第四話 ふきよせ日和(沖田総司)

 おきそうは猫のような男だ、とはなは思う。


 一応、病人である。胸を病んでいるらしい。が、今のところ、おとなしく医者にかかったり薬を飲んだりする様子はない。


 小間物問屋の御嬢さんである花乃がまるで女中のように新撰組の屯所、八木邸で働くことになったのは、先の大火、どんどん焼けで店も家も失ったからである。親も奉公人も命だけは助かったが、わずかな持ち回り品のほかは何一つ残らなかった。


 どんどん焼けの原因は新撰組と会津藩、すなわち佐幕派の軍勢だ。


 七月十九日、敵対する倒幕派を締め出すため、佐幕派は御所への参内の道を封鎖した。このため京都の市中で戦闘が勃発。数で劣る倒幕派は敗走し、佐幕派は残党狩りと称して市中の各所に火を放った。


 迷惑な人たちやわ。とっとと出ていかはったらええのに。


 焼け出された花乃は、じっとしていられなかった。壬生狼に歯向こうたら殺されてしまう、と制止するまわりの声を振り切って、花乃は新撰組の屯所に押し掛け、怒りをぶちまけた。


 十五の小娘に過ぎない花乃など、荒くれ者の浪士たちは如何いかようにも扱えたはずだが、無体なことにはならなかった。局長のこんどういさみ、副長のひじかたとしぞうらに代わる代わるなだめられ、気が付いたら、花乃が八木邸で働く話がまとまっていた。


 花乃が言い付かったのは食事の世話である。動き回るのが仕事の男ばかりが十数人、八木邸および筋向かいの前川邸に寄宿している。花乃は男たちのために米を炊き、握り飯を作り、魚の干物を焼いたり芋の煮っ転がしをこしらえたりする。


 もう一つ、土方が白皙の美貌を花乃に近付け、物憂げに眉を曇らせて告げた用事があった。


「総司の具合がいけねえときは面倒を見てやってくれ。俺も何かと気忙しくて、あいつにばかり目を掛けてもいられなくてな。よろしく頼む」

「へえ、わかりました」


 ぽうっとなってしまいながら、花乃は応えた。


 そんな会話のあった日は、沖田はたまたま病人らしくおとなしげだった。枕元に置かれた大小の刀が、痩せた沖田には不釣り合いに重々しく見えた。


 花乃は土方の言い付け通り沖田を観察していた。そして思った。猫に似ている、と。


 沖田は気まぐれである。わがままでもある。近藤や土方など懐いた相手には喉を鳴らすが、花乃のような新顔には、にこにこしてみせるくせにどこか冷たい。近寄ろうと試みると、澄まし顔で、するりと身をかわす。


 それに、沖田はよく寝る。どこででも寝る。残暑がしつこかった頃には、風通しのよい畳の上や木陰に転がっていた。蝉の声が聞こえなくなってすっかり秋めいてからは、日の当たる縁側や草の上でうとうとしている。


 沖田ほどに八木邸に居着いている者はほかにいない。近藤や土方はぼうさまや会津公に御仕えするため二条城やこんかいこうみょうに出向いていることが多いし、他の者は市中の見回りや隊士らの教練、あるいは花街遊びに忙しげである。


 八木邸や前川邸に出入りするうち、花乃は暇を見付けて掃除をするようになった。男所帯はどうにも小汚なく、我慢がならなかったのだ。


「そんなことしなくていいのに」


 沖田は伸びをしながら言った。朝から壬生寺へ剣術の稽古に出掛けたはずが、いつの間にか帰ってきて、離れの縁側でごろごろしている。


 花乃は雑巾を手に、眉を逆立てて沖田を睨んだ。


「邪魔どす。寝るなら御部屋の中で御布団を敷かはったらええのに」

日向ひなたに寝転ぶのが気持ちいいんだよ」

「せやったら、別の日向に行かはってください。うちが御掃除を始めた途端、わざわざここで寝転がらんといて」

「花乃さんがいるからこっちに来たわけじゃないよ。猫がね、ここがいいって言うから」


 仰向けになった沖田は、己の腹の上で丸くなった黒猫を撫でた。黒猫は金色の目で花乃をちらりと見やると、またその目を閉じた。


 困った猫が二匹いてはるわ。花乃は溜息をつき、繰り返した。


「御掃除の邪魔どす。すぐに済ませますさかい、半時ほど別の場所に行っとってください」

「花乃さんは働き者だな。美味い握り飯をこしらえてくれるだけで、皆は満足するのに」


「うちが満足できひんのや。新撰組の屯所は埃だらけで耐えられへん。沖田様は、こないな場所で、よう寝転んだりできるもんやわ」

「怒らないでおくれよ。可愛らしい顔が台無しだ」


「調子のええこと言うてごまかさんといてください。こないに積もった埃を吸うたら、胸の病に障りますえ」

「そんなに埃だらけかなあ? このくらい、汚いうちにも入らないと思うけど」


「どこからどう見ても汚いわ。前川邸の斎藤様たちの御部屋はもっと綺麗どすえ」

「斎藤さんのほうが変わってるんだよ。妙にこだわるからね。ふんどしは必ず真っ白で、毎日洗って皺が寄らないように叩いて天日に干してる。前川邸の庭の物干し竿に洗いざらしの褌が翻ってるの、見たことあるだろう?」


