私達は決して忘れてはならない。全ての始まりは一人の人間からであるということを。

 携帯が鳴った。勝手に画面に電源が付き通知が表示された。音で脳が動き始める。目を開けようとするがまだ、開かない。もう少し、寝ていたい。

 薄黒い日差しから逃げるように掛け布団を被る。今は何時だっけ。と、気付いた。

「え……通知?」

 言葉になっただろうか。8時にはアラームを設定していた筈だ。鳴ったか。鳴ってない。掛けた布団を思い切り払い除けベッド横の棚に置いたシンプルなデジタル時計を見る。示す時刻は8時5分。良かった。記憶は無いがアラームは止めていた様だ。安堵し、頭を枕に戻してから、上半身を改めて起こす。

 広い部屋だ。自分、竹内修哉タケウチシュウヤが数年前に上京し、一丁前にアパートを借り、一人暮らし。仕事もある。自分の様なコミュ障の社会不適合者がここまで来れた事の心の余裕から広く感じているのか。単に寝起きで脳と視界がボケてるのか。

 とにかく顔を洗って朝御飯を食べなくてはいけない。今日も年配女性の罵詈雑言と戦うのだろうか。寝起きの頭中に熟年夫婦の罵声が飛び交う。精神に優しくない。

「あー……そういやさっきの……」

 思い出した様にスマートフォンの電源を入れる。

 画面を見る。段々と脳が冴えてきた。重力に負けそうになる体をむりくり上げ、ベッドから降りる。

 今日の朝御飯も、胃に優しい物にしよう。

─────────────────────────────────

 ここは新宿の駅から徒歩で10分。ビッグビル内にあるオフィスだ。

……と言えたら一体どれ程同年代からの尊敬や親戚の誇りにされるだろうか。自分の同期にそんな奴が居たら嫌でも出世コースで幸せな家庭を連想する。仕事は大変だけれど先輩も優しいし、綺麗な奥さんと子供も居るのでよろしくやってます。と歯を見せ笑うのだろうか。それが素晴らしい事なのはわかる。

 死んでくれ。実際は近いが遠い。

都内には違いないが外れの方だ。実質、山梨だ。ビッグオフィスには程遠い小さい単なる事務所。従業員が異常に少ないのは入っても直ぐに辞めてしまうからなのか、人が居なくても問題無いのか。しかし、やってる事だけは人に言っても恥ずかしくはない。

「僕は竹内。探偵さ。」

 小さなビルの二階にある事務所への階段を登りながら呟く。

 26歳、まだまだ青い人間だと自覚はしている。誰かに聞かれなければなんとも思わない。労働の鞭の中でも楽しく生きたい。

 事務所の玄関に辿り着く。ドアには端正な文字で『小倉探偵事務所』とプレートが貼られている。今更だけれども、とても良いフォントだ。何の楷書のフォントだろう。二度ノックして、開ける。

「おはようございます。」

 開ける前に少しでも身嗜みを整えてからの方が良かったかとも思ったが、所長に限って気にする事は無いだろう。自覚している事を分かってくれている為にあまりとやかくは言ってこない。コミュニケーションの取れない人間にとっては嬉しい限りだ。煩く言わないで成長しようと思わせてくれる優しさが嬉しい。

 ドアを閉めて中に入る。怖い程に静まり返っている。返事のひとつも無い。

「所長?」

言いながら自分のデスクへ歩く。

居た。が、わかりやすく寝ている。時刻は九時少し過ぎた頃。まだ眠いのもわかる。

ベージュのトレンチコートを背中に掛け、中にスーツを着込んでいる。徹夜したのかはわからないが、髪は不思議と整ったままだ。

デスクへ座ると、丁度起きたように唸る声を上げる。

「……あぁ、おはよう。すまないね。昨日の浮気調査の件を纏めてて、寝るのが遅くなってしまったんだ。」

 1週間程の前に明らかに60代だろうと思われた45の婦人に夫の浮気調査の依頼を頼まれた。結果はクロでモメに揉めたのだが、決着が着いたらしい。僕はゆっくり立ちながら言った。

