第3話 庭木を巡った移植手順
ベッドの上、そして個室の中で目覚めるのは、まだ片手で数えられる程度。空気が流れていない、やや密閉されたような空間で目覚めれば違和が残り、これに慣れることはあるのだろうかと考えれば、今までの人生を振り返りたくもなる。
早いうちに横になったわしじゃが、どうもよく眠れていなかったらしく、躰が休まってはいない。だからといって文句を言える立場でもなし、隣接した洗面所で顔を洗おう――として、まずは台座を設置。背が低いというのはどうも、面倒なものじゃのう。
歯を磨いて、制服に着替えて、わしは部屋を出る。
女子は三階、男子は二階。それぞれ部屋は五つ――空き部屋も多い。
リビングから隣のダイニングに顔を見せれば、既に二人が揃っていた。
「おはよう」
「おっはよー、ヴェネちゃん先輩!」
元気よく、席に座っていたのにも関わらず立ち上がった元気な娘が、シェリラ・リリズィ。猫族の象徴である頭の上に二つある耳が特徴的だ。
「お主は元気が――うぷっ」
勢いよく抱き着いてきたかと思ったら、違った。わしが抱き上げられる。
「おー、やっぱヴェネちゃん先輩ちっこいね!」
「それほど変わらんじゃろ!?」
五センチ……うむ、そうじゃ、五センチくらいなものじゃろ!
「リリ」
「おはよう、キョウ」
「ん、おはよう、先輩。リリ、きつく締めると首が弱いから」
「わしは赤子ではないぞ!?」
やってきたのはギーギー・
聞いた話じゃが、ハーフであっても尻尾持ちもいるらしい。おそらく血の濃さで左右するものなんじゃろう。
「はあい、おはようヴェネッサ、ご飯よー」
「うむ。よし離せリリ、良いか離すのじゃ。飯じゃ」
「はーい。……ちょっ、キョウちゃん聞いて。予想通り、すっっごい抱き心地良いから!」
「うん、いいからって言われても困る」
「なんでー? ところ構わず抱き着いてなで回すよ?」
回すな、やめろ頼むから。
いただきます、と言って食べ始める。わしは食える時に食うタイプじゃが、キョウの方が少食で、リリはよく食べた。わしもよく食べる――そんな様子を、寮母のレゾナルは微笑みながら見ていた。
ご馳走様と、食事を終えてからはお茶を飲みながら一息。
「でさー、ヴェネちゃん先輩が入寮したから、今度の寮対抗戦は出れるんだよねー。リリちゃんどう?」
「私は、んー、出てもいいけど……」
あまり乗り気ではないと、眠そうな顔に書いてあるぞ。
「うん? なんじゃそれは」
「あれ知らない? あーそっか、編入だっけ。もうちょい先なんだけど、闘技場で寮対抗戦っていう、模擬戦みたいなのがあるんだ。最低人数が四人だったから、ずっと参加できなかったんだけどさー。ほら、ここら寮が多いから」
「ふむ。人数が多い寮が有利ではないのか?」
「選択の幅はねー。控え込みで五人だからさ。ちなみに、寮生じゃなくても称号持ちの学生だと、単独で出られるよ」
「なるほど、いわば祭りか」
「うーん……でも、成果を見せれば学園の成績に加味されるし、優勝者は称号を貰う人がほとんどだよ?」
「レベルは高い」
「ふうむ」
では、それを見れば学生のレベルも、それなりにわかるか。だが参加となると、難しいかもしれんのう……。しかしキョウ、レベルが高いなんてお主、嫌そうに言うものじゃなかろう?
