第19話 地上を認識した二日目の朝
全身に水を浴びて、そのままベースに戻れば、既に二人は起きていた。ここを離れる時にヴェネッサだけは起こしておいたが、こいつは術式で土を柔らかくして最高級のベッドにしていたし、木の枕も心地よく柔らかくしていて熟睡だ。蹴り飛ばしても床が沈むだけで、ちっとも起きやしなかった――が。
「――意地が悪いのう」
途中からか、最初からかは知らないが、見ていたらしい。
「わたくしも途中から聞きましたけれど、何をしてましたの?」
「ん? 一定距離、目視範囲をちょろちょろしながら、トラップを仕掛けてただけだ。異族狩りってのは、戦場慣れしてねえからな」
「ああ……二分という制限があるからですわね」
「本気にもなれず、戦闘をしようと思う範囲には届かず、じれったかろうにのう」
「嬉しそうに言ってんじゃねえよ」
まあ、それを演出したわけだが。
「つーわけで、下の水たまりに両手と両足を縛って浮かせてある。食事の準備が済むまでは好きにしろ」
「でかした!」
「――うおっ! 急に現れんといてや!」
「ふよふよ浮きおってこやつめ!」
「ちょっ、な、なにすんねん! あ、こら脱がすんやない――ほんまに!? ちょ、こら、あ、あほ! このあほ! うちのおっぱい吸っても何もでぇへんわ!」
「うるさい吸い取ってやる!」
「やめーや!」
……元気そうで何より。
「だから、かまぼこみたいな目になってんだよ」
「参加しませんの?」
「ここでお前が相手なら考えても良い」
空間転移の応用で、戦闘中に確保しておいたイノシシを引き寄せた。
「あら、ご馳走ですわね」
「やるか?」
「ええ」
「なら手伝え。基本的に食うのは足と尻の部分だ。弱火でよく火を通す」
「あら、血抜きもしてありますわね」
「戦闘の途中で首を切って、足を吊るしておいたからな。本当はその状態でさばくと楽なんだが、血抜きが済めばどっちも同じだ」
ナイフを刺す場所、向き、そうしたものを指示して、メニがそれを行う。獣の匂いも強いが、嫌そうな顔はするものの、文句はなかった。
解体を終えてから、残りは俺がやると言って、メニも水場で汚れを落とすよう言う。
「生乳放り出して、ぷかぷか浮きやがりますわね! けしからんですわ!」
「きゃ――! なにすんねん! ぺろぺろ舐めても味せんねん! ええ加減拘束解いてや! その気になったらどないすんねん!」
「うるさい泣きますわよ!?」
「逆ギレやないか!」
大変元気でよろしい。
……俺も混ざりたくなったが、メニが怒りそうだし、意識せずに準備を進めよう。
山菜は油で炒めるくらい。時間があるなら水を追加して煮沸しとくか、とも思ったが、その前に三人が帰ってきた。
何故か、全員落ち込んでいるのがシュールだ。
「……あんなに柔らかいとは誤算でしたわー」
「うむ、男が好むのも理解できるのう」
「ううう……二度はご免や……」
そうは言うが、かなりの運動量をこなすククルクは、形が崩れないようかなり念入りに固定している。走り回って揺れると、身体制御の邪魔になるからだ。つまり――
まあ――そういう努力を、男の俺が口にすべきじゃないのも、わかってはいるが。
食事を終えた頃には落ち着いたようで。
「おぅのぉ……」
現実を見返したククルクが頭を抱えていた。
「どうした、揉まれ足りないなら俺がやってやろうか? ――蹴るなメニ、冗談だ」
本当に遠慮がなくなってきてやがる。加減してるだけ、大して痛くもないから構わないんだが、俺の軽口なんてどうでもいいだろ。
「罠を張ったんですわよね?」
「ん」
「ククルクは慣れてませんの?」
「あー……や、落ち込んでるから表現控えめにすんねんけど、そこそこやな」
「わしも経験不足と知識不足で、突破なら力業じゃな」
それができてしまうのが、ヴェネッサの厄介なところだ。
「罠には大きく、三種類ある。逆に言うと三種類しかない」