「あんなん見たいもんと違います! けったいな話を持ち出さんといてください!」

「あはは、真っ赤だ。花乃さんって初心うぶだなあ」

「ええ加減にしはって! もう! あっちに行きよし!」


 沖田はけらけらと笑い、たまたま近くまで跳ねてきた飛蝗ばったを素早く捕まえると、黒猫の眼前でちらつかせてから縁側にぽいと放った。視線を奪われた黒猫は、跳んで逃げる飛蝗をすかさず追い掛ける。沖田もまた黒猫と共に庭へ飛び出していった。


「ほんまに猫や」


 あれで沖田は花乃よりも六つ年上の二十一歳だ。一体どういう育ち方をすれば、あんな大人げのない男が出来上がるのか。同じ年齢の同じ江戸育ちでも、斎藤一や藤堂平助のほうがずっと頼もしい。


 気を取り直して、花乃は手桶の雑巾を絞り、離れの掃除に取り掛かった。


 御嬢さん育ちとはいえ、店の掃除はいつでも気掛けるよう親に仕込まれた。おかげでちょっとした埃が目に付くし、掛軸が斜めになっていると落ち着かないし、破れた障子など以てのほかである。


 板の目に沿って雑巾をかける。たちまち汚れた雑巾を手桶の水で洗い、硬く絞り、また床を拭く。


 新撰組が八木邸に寄宿するようになって一年半になる。隊士の数が増えてからは近隣の郷士の屋敷にも分宿している。寄宿先の待遇や家主との仲はそれぞれ異なるようだが、総じて評判がよいとは言えない。


 花乃は、己にもまた悪評があることを知っている。に媚びを売る娘、と。親も花乃が壬生に出入りすることをよしとしない。


 今更辞められへんわ、と花乃は思う。媚びなんか売ってへんし。


 無関心ではいられないだけだ。例えて言えば、埃を被ったたまかんざしや曇りを帯びた銀のくしをそのまま店に並べられないのと同じで、体が満足でなければ市中警護など務まらないだろうにどうにも無頓着な暮らしぶりの男たちを、花乃は放っておけない。


 花乃は縁側の掃除を終えると、八木邸本宅の二階に上がった。


 八木邸の家人はもともと二階を物置程度にしか使っておらず、新撰組の屯所にと提供したが、小さな格子窓があるだけの部屋を男たちは嫌った。敵襲があった場合、そんな小さな窓からは脱出できない。


 家人からも新撰組からも放置された二階は、花乃が初めて見たときは随分と埃だらけだった。これは許せないと思い、以来、暇な折に少しずつ掃除をしている。


 二階には先客がいた。格子窓から差し込む日の光の下で沖田が眠っている。


 叩き起こそうとしたが、何となくはばかられた。あたりはしんとしている。沖田の寝息が聞こえてきそうなほどに。


 花乃は沖田の寝顔を眺めた。薄く開いたままの唇の形が柔らかなのに、起きて動いているときよりも男っぽく見える。沖田は笑顔があどけないのだ。


 ほんまに人斬りなんやろか。


 少しも怖くない。決して嫌いではない。からかいが過ぎるときもあるが、子供じみていて、世話を焼かずにはいられない。


 足音を忍ばせて近付いてみる。傍らに膝を突き、沖田の睫毛が意外に長いのを目撃する。花乃がそっと動くと、沖田の顔に落ちる日の光が花乃の髪でかげった。


 その途端、ぐるりと景色が一転した。

 息が詰まった。背中を強く打ったためと、喉を強く掴まれたためだ。


 見開かれた沖田の両眼が、日の光を背にした薄暗がりの中で輝いている。表情はなかった。目を覚ましてひょいと体を起こすのと同じくらいの気軽さで、沖田は花乃の喉首を絞め、床に押さえ込んでいる。


 何が何だかわからなかった。

 ああ、と沖田が嘆息するのが聞こえた。


 掌が離れていく。息苦しさと痛みは和らいだが、頭の中は霞みがかって、景色も音も遠い。


「俺の昼寝の邪魔をするのは構わないけど、気配を殺して近寄るような趣味の悪い真似をしないでおくれよ」


 ぐい、と肩を抱いて助け起こされたが、花乃はとっに沖田の手を振り払った。その拍子に咳が出て、止まらなくなる。


 沖田が立ち上がる気配がある。


「水を持ってくる」


 捨て置くように呟いて、沖田は立ち去った。ようやく咳が収まった頃、花乃に水を持ってきたのは、沖田ではなく八木家の幼い長男坊だった。



***



 それから数日の間、花乃は沖田を見掛けなかった。八木邸のどこにもいないし、前川邸にも壬生寺にも光縁寺にもいない。近所の子供らと遊んでいるのかと思いきや、子供らのほうから沖田の行方を尋ねられた。