「ま、わしはよくわかっておらんので、また聞いてくれ」
「うん、もちろん強制はしないし。――よし! そろそろ行こっか、キョウちゃん!」
「ん。先輩はどうします」
「敬語はいらんぞ、キョウ。いやしかし、エルスは良いのか?」
「エルス先輩と一緒だと、そもそも学園行けないよ?」
「ふむ……それはあれか、致命的な方向オンチとか、そういうあれか」
「あはは、面白い! あ、そっか、そっか。一応、先輩がヴェネちゃん先輩の世話役だっけかー。うん、だったら今日わかると思う」
「ん、わかる」
「ってことで、お先に! レゾナルさん、行ってきまーす!」
「いってきます」
「はあい」
ばたばたと出て行く二人を見送りはするものの、いや、学園に行けないってのはどういうことだ。
「……うむ、まあ、よくわからんことだらけじゃのう」
「うふふ、でもその方が楽しいでしょう?」
「わしにだとて多少の危機感はあるとも。ついでに聞くが、お主のそれも隠しておるのか?」
「――ええもちろん」
「ならば聞くまい。お主の飯は美味いしのう」
「ありがとうねえ」
面倒な
「ところで、称号の一覧など、あるのじゃろうか」
「そうねえ……図書館に行けば、あると思うわ」
「うむ、わかった――っと」
ようやく、エルスが下りてきた。
「おはよう、エルス」
「ん、おはようさん。レゾ、残り物の片づけなら請け負うが?」
「ううん、ヴェネッサが結構たくさん食べたから」
「さよで。じゃあ行ってくる」
「はあい」
「――いや待て、待てエルス」
「ん? ああ悪い、見えてなかった。おはようロリ子」
「おはよう。――お主、それ二度目じゃからな?」
「前回はわざと、今回は本気。三度目はなんだろうな……?」
こいつ、寝起きでぼーっとしてるんじゃなかろうな。
「学園へ行くんじゃろ?」
「たどり着ければな」
じゃから、なんじゃそれは……いいもうわかった、荷物なんぞいらん。財布だけあればよかろう。
「なんだ、ついて来るのか?」
「いやお主、わしの世話役じゃろ」
「そういやそうか、まあいい」
「うむ――あ、行ってくるぞ、レゾナル」
「はあい、いってらっしゃい」
外に出たエルスは、大きく伸びを一つ。大通りを噴水公園へ向かって歩き出すかと思いきや、目の前の細い路地に足を向けた。
なにをするつもりじゃ、と口を開こうとしてやめる。どうせ答えはないだろうし、興味があったのだ。わざわざ止める必要もない――と。
少し歩いたところで、ぴたりと足を止めたかと思えば、どこぞの寮の塀に手をかけ、中に声をかけた。
「――よう、ばあさん」
わし、背が低くて、まったく見えんのじゃが……う、うぬう。泣いては駄目じゃ、駄目じゃよ、わし。きっとまだ成長する。
「あれエルス、おはよう。どうしたんだい」
「そりゃこっちの台詞だ。寮の管理は娘に任せて、もう二年も経つ。あいつは良くやってんだろ? ――それにしちゃあ、複雑な顔で茶なんか飲んでる」
「そうねえ……」
「どうしたんだ?」
「……そうだね。そこに、小さなリンゴの木があるでしょう」
「ああ」
「私も庭の手入れが難しくなってきたから、もう切ってしまおうって、そんなことを思ってねえ……」
「そういうことを、いろいろ考えていたわけだ。切るなら業者か?」
「そうなるわねえ」
そこで言葉は途切れ、エルスは視線を左下に落とした。ちょうどわしの頭がある位置なので見上げるが、視線は合わない。思考の癖か、あるいは、癖を見せているのか。
「ばあさん、本当に必要ねえなら、俺が手配してやる。どうする、いいのか?」
「……そうね、ええ、任せてもいいかねえ」
「――わかった、すぐ取り掛かる」
「……ありがとうね」
「いいさ、気にするな。じゃあまた後でな」
ひらひらと手を振ったかと思えば、またすぐに歩き出した。
「な、なんじゃ? どうなっておる?」
「どうもこうもねえよ、話を聞いてりゃわかっただろうが……」
「が、学園は?」
「なにそれ」
いやこの男、なんじゃ……? 人助けを否定はせんが、なんか気楽に請け負った気がする。う、ぬ? なんじゃ?
しばらく路地やら大通りやらを歩いていくと、生活区にある建築中の建物に到着した。大工が複数人、仕事をしている。
「――棟梁!」
エルスが声を上げれば、おうと野太い声が返る。そしてタオルを首にかけた男が顔を見せ、少し驚いたような顔をしてから。
「おうお前ら! 九時になったし、休憩だ! 手ぇ休めろ!」
そう作業場に声をかけて、近づいてきた。でかい男じゃのう……。
「どうしたエル、お前ここは迷子預り所じゃないぞ?」
「そいつは知ってるし、俺の趣味で誘拐したわけでもねえよ。こいつはロリ子、これでも同い年の学生だ。合法だぞ、合法」
「はっはっは! お前は世話役を押し付けられたってかよゥ」
「その通り、クソ面倒で死にたくなる。ここに置いとくから、しばらくいじってやれ」
「お、おいエルス! なんじゃそれは!」
「うるせえ黙れ、終わったら迎えに来てやるからおとなしくしてろ。邪魔だ」
「う、ぬ、こやつ……!」
「棟梁」
「おう」
「
「ああ、瑞枝さんのリンゴ。ありゃ寮の増設時にも気にかけてた。亡くなった旦那と、結婚した頃に買ったって話だ」
「……あの馬鹿」
「何かあれば言え」
「ロリ子と遊んでてくれ。手伝わせてもいい」
「おい! わしはヴェネッサ! 林ヴェネッサじゃ!」
ほかの大工たちが集まる頃、なんだもう行くのかと惜しむ声に手を振って去るエルスの背中に、わしは腰に手を当てて大きく吐息を落とした。
「なんじゃあいつは……」
「ははは、まあ座れ。あいつなりの配慮だロリ子」
「林! ヴェネッサ!」
「ん、元気が良いなあ。ほれ、適当に座れ」
どっかりと地面に腰を下ろしたのを見て、わしも座る。服が汚れる? ――そんなこと、大して気にしたこともない。
「配慮じゃと?」
「あいつのことを知りたいんだろ? 俺らに話してもいいってことだ。あの小僧は昔、ここで働いてたから。――なあ?」
周囲に声をかければ、笑い声と肯定の声が上がった。
「ありゃ四年くらい前だっけな、棟梁。クソ陰気な、言葉数の少ねえガキだったよなあ」
「表情の作り方一つ知らずに、大してしゃべりもしねえのに、仕事を手伝うってな! しかも新入りの仕事を奪うくらいの手際の良さだ、ありゃあ驚いたもんだぜ」
なんだか――嬉しそうに、彼らは言う。
「ちっこいの、おい、あいつとは長いのか?」
「いや、まだ二日くらいじゃ。あとな? さっきから言ってるが、わしの名は林ヴェネッサじゃ」
「おうそうかい、ちっこいの。二日でも、野郎の口の悪さは知ってんだろ? ――あははは! ありゃ俺らの〝成果〟だ!」
「そういう意味じゃあの野郎、素直だったよなあ!」
お前らが原因か……!