実際に感じたククルクは考えるまでもなく、俯いたまま、一瞥だけをこちらに投げた。ヴェネッサは腕を組み、メニミィは視線を落とす。
「二つはわかりますわ。罠とは――相手に気付かせる罠と、気付かせない罠がありますもの。いわば緩急を作るやり方ですわね」
「最後の一つは、気付いても無駄な罠だ」
「無駄というのは、必ず引っかかるからですわね?」
「そうだ」
「ちなみに、ククルクはどれに引っかかりましたの?」
「全部」
短く言えば、ククルクは勢いよく顔を上げ、何かを言おうとしたが――悔しそうな顔で奥歯を噛みしめた。
「実力差は自覚してただろ?」
「あんなん、戦闘とちゃうやろ……いや、わかってんねん。戦闘する以前に、うちが死ぬんも現実や」
「お主、悔しそうな顔の女は好物じゃろ」
「ああ、だからメニを可愛がってる。泣き出すどっかのロリ子と違ってな」
「まだ泣いておらんぞ! それと夜中に泣くのはメニミィじゃろうが!」
「その時はエルスに違う意味で鳴かしてもらいますわ」
「……口が悪くなっておらんか?」
「そんなことありませんわよ。けれど、追い詰めるのではなく、移動しながらですわよね?」
「やり方は同じだ。ただし、罠と言っても自動と手動は区別しとけよ。まあほとんどは、視線誘導と視野狭窄を狙って、死角を作ればそれでいい」
「壁を使った戦闘で、多少は訓練しましたけれど、罠というのは本当に厄介ですわよね。一度引っかかると、引っかかったこと自体が、次の罠への布石にもなりますわ」
「うー……」
「疑心暗鬼を生み出せば勝ちという典型ですわねー」
メニミィがククルクの頭を撫でている。慰めなくてもいいだろうに。
「ところでロリ子、ククルクが縛ってあった溜まり、調べたか?」
「む? こやつのおっぱいは念入りに調べたぞ」
「若いうちに注意しとかねえと、あっという間に垂れ下がるから気をつけておけ」
「うっさいわ! 気ぃつけてるから、固定してんのやろ!?」
「どうにも、妙だ。俺じゃ難しいから、ちょっと底まで潜ってくれ」
「それは構わんが、何を妙だと思っておる?」
「記憶にはあまりないんだが、……先に少し見てくる」
「否、わしも行こう。どうせ食休みじゃ」
全員ついて来たのは、想定通り。俺としても一人で何かを抱えるつもりはない。
下の岩だなに降りて、迂回するよう岩肌に手で触れるよう歩けば、すぐ川に到着する。そこから、降りて来た道を逆走するよう川に沿えば、すぐ大きな溜まりが見えた。
幅にして二十メートル以上はある。表面は青色と緑が混ざったような、鮮やかな色合いで、この溜まりから不意に抜けてしまっても、滝まではしばらくの距離がある。よほど混乱していなければ、落ちることもないだろう。
……なんか落ちた覚えがあるんだが、この場所か? 親父か? あのクソッタレめ。
「水遊びには最適じゃろう?」
「ああ、水中鍛錬は効果的だ――が」
中に飛び込めば、それほど流れもない。ただし、浮いていると円を描くようにして出口へ向かう。流れが緩やかなのは、この溜まりが深いことと、水が放出されている場所が一ヶ所ではないことだ。もちろん、大きくは一ヶ所なのだが、小さな脇道もあり、それがジャングルを育てている。
だが――。
「綺麗すぎる」
汚れがどうのではなく、軽く潜ってみても、底は見えないのに色合いだけがわかるだなんて、おかしいだろう。
「ヴェネ、青色ってのは――水の中で底を見下ろした時に、見えねえだろ?」
「ふむ……いいじゃろう。ククルク、メニミィ、お前らも来い」
全員が飛び込んでから、ヴェネッサは周囲を見て、俺を見て。
「奪うでないぞ」
「最後にな」
「仕方のないヤツじゃ。さて……この溜まりの範囲を囲いとして、いくつかの術式を複合させて――おる」
現在進行形で、ヴェネッサから放たれる
「よし、良いぞ。これで水中でも呼吸できるし、会話もできよう。範囲指定しておるので、術式が解除されることもあるまい。あとは好きに潜れ。不安なら、あまり離れぬようにな」
