せに動いているようなものだ」
現在の〔メルバリー〕は推進装置を極力抑えて、慣性航行を行っている。加えて、僅かながらに光の反作用を利用した推進航法で加速をつけている艦体は、満身創痍ながら追跡相手との距離を稼ぐことに成功していた。
タットは長らく光帆を使用した宇宙船に乗船していた経験もあって、帆を張らない軍艦の操舵にいささかむず痒さを覚えるのだ。
しかし、そうも言ってられず、彼は航海士を持ち場につかせ自身の仕事に戻る。
「アン・カーヴェッジの動きは?」
「本艦より後方五時方向に位置しています。距離変わらず」
「わかった。当初の予定通りに作戦を遂行する。総員、衝撃に備えろ」
タットの命令が下ると、第二次警戒警報が鳴り響き、その間にも艦長は肘掛けの無線機を取ってシセルとの連絡を取る。
「シセル・メルケルくん。作戦開始だ。いいか?」
「こちらはいつでもいけます」
「そうか。モルフェージュのな、メルモラン中佐にはよろしく伝えてくれ。それと、こちらの位置を見失うな。命にかかわるぞ」
〔ビアンケリーア〕のコックピットに収まるシセルは短く息を吐いて、操縦桿を握り直す。
「そっちこそ……」
「何か言ったか?」
「いいえっ。シセル・メルケル、お願いします」
シセルはそう言って、エンジンのパワーを上げた。
〔ビアンケリーア〕が係留索を外して、一気にメイン・スラスターを噴射して月へ向かって飛び出していった。
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