「……ま、そうだな。面白がってもいたが」
「う、む……しかし、四年前? どうしてやつを、仕事に? まだ幼かったんだろう」
「見た目で年齢を計算する奴は、ここにはいねえよ。だがな林、俺らみたいな仕事は必須でもあるが――どこかで足を踏み外さねえと、なかなか、職に就くことはできん」
「……? どういうことじゃ?」
「学園で勉強して、魔術を覚えて、そこからほかの都市へ帰らなかった者の就職先ってのはな、それなりに良いところだ。だが成績が悪かったり――そもそも、魔術への適性がなかったりすれば、ほかの仕事を探すことになる。たとえば、接客業とかな」
「ふむ、そこまでは頷ける話じゃのう」
「だが、一度職業について、疑問を覚えた連中はどうなる? まともな就職先はないし、そもそも、魔術師としての自分に疑問を持つ――そうなりゃ、こういうところに転がってくる。魔術が全てじゃない、そんな当たり前のことを意識してな。最初にエルの野郎を見た時は、そういう〝挫折〟をしたガキに見えたんだよ。多少は早いと思ったが、働けるなら手伝えと、指示を出した」
「それを素直に受け取ったのか、あやつは」
「まあな。しばらくして、野郎が学園にすら通ってねえと気付いた時には、まあ驚いたもんだぜ?」
「それよか、俺はあいつが、学園に通うって、すげー嫌そうな顔で報告した時の方が驚いた! こう言っちゃ悪いが、こいつが? って、マジで思ったからな!」
「んで、三日目に言った台詞、覚えてるか?」
「もちろんだ。――クソ詰まらん、行くのは止めだ。仕事を手伝う」
そこで盛大に笑いが上がった。どうやらエルスは、こいつらに随分と好かれているらしい。
――じゃが、当時のあやつは、どう思っていたのだろうか。
ここで仕事をして、学園にも通わず、ただそれで良いと?
かつての、わしのように。
今を生きることしか見ずに、楽しみすらなく、ただ現実を受け入れるだけだった……?
「うむ、じゃが今のあやつは、見ての通りじゃろ?」
「楽しくやってんだろうよ。うちの仕事をたまには手伝うんだぜ」
「今回のことは?」
「ん? ああ――俺らは仕事柄、ここらにも知り合いは多い。だが、この生活区だけの話にしても、学生を除外したほぼ全員が、エルスとは顔見知りだ。学園に行くようになって、それなりに視野も広がったんだろう。あちこちに顔を見せては、今日みたいな仕事を引き受けてくる」
「――仕事?」
「そう、仕事だ。どうであれ、たとえばリンゴの木をどうにかしたら、エルは必ず報酬を要求する」
「金か?」
違うだろうと思って問いかければ、その場にいた全員が顔を見合わせ、言った。
「「「飯を食わせろ」」」
誰も間違えることはなく、言い切ればやはり、笑いが上がった。
わしも、小さく笑う。
「なるほど、それは高い報酬じゃな――」
「そう思えるんなら、お前も相当だ」
高くないにせよ、決して、安い報酬ではない。だって、仕事をして貰った前提ならば、その食事には決して、手抜きができないものだ。そこに気持ちが込められたのならば、ほかでは手に入らない、最高の料理になる。
まるで、空腹に耐えながらも、最後の食糧だと理解している干し肉の一欠けらを、涙を堪えて口にした時の――あの、忘れまいと言い聞かせながら食べた肉の味を、まだわしが覚えているように、想いとは料理の味に直結する。
「この話は、線香花火……あの寮の連中なら全員知ってるよ。後輩が二人だっけか? あの小娘たちも、エルに連れられてうちに来たからな」
「なんじゃ、恒例行事のようなものか」
「俺らも楽しく話してるからな」
確かに、休憩中ということもあって、いろんな話題に飛んでいる。
なるほどなあと頷いた私は、しかし、その言葉に対して顔を向けた。
「――そういや、野郎を抱いたの誰だっけ?」
「あれだ、酒場のミーナだろ? あの女、顔がいいからって猛アタック仕掛けて、とりあえず抱くだけだからって、最後は泣き落としだったとか、面倒そうに話してた」
「おいお主ら……?」
「なんだちっこいの、お前、エルを狙ってんのか?」
「いや狙うというほどではないが……まあ好いてはおる」
「あはは、気にするな。俺らだって、無理強いだけは絶対にしねえと決めてる。つまり、決めるのはいつだって、野郎だよ」
「うぬう……」
なんか釈然としない。経験があろうがなかろうが、気にはしないけれども。
「……まあよい。であれば、お主らはエルスが隠していることに関しては、ノータッチなのじゃな?」
「詮索屋は嫌われるのが通説だ――が、あいつの人生がどうであれ、魔術師としては異端だって想像くらいはつく。その上……」
「体術じゃろ」
「……ま、戦闘は見たこともねえし、想像であれこれ言うほどじゃねえよ」
「それもそうか」
「――よし! さあてお前ら、仕事を再開するぞ! おいロリ子、手を貸せ!」
「わしの呼び方はどうにかならんのか!?」
「ははは! 仕事で結果を見せたら考えてやる!」
「クソみてえな結果なら、うちにいる八歳の娘と背比べでもさせてやるよ」
絶対に嫌じゃ! わしに現実を直視させるでない!