ほぼ同時に、肺の空気を吐き出した俺とククルクは、息を止めて沈んだ。
この方法は危険であるため、深い場所以外でも、やるべきではない。熟練が必要であるし、今回は水中でも呼吸できるからこその選択で――いや、まあ、異族狩りの戦闘中ならば、構わずやるんだが……まあ、真似は推奨しない。
「――ククルク」
「ん」
声が通じることを確認して、顎で示せばすぐに糸を取り出す。太めの八号
「底までは六メートル以上ありそうだな……」
「――偽装じゃ」
「術式がありますの?」
「鏡との複合じゃな。反射で虚像を作っておいて、それを術式で補正しておる。これは……」
「故郷が見えるんじゃねえのか?」
勢いよくヴェネッサが振り返ったので、俺は肩を竦めて見せる。
「少し待っておれ。おそらく上から見た方がわかりやすいじゃろ」
泳いでこちらにきたメニミィを片腕で受け止める。
「――なんですの?」
「水が落ちる先ってやつが、あるんだろうさ。単なる推測だったが、あながち間違いじゃないらしい」
「下ですの!?」
ククルクも近づいてきて、壁に手を当てて姿勢制御。
「……うちは受け止めへんやん」
「特別扱いして欲しいなら、ほかの男を捕まえろ」
「うっさいわ。というか、浮遊してるんは事実やけど、ほんまにその下に――何かあるん?」
「さあな。俺だって半信半疑だ」
そもそも、俺たちにとって都市とは浮いているもので、空にあるもので、その下に何があるのかと研究する者もいるが――わからないのが常識になっている。
たとえば。
島の隅に立って、見下ろしたところで、何も見えない。いや、見えるのは雲のような、術式無効空域だけであって、その先に何があるのかは、わからないのが現状だ。一体どれほどの高さにあるのかも、竜族ですら知らない。
俺だって、そうだ。
「なんでメニミィは平気なん……?」
「あら、理事会のエロ親父にじろじろ見られるよりは、よっぽどマシですわよ?」
「わかった、警告しておく。次にあったら気にせず殴れ」
小魚の群れがこちらに来て、俺たちに当たってから方向を変える。勘違いしてはいけないのだが、水の重圧はきちんと感じるため、これ以上落ちると行動に制限がかかる。底の方でふらふらしているヴェネッサは、そこらを上手く誤魔化しているはずだ。
三秒の区切りで、さて、どう対策すべきか。術式の連続使用なんて安易な手法は避けたいんだが……。
「――こら! いつまでいちゃついておる!」
「お前の仕事が終わるまでだ。それで?」
「周辺の反射と、光の抑制じゃのう。面白い造りになっておるが――これから、天井が覆われる。驚くでないぞ」
わかりやすく、ヴェネッサを中心に術陣が展開し、それが広がって壁に当たると、天地が逆転した。
いや――光の反射が変わったのか。
「足元が明るくなると、怖いですわね……」
「どさくさでしがみつくな」
メニミィを手放して、俺は少し下に落ちながら中央付近へ。
「ロリ子、こいつは空か?」
「いや、違う。……まあ、説明はわしの役目じゃな。ここの仕組みじゃが、周囲の岩場を投影していると思えば良い。普段は下を隠し、こうして下を見る時は上を隠す。潜りながらの閲覧を前提としておるのう。そして、今見えているこの光景は、底を鏡面に仕上げ――ガラス張りのように、術式無効の空域を貫いて、更にその下を映しておる」
下――か。
「じゃ、じゃあ水が流れ落ちる先なんやな?」
「そうじゃ。ほれ、もっと近くに来い。水圧関係の対応もわしがやろう。下に降りるぞ」
他人に任せることに抵抗はあるが、おそらく同じことを感じているククルクの尻を軽く叩き、ヴェネッサに任せながら、俺は周囲における水の流れを観測する。
やはり、奥の方が動きは小さい――ん? 横穴がいくつかある? 魚が住んでいるのか、それともどっかの洞窟にでも流れ込んでいるのか?