「お疲れ様です。エスプレッソ、お煎れしましょうか?」

「あぁ、頼もうかな。朝はどんな形にしろカフェインを摂ることが探偵にとって必要な項目になっているからね。」

 そんな項目があるのはふた昔くらい前の推理小説だけだと思う。

 それとは別だが、コーヒーという物は奥が深い。豆は勿論マシンなんかにも差がある。うちの事務所で使っているのは5000円いかない位の物だが上等な味が出る。僕に違いがわからないだけか。

 マシンを動かしつつ朝のメールについて聞く。

「朝のメールの件、本当ですか?」

 俯き、目頭を揉みながら言った。

「あぁ、にわかには信じ難いけども本当らしい。八雲君に限ってって感じだけどね。」

年齢も年齢だ。目も悪くなってきたのかもしれない。少しの煙が立ち上る後、エスプレッソを所長こだわりのカップに抽出しながら返す。

「凄い話ですね。あのガタイで事故って骨折なんて……」

 所長のデスクに受け皿と一緒に置く。匂いが寝起きの頭に染み渡る様だ。コーヒーは僕も嫌いじゃない。

「彼も人の子って事なんだろうねぇ。後でお見舞いに行こうか。」

 コートを纏い、ネクタイをキッチリと整えてからカップに指を添える。鼻腔いっぱいにエスプレッソの香りを引きながら大きく溜息を零す。

小倉オグラ クロ

年齢52歳・身長、自称170cm前半。

エスプレッソコーヒーを好み、心理学を愛す。

趣味は思考。

元・警視庁捜査二課所属。

お気に入りのベージュのトレンチコートを着ている様は、まるで現代の銭形警部かシティー・ハンターの冴羽獠だが、そこまでのインパクトは出ていない。

 そしてここ、小倉探偵事務所の所長を務めている。大人の魅力もそこそこにあるが本質的には変わり者だ。

 この人は臨床心理士、なんて取ったらその分野でメシを食うのが基本な資格を取得しながらも探偵をやっている。警察の捜査二課なら選挙の裏金や詐欺なんかの尋問にそのスキルを活かせただろうに、変わっている。そして、僕の遠い親戚にあたっている。就職時にコネがあったのは素晴らしくツイていた。

「うぅん……。やはり、苦いね。」

 なんとも当たり前の事を言っている。

「まぁ、近藤さんの命に別状は無くて良かったですね。普段の行いも全く悪い方じゃないんですけどね……」

近藤コンドウ 八雲ヤグモ

年齢38歳の妻子持ち。

身長は大体所長と同じ程。

 苗字と苗字の組み合わせの様に思われるかもしれないが、ヤグモの方はれっきとした名前である。

 柔道の有段者(二段)で腕っぷしと体力は凄いため、荒事の際にはとても頼りになる先輩だ。そのガタイの良さと豪快っぷりからは想像出来ないが、料理が上手い。炊事洗濯は御手の物だ。そしてとても愛妻家で、9歳になる娘がいる。写真を見せてもらったことがあるが、とても可愛らしかった。

趣味は釣りで、頼りになる小倉探偵事務所の先輩肌だ。

あの人が交通事故とは。信じ難い。

奥さんも娘さんも心配してるだろうな。

「ま、死ななかっただけ神に感謝だねぇ。八雲君もきっとそう言ってるよ。」

 笑いながらそう言っている近藤さんの姿がありありと浮かぶ。良い人なんだ。あの人も。

「そうですねぇ……ところで、今日の依頼はありますか?」

 僕はこれでも社会人だ。忌々しいけれども納税と勤労の義務がある。

しかしエスプレッソを一気に啜り、言う。

「それがね。夜の内に浮気調査の件は終わってしまってね。今月は残り、なーんにもないわけなんだよ。どうしようか。」

 軽く明るく言った。

 こんな状況で運営を継続できるのだろうか。都内の中心部の方の探偵社は、ビル内のオフィスに従業員が軽く100人は超えるとされる探偵社が幾つもある。

 ちゃんと自分達の毎月の給料は支払われているのだが、こうなると所長の生活が気になってくる。

 浮気調査1回でもそこそこの費用がかかるとはいえ、事務所を構えて従業員も雇っている。大丈夫だろうか。

「……掃除でも、するかい?」

エスプレッソを空にして、言った。

外は秋模様だ。枯葉が舞っている。

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