「お主ら性格が悪すぎじゃ!」
「馬鹿言え、――口が悪いだけだ」
「ええいもう良いわ! 仕事を寄越せ!」
エルスもいないことだし、もういいから働かせてくれ。
後になって思う。何故、この時のわしは、学園へ行くという選択肢を忘れていたんだろうか、と。
※
何事においても、役所を通した方が良いというのは、教訓だ。
お役所仕事なんて言葉があるように、役所を頼るのは厳禁だ。一つの返事を貰うのに、数日どころか一ヶ月近くかかるような仕事を、ごくごく当たり前にやっているが、それでも話を通しておかないと、もっと面倒になる。
生活区の役所は、朝だというのに、そこそこ賑わっていたが、職員はほぼ馴染みの顔。俺は片手を上げて、空いている受付へと向かった。
「――え? あれ、エルス?」
なんかプリ子の幻聴が聞こえるが、無視。
「よう」
「あらエルス、いつもの?」
「
「ああ、寮の庭にある?」
そうだと頷けば、既に手元の書類にばあさんの名前を書き始めている。
「移植先をこれから探す。今日中に結果を見せる」
「はあい。がんばって」
「お前もな」
用件はそれだけだと、俺はすぐに背を向けて役所を出た。
本人に約束を取り付けたとはいえ、あくまでも口約束。最終確認はまだ必要であるし、本来の手順とは逆を踏むのが、準備というものだ。
つまり――木を掘り起こし、庭を整えておき、目的地に運んで植える。
これを作業手順とするのなら、俺がやるべきはまず、植える場所の確保。庭を整える人間の調達、そして木を掘り起こすための最終確認。
だとして――。
あのばあさんにとって、最善ではないにせよ、悪くない場所とは?
「……距離があるな」
一応確認しておくかと、まずは噴水広場へ――。
「ちょっ、ちょっと待ってエルス! ちょっと!」
「……はあ、今日の幻聴はうるせえな」
足を止めて振り向けば、相変わらず白色の服を着た
「うるせえぞプリ子」
「はあ、あんた足が速い……、ん、そっちこそ学園にも来ないで何をしてんの」
「お前はてめえの仕事をしてろ」
「……なによう、そんなに冷たくしないでもいいじゃない」
――この程度のことで、泣きそうな顔をするな馬鹿。
ったく、これだから女ってやつは面倒なんだ。
「……で、なんだ姫さん」
「だから、何をしてるのって」
「いちいち話すのが面倒だ。気になるならついて来い。ここらは歩きなれてねえだろ」
「そう、だけど……、……? え?」
「人の行動にとやかく言うな……お前は一から十まで説明されないとわからない間抜けか? 声をかけるのは正解だ。言葉を続けるのなら、――行動を一緒にしていいか問え」
「う、うん」
どこか気落ちしたように、とぼとぼとついてきたので、噴水公園まで来た俺は再び足を止めて、吐息。
「――大した用事じゃない」
「え?」
露店でジェラートを一つ買い、それをプリフェへ。俺は飲み物を一つ、空いたベンチへ腰を下ろす。
「座れよプリ子」
「ありがとう」
「知り合いのばあさんが、リンゴの木を切るって話が前提だ。それに俺は待ったをかけて、移植先を探してる」
「移植?」
「今まで手入れされた痕跡のある庭木、しかもリンゴだ。考えろ」
「考えるって……何を?」
――なにを考えるかわからない。
そう口にする人間は、それなりにいる。その理由は、状況に対して何の疑問も抱かないからだ。
「いいかプリフェ――学園の〝講義〟で得られないものなんてのは、そこらにごろごろ転がってる。どこでもいい、まずは庭を想像しろ。それなりに手入れがされていたとして、そこにあるものはなんだ?」
「……、芝と木……は、常緑樹。一面が緑――かな」
「そうだ、庭なんてのはまず見栄え。それから気分転換の休憩所。果樹園じゃないんだ、リンゴなんて植えない――普通なら。わかるか」
「うん」
「だが、現実にその庭にはリンゴが植わっていた。ならば、どうしてだ?」
「どうしてって……見栄えや休憩所とは違う理由があるから?」
「そうだ。しかも手入れはしていた」
「大切にしてたってことか」
「大切にしていた〝理由〟は、推測の領域だが、現実としてそこまで情報があったとして――その木を、手入れができないから切ると言い出した、ばあさんの気持ちは、ハッピーか?」
「……ううん、複雑だとは思うけど、きっと喜んでない」
「お前はそんなばあさんに、伐採業者を手配して、これで庭が綺麗に整いますよと、笑顔で言えるか?」
「い、いえない」
「だから、決断はいいから一日寄越せと言って、俺はこうして移植先を探すわけだ。役所には、俺が動くことを連絡しに行っただけ。――いつものことだ」