調査するにしても、さすがに穴が小さすぎて入れそうにないな。
「お主らに実感はないじゃろうが――」
まるで、空の上に立つかのよう、きちんと足場が存在する。それもそうだ、蓋がなければここの水が全て、下に落ちていてもおかしくはない。
「――浮遊都市は、浮かぶだけではなく移動もしておる。流れ落ちる水は、術式無効空間の下にて更に流れ、それは海に滝のように落ちている」
「海とは、なんですの?」
「見えておるじゃろ? この青色が全て、海じゃ。下の世界の七割がそれじゃ。その広さを、簡単に表現はできん。できんが、浮いている全ての大陸を重ね合わせたところで、その広大さにはまったく届かんじゃろうな」
「なら陸地の範囲はどうだ」
「それも同じことじゃ。あまりにも浮遊大陸は小さい――が、足が地に着くのならば、充分じゃろうなあ」
「――いるんですわね?」
「うむ、いる。そしてわしも、下で生活しておった。まあ……わしの場合は特例じゃな。現状、地上と行き来はできん」
「地上、か。なるほどな」
青色ばかりが広がっているようで、光が反射するよう筋がいくつも見える。それが表面が波打っている様子だとは、しばらく気付かなかった。
「あら、何か見えますわ。建造物ですの?」
「いかだが連なってるのか?」
「いいや、あれは人の家じゃよ。――最早、わしら人間は地上において、海の上でしか生活できん。陸地は魔物のものじゃ」
「多いのか?」
「人間の数が少なすぎる」
なるほどな。たぶん、それは多いのだろう。こっちにいる人員が降りたところで難しいくらいには。だが、ヴェネッサの返答は上手い――つまり。
「陸地で生活しようと思っても、人間が淘汰されると、そういうことだな」
「うむ。じゃから海の上で生活し、移動は船を使っておる。ああ、船というのは、大きい移動式の家みたいなものじゃ。川を下るボートは、知っておるか?」
「ああ、狼族が使うてるんを、見たことあるわ。知らん人も多いんとちゃうか」
「あれに屋根をつけた、大きいものじゃな。そもそも海は広く、嵐もあれば波が立ち、荒れる。それに耐えうる構造でかつ、百キロ単位での移動を可能とするものじゃ」
「凄いですわね。こちらには、せいぜい竜族が水場として扱う湖がせいぜいですわ」
「魔物の数も比較にはならんじゃろ。空から降って来るというのは、初耳じゃったが――エルス、いつ気付いた」
「単なる消去法だ。出身が浮遊都市じゃねえなら、あとは上か下しかない。魔物が降る元となる場所か、水が落ちる先か、どちらかだ。もちろん、存在してるかどうかは、別だけどな」
「なるほどのう……さすがに、存在までは確定できんか。であるのならば、両親からは何も聞いておらんようじゃの」
「お袋もか?」
「アレは、人の形をしておるが、人ではない。わしもアレを含めて二人しか知らんが、まあ、そういう
そうか、元より立場が逆ならば、同様のことが発生する。地上にいる連中は上を見上げたところで、俺たちは見えず、行くこともできない――待て。
「他種族はどうした」
「おらん。人間族だけじゃ。少なくとも、海の上には人間しかおらんし――わしは、こちらに来るまで見たことはなかった」
「そうか。そして、行き来はできない――だな?」
「うむ」
「なら話は以上だ。ここであれこれ言っても、結論は出ない」
「同感や」
「頭が痛くなりますわよねー」
「……小さな島が見えるな。おいロリ子、拡縮はわかるか?」
「む? ……ふむ、あの島はおおよそ、猫族の風流都市くらいのサイズじゃろ。人の手が入った形跡もないからのう」
海に浮かぶ孤島に見えるが、それだけのサイズか……。
しばらく眺めていたが、会話も落ち着いた頃に全員で上がった。元通りになってしまえば、たんなる溜まりでしかない――火系術式で水気を切ってやる。
「む」
「あ?」
こちらを見たククルクが眉根を寄せ、俺からヴェネッサへ顔を向ける。俺もつられるようそちらを見れば、そもそもロリ子は濡れていない。続いてメニミィは、乾いているという
「――あら、なんですのククルク」
「ずぶ濡れのままの、うちがおかしいみたいやんか!」
「おかしいだろ」
「便利になるなら何でもした方が良いですわよ」
「ぐぬぬ……!」
「仕方あるまい。午前中はわしが魔術講義をしてやろう」
「……頼むわ。なんか釈然とせえへん」
「なら、メニは昨日の続きだな。喜べ、ボールが一つ増えるぞ」
「楽しそうですわー」
見事な棒読みだな、おい。
とりあえず、俺はメニに付き合うとして――少し、思考の整理でもしておこう。まだこの島は、調べることがありそうだからな。
しかし。
親父はここで、一体何をしていたんだろうか。
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