「――いつも?」
「そう、いつも。お前ら学生は知らないだろうし、聞けば答えがあるのに問わない。それを都合よく使ってるのが俺。移動するぞプリ子」
「あ、うん」
ゴミ箱へ容器を入れて、比較的ゆっくりと移動を開始するが、上の空というよりもプリフェはなにかを考えて。
「……駄目だ、手段が浮かばない」
「それほど難しい話じゃねえよ」
「そのおばあさんはご高齢なの?」
「ん……まあな」
向かった先は生活区にある墓地だ。それなりの面積を持ち、手入れもされ、入り口は少し坂になってはいるが緩やかで、それを登れば墓石が並ぶ。
ただ、ここは共用墓地だ。敷地も区切られているので、ある程度は仕方がない。学園裏にある方はもっと広いが――あちらはあまり、一般人が使う場所じゃない。
「墓地かあ。ここ、結構静かで――」
「――っの馬鹿やろう! てめえ何を見ていやがった!? もういい降りろ! ぐるっと一周回って、ほかの木を見てもう一度しっかり確認しやがれ!」
「……なんだって、プリ子」
「ああ、うん、えっと……静かだから、たまに私も来るって、ね? 仕事込みだったけどね?」
「たまにはそういう日もある。お前が腹を痛くする日みてえにな」
「うっさいわ!」
脚立を降りた若い男が、神妙な顔で頷いてぐるりと墓地の内部を歩き出す。見て覚えろが基本だが――。
「よう、おやっさん」
「ん? おお、なんだエル、デートか?」
「そうなんだ、墓石に興奮するような女と付き合うと苦労する」
「しないわよ!」
「ははは、若いな――って、なんだ姫さんか」
「気にするなおやっさん、俺の用事だ。……あの若いの、そろそろ半年くらいだろ。どうだ?」
「ん、ああ」
頭に乗せた帽子を取ると、やや髪も薄くなっている男は、のこぎりやはさみなどの工具を腰に戻して、ちらりと歩き回る若造を見てから、小さく笑った。
「根性はあるし、物覚えも悪くねえ。意欲的にはやる」
「有望な相手ほど厳しく当たるのは、おやっさんの悪い癖だ。相手がそれに気づく前に辞めちまう」
「なあに、まだ二十年はやる。その間に一人でも、辞めないやつがいりゃいい」
「その頃はあんたも八十だけどな」
「充分だ。俺の師匠は八十九まで現役だった」
「まあ、真似事で終わらせて欲しくねえって気持ちくらいは、俺もわかるけどな」
「ははは。――で、なにかあったかエル」
「ここの入り口付近、リンゴの木を一本、移植したい。場所の確保はできるか?」
「――果樹か」
この男は、いわゆる庭師として職に就いており、ここの墓地を含めていくつかの場所の管理をしている。つまり、専門家だ。
「リンゴなら知識もあるが、農作業の専門家には負けるな」
「何も収穫して売り出せと、そう言ってるわけじゃないさ」
「なら、どういうわけだ」
「
「ああ……そうか、もう手入れが難しくなってくる年齢だな。毎朝、早い時間に亡くなった夫のお参りに来てるし、その上で入り口付近か」
「そうだ」
「……場所は空いてる」
「俺からの要求を言っても?」
「なんだ」
「そいつの〝管理〟を、あの若造に任せろ」
「無理だ。――任せられねえよ、馬鹿。せいぜい……やらせるくらいが限度だ。枯らすわけにもいかん」
「根性があるんだろ?」
怒鳴るだけ可愛がっているのなら、成長も目にしているはずだ。あとは、どのくらい評価しているのかが問題になる。
いや、たぶん問題だったのは、仕事としてこいつが、リンゴの木を管理できないって部分だろう。何も、このおやっさんは、墓地だけを管理しているわけではないのだ。
「はあ……やらせるだけだぞ、エル」
「すまん」
「いい、いい。手配は?」
「あんたの了承が得られたなら、墓地の管理人に話を通してから、あんたの〝会社〟に顔を出して、抜いたあとの整地を頼むつもりだ。移植自体は俺がやるよ」
「ふん。……連絡は入れておいてやるから、昼休みに顔を出して、暇そうなのを引っ張って行け。お前のやることだ、どうせ〝仕事〟にはなりゃしねえ」
「今日中に終わらせるから、明日の早朝四時半、あの若造を呼んどけ。事情は俺から話しておく――それと? 素直じゃねえおやっさんのこととかな?」
「ったくお前は……あんま、調子に乗らせるなよ」
「そうなったら、頭を殴るのがおやっさんの仕事だ。悪いが頼んだ、報酬は俺に請求してくれ」
「おう、そいつも毎度のことだ。あのばあさんの元気がなくなるようなら、請求してやるよ」
「ふん」
そうならないために手配してるのを見越して、そう言うのだから、こいつもお人よしだ。
「行くぞ、姫さん」
「――あ、うん。じゃあ失礼します」
「おう。……姫さんも、物好きだなあ。学園の時間だろうに」
「あはは、今日は諦めました」
そう決めたのは、俺じゃなくてお前だろうが。
墓地の隅にある小さな家をノックして、墓守と会話をして了承を得た。いずれにせよ、おやっさんが管理していて、その本人が承諾したのならば、口を挟むべきではないとのこと。一応、ばあさんのことを話せば。
「いいですね、それは良い。是非、そうしてあげて下さいエルス」
なんて、
そして再び生活区から噴水公園へ出た俺は、時計を一瞥して再び休憩に入った。
「――ねえ、エルス」
「ん?」
「これは仕事じゃない。でも、あの職人さんも手間が増えるのに、承諾したよね。エルスに借りがあるようにも見えなかったし……」
「あそこの〝管理〟は仕事だろう。そして、仕事には責任が付きまとう。だがなプリフェ、仕事だけじゃあ、上手く行かないんだよ」
「何が上手く行かないの?」
「仕事が、だ。ああいう技術職の人間ってのは、技術に伴う知識が必要だ。おやっさんは果樹の知識も持ってて、経験もある。だが、いざ仕事って場面でそれに直面した時、できませんと言うのが職人か?」
「あ……仕事の責任」
「そうだ、信頼そのものを失いかねない。だから仕事以外で、果樹に触れて、最低限の知識とやり方くらいは覚える。そういう機会ってのは、必要なのさ。全部ひっくるめて仕事なんだろうが――報酬があるものだけが、仕事じゃない。それをおやっさんは理解してるし、俺も知ってる」
「だから〝協力〟を?」
「――ばあさんのためにって、言い訳を使ってな」
そう、言い訳だ。あるいは単なる後押し。俺が勝手に曲解して、好きにする理由。
「……ん?」
「どうかしたか」
「あ、いや今、誰かが〝異族狩り〟がどうのって」
「へえ、歴史の勉強でもしてたのか」
「どうだろ……っていうか、異族狩りのこと知ってるの?」
「お前が知ってるくらいにはな。ニュースペイパーには、たまに出てくる」
「ふうん。私は会長になった時、興味本位で調べたけど」
二千年ほど前、戦争末期――人間族が魔術を獲得して均衡が崩れた時、異族狩りと呼ばれる組織のようなものが存在していた。
「簡単に言えば、謎の組織ってやつだよね。実在はしてたみたいだけど」
「存在の確証は得られなかったのか?」
「暗殺をする組織でしょ? そもそも、異族狩りの仕業だって記事を見ても、そこから証拠が一切出てこない……なんか、都合の良い言い訳をしてる感じがして、確証はまったく」
「証拠が出ないことが証明になってるじゃねえか」
「え?」
「実在すると仮定して考察した場合、証拠が出ない殺しは全部、連中の仕事だ。殺害対象の共通点が見えないのは、そもそも共通しないから。かといって、依頼を受けてやるタイプのものじゃない――ありゃ、
「どう違うの?」
「意志があるかどうかと、繋がりがあるかどうか。隣にいる知り合いくらいはわかっても、その次になると誰かもわからず、いるかもわからない。ともすれば、俺らだけしか残っていないんじゃと思うくらい、繋がりが希薄だ。けれど指令一つで仕事を果たす。ならば頭がいて当然? その頭がどこにいるのかもわからない――が、拒否すれば殺されるのは自分だとわかっている。そして、痕跡一つ残しても、屍体になるのは自分だ」
「えっと……エルス、それ仮定の話だよね?」
「そう言った。だからこそ〝行方不明〟ってのは、どうなんだろうな? 証拠なし、痕跡なしの屍体が上がれば連中がやった――だがな」
「外壁には落下防止用の術式が展開されてるし、下に落とすなんてのは、ここ数百年できないわけだし」
できない――ね。
難しいと言うべきだろうな、それは。
「かつてはともかく、今なら異族どころか、全種族を狩りそうなもんだ――と、物騒な話はもういいだろ。もう昼が近くなってきた、午後からは学園に戻れよ」
「え? 今日はもう休むつもりなんだけど」
やっぱ面倒だなこの女。あとはもう作業だけだろうに……。
「あ」
「――なに?」
「いや」
忘れてた。ヴェネを放置したままだ。
「ちょっと寄り道だ」
「あ、うん」
休憩を軽く入れてから、生活区に戻り、作業現場へと向かえば、まだ作業中だった。時計を見れば十一時過ぎ――だいぶ時間を潰して来たが、まだこんなものか。
「なにこれ」
「見ての通り、建築中だ」
「そりゃ見てわかるけど……――あれ!? なんでヴェネッサがいるの?」
「……見ての通りだ」
「理由までわかんないわよ!?」
「プリ子、お前うるせえ。――おおい棟梁!」
「ん――おう! どうしたエル!」
「ロリ子どうよ!」
「駄目だあのちびっこ、役に立ちやしねえ! 昼休みにゼズが八歳になる娘を連れて来るから、背比べでもさせようってなあ!」
「そりゃあいい! ついでにこのプリ子も使ってやってくれ! 午後から学園をキャンセルしたんだと!」
「おう!」
「おう、じゃなくてちょっと待って私の意志どこ!?」
「おいプリ子! そこにある工具取ってこい! でけえ木槌だ、早くしろ!」
「え、え」
「ドンくさい亀子と呼ばれたくねえなら、とっととしろクソ間抜け! こっちが急いでるのがわからねえのか!?」
「は、はい!」
よしよし、これでいい。プリフェが状況に流されやすい馬鹿で助かった。
ようやく一人、俺はすぐに庭師の会社がある商業区へと移動を開始。入り口の戸を開いて正面から入れば、目の前が受付だ。
――が、誰もいなかった。休憩中だろうか。
「おい! 誰かいないか!」
「はいはい! あいよ! 悪い、ちょっと早い休憩中――お? なんだエルスじゃねえか。よっす」
「おう。なんだお前、まだ続けてたんか」
「俺をどっかの根性なしと一緒にすんなよ……?」
「おやっさんの下で働くのを嫌がったくせに?」
「それを言われると痛いんだけどなあ。んで、どしたよ」
「聞いてないか? 瑞枝ばあさんとこのリンゴを移植するから、手を貸せって」
「え、マジで? 聞いちゃいねえが、それなら俺行くよ。ばあさんにゃ世話んなってるし」
「なってた、だ。不良学生の頃、お前あの寮で暮らしてただろ。たまには顔を見せないから、ばあさんもしみったれたツラになっちまう」
「悪かったよ……」
「俺に謝ってどうする」
「そりゃそうか。ちょい待ってくれ――先輩! ちょっと先輩! 俺、午後から半休取っていいっすか? せんぱーい!」
「……うるっせえなあ、おい。ん? おうエル、なんだ、例のあれか。おやっさんから連絡が来てる」
「えー、俺聞いてないっすよ」
「お前に言ってどうする。エル、手配はどこまでだ?」
「ほとんど済んでる。頼みたいのは整地だけだ、移植自体は俺がやるよ」
「お前なあ……そう言って、俺らがお前にだけ任せると思ってんのか?」
「俺にも手伝わせろって言ってんだよ。専門じゃないにせよ、俺が受けた仕事だ」
「ふん。おい、午後から二人で行くぞ。道具の使用許可はもう取ってある」
「了解っす。そうだ先輩だって、
「……まあな。移植先はどこだエル」
「ばあさんには言うなよ?」
「わかってる」
場所を伝えれば、二人は苦笑していた。たぶん、それは納得なんだろう。
俺はその時点で役所に顔を出して書類を完成させておき、午後から作業に入った。
――そして、翌日の早朝四時。
最初に合流したのは、おやっさんの下で働いている若造のケイクだった。
「おはようさん」
「おはようございます、エルスさん。先日は挨拶もできませんでした」
「いいさ、気にするな。俺のことはおやっさんから?」
「はは、いろんな人から聞いてます」
小さく笑って、けれどケイクは植えたばかりのリンゴの木を前にして、少し顔を上げるよう全体を見た。丈はせいぜい、2メートルほど。小さく、小さく作っていたのはきっと、庭の景観を損ねるからだ。
「……僕にできるんでしょうか」
「不安か?」
「ええ。いつも怒鳴られていて、本当に僕は要領が悪い。僕にとってはただのリンゴ――だけれど、きっと、持っていた人にとっては大切なものだ。けど僕は未熟で……不安ばかりです」
「わかっているなら、改善すりゃいい」
「それは、そうなんですが」
「未熟の方じゃない、要領が悪い方だ。怒鳴られるのは当たり前、お前はおやっさんより腕が悪い――が、それだけなんだよ、ケイク。見込みがないなら、怒鳴られない。失敗する前に取り上げられて、おやっさんが全部やっちまう。あの野郎は性格がアレだからわかりにくいが――見込みが良いヤツほど、強く当たる。全部が期待の裏返しなんだよ」
「そう……でしょうか」
「だろうよ。お前昨日、本屋に顔を出して果樹関係の棚、ざっと見てたろ」
「――居合わせていたんですか?」
「いや、今適当に言った。当たってたんなら、そういうことだ。何も今すぐ、おやっさんになれと言ってるわけじゃねえ、前向きに歩けるならそれでいい」
「はあ……その、ありがとうございます」
「お前さ、〝
「あ、はい、そうです。相手の術式構成を読んだり、特性そのものを感じたり……戦闘では役に立った試しがありません。何しろ、読めた時には喰らってますから。学生時代は、あくまでも補助って感じの立ち回りでした」
「だが今は戦闘中じゃない」
「……?」
「このリンゴの木、昨日移植したばかりで、まだこの土地に馴染んだわけじゃない」
言いながら、俺は軽く手を触れて――〝感応〟の術式を使う。
三秒、すぐに手を離した。
「移植時に切った根の〝先〟で、血流が止まってしまっているような感じだ。循環している水分が、根の先に出していいのか、駄目なのか、少し困ってる。吸収が弱くなってるな」
「なんでそんなことが……」
「感じて応じるのは、お前の得意分野だろう?」
「――」
「俗な言い方だが、植物の声を聞けよケイク。応じてくれ、じゃない。お前が相手に応じてみろ」
まだ時間はあると腕を組めば、ケイクは目を閉じて木に触れた。
「――……少し、わかります。迷い……どこに水があるのか、そんな迷いを感じます」
「だから、最初のうちは水を頻繁にやった方がいいわけだ。ケイク、自分にできることは全部やれ。卑怯もクソもねえんだよ――お前が、おやっさんになる必要はない。だが、教わったものは全部受け取れ」
「……」
「どうした?」
「いや、エルスさんの話をする人の気持ちが、少しわかりました。いろいろありがとうございます」
「馬鹿言え、この木を立派にしてからにしろ」
「もちろんです」
「それでいい――来たか。毎朝、ご苦労なことだよ」
ゆっくりと、手車を押してやってくるばあさんに、俺は軽く手を上げた。
「――おはよう、ばあさん」
「あれまあ、驚いた。こんなところでどうしたのエルス、ああでも、昨日はありがとうねえ」
「その話だばあさん。こいつを見ろ」
「……まあ、まあまあ、あんたここに植えたのかい?」
「ばあさんが毎日、ちゃんと見られるようにな。で、この若造が手入れをする。……なあ、ばあさん。手入れが難しいから切るなんて、寂しいことを言うな。できなくなって、今まで育てた経験は、あんたにある。何も知らないこいつに、あるいは誰かに、それを教えることだってできるんだよ」
「うん、そうだねえ、そうだねエルス、ありがとうね。まだまだ、老け込むわけにはいかないね、私も」
「いや、あんたもう老けてるからな……?」
「大丈夫、ちゃんと躰には気を付けるよ。ありがとうね」
「ふん。じゃあ、あとは任せたぞ、ケイク。少し話をしておけ。俺は――ふわっ、んぐ、帰って寝る」
これ以上、感謝されても、面倒だ。
「ああそうだ、ばあさん。今度、報酬として飯を食わせろ」
「あはは、相変わらずだねえ、あんたは。ちゃあんと、作ってあげるから、呼んだら来るんだよ」
「おう」
さてと、俺は帰路につく。こんなのは毎度のことだが、上手くできたようで何より。
とりあえず、寝よう。
筋肉痛でプリ子もロリ子もたぶん、今日は休みだろうし、静かに眠れそうだ。
※
こちらを無視するように出て行ったエルスに、会長が一歩を踏み出してからとどまったのを見た俺は、小さく口の端を歪ませた。
まったく、この人は相変わらず、わかりやすい。感情に素直で、それを抑えることすら顔に出る。
「――会長」
「え、あ、ごめん、なに?」
「残ってるのは雑務です、あとは俺がやっておきますよ」
「……いいの?」
「いいですよ」
「ごめん、ありがとクロウ。何かあったら連絡して」
「ええ」
そう言われても、できれば連絡せずにおきたい。待ち時間を終えて窓口で作業を終えた俺は、学園への帰路を――。
「……」
歩きながら、携帯端末を取り出して、タッチパネルに触れて日付を見た。
……そろそろ、か。
指令が下ってからもう一ヶ月。タイミングは俺の自由だが、それはきちんと見極めろ、という提示でしかない。
逃げたとしても俺に退路はなく、やるしかない現状に不満もない。
学生会の引継ぎは本来、寮対抗戦を終えてから行う。こちらは運営側になるため参加資格はないが、三年生のみ、学生会の人員であっても参加が可能であり――今までの流れとしては、参加した会長が結果がどうであれ、そこで引退表明をしつつ、新しい会長を紹介する。
――そこまで待ちたい、そう思っていた。
迷惑をかけたくないのもあったし、何より、痕跡を残したくはなかったから。
だが、そうも言っていれらない。
俺は目の前の選択肢、その内の一つを、見て見ぬ振りなど、できないのだ。
「……」
そうだ、俺には役目があり、立場があって、望んでいる。
――やろう。
そして求めよう、決着を。
石橋エルス――唯一の後継者と呼ばれた、
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