 花乃は、たまたま勤めから帰ってきたところの近藤に声を掛けた。


「近藤様、御戻りなさいませ。あの、沖田様がどちらにいてはるか、御存じありまへんか?」

「総司か? そのあたりにいるんじゃないのか?」


「いはらへんのどす。夜は屯所に戻ってはります?」

「ああ。夜は、市中の見回りも屯所での留守番も、特に変わりなくこなしているが。どうした? まさか総司が何か問題を起こしたか?」


 花乃はくちごもった。


 うっかりして殺されそうになったなど、正直に白状できるはずもない。仕事を失うだけならばまだしも、近藤や土方が特別に目を掛けている沖田の逆鱗に触れてしまったとあっては、どんな目に遭わされるかわからない。彼らは、あの壬生狼なのだ。


「何かあったのか、花乃殿? 気掛かりなことがあれば言ってくれ」


 近藤は幼い娘でも相手にするかのような格好で、花乃の顔を覗き込んだ。近藤の顔は、頬と顎の骨が張って四角く、口が大きくていかつい。しかしその面相に似ず、近藤は優しい。


 花乃はかぶりを振った。


「近所の子供たちが、沖田様がいはらへん言うて心配してはります。危ない御仕事をしてはるさかい怪我でもしてしもうたんやないか、と」

「あいつに怪我を負わせられるような手練れは滅多にいるまいよ。だが、わかった。花乃殿が総司を心配していたと、後であいつに伝えておこう」

「別に、うちは心配なんてしてまへん」


 花乃は語気を強めたが、近藤は顔をくしゃくしゃにして笑うだけだった。


 翌日のことである。

 花乃が飯釜いっぱいに炊いた白米でたくさんの握り飯をこしらえ、真っ赤になった手で飯釜にくっついた米粒を集めて頬張ったとき、不意に背後から含み笑いが聞こえた。振り返ると、台所の隅で沖田がくすくすと笑っている。


「摘まみ食い」

「御握りにできひんくらいの、ほんの一口どす」

「腹が減っているなら、握り飯を食ったっていいんだよ。花乃さんはもっと太ったほうが可愛い」

「ええ加減なこと言わんといてください」


「俺に会えなくて寂しかったんだって? 近藤さんから聞いたよ」

「言うてまへん! 何やのん、急にいなくなったり出てきたり。うちと顔を合わせとうなかったんと違います?」


 沖田は微笑のような表情を保ったまま、ゆっくりと花乃に近付いた。足音がほとんど立たない。衣擦れの音さえ静かだ。


 おかしな話だ。沖田総司という男は、なぜこんなにも、怖くないのか。


 花乃は沖田をじっと目で追った。向かい合うと、沖田の視線がやや低いことに気が付く。沖田は花乃の首筋を見ていた。


「傷やあざはできなかった? 誰からも変な誤解をされなかったかい?」

「誤解?」

「俺はよく屯所にいるし、花乃さんもいつもここにいるからさ、いろいろ言いたい奴がいるんだよ」


 沖田はちらりと花乃の顔を伺った。その拍子に沖田の吐息が首筋に触れたように感じ、唐突に、花乃は沖田の問いの意味を理解した。


 人が出入りしない二階に沖田が上がっていき、しばらくして花乃が続き、やがて二階から降りてきたときに花乃の首筋に赤い痕跡が残っていたら、下世話な噂が立ってしまってもおかしくない。


 かっと花乃の頬が熱くなる。


「誰からも何も言われてまへん。痣もできひんかったと思います」

「それならよかった」

「ほんで、沖田様がここに来はった御用はそれだけどすか?」


「いや、ちょっと呼びに来た。どうせこの後は掃除をするだけなんだろう? そんなの、どうでもいいから」

「どうでもようありまへん。毎度毎度、うちの邪魔ばっかりしはらへんといてください」

「怖いなあ。そう睨まないでってば。いいものがあるんだ」


 沖田はたもとから小さな箱を取り出した。千代紙を折って作ったものだ。はぎきょうの模様が見える。


「何どす?」

「気になる?」

「勿体ぶらんといて」


 沖田の長い指が箱の蓋を開けると、千代紙よりも鮮やかな彩りが覗いた。色とりどりの小さな菓子がこぼれ落ちそうにたくさん詰まっている。


 菊や兎をかたどったらくがん、紅葉や銀杏の形のうんぺい、つんつんとした格好が愛らしい金平糖、砂糖をまぶして炒った豆、甘いあられと辛いあられ、それから、何と呼ぶのか知らない舶来の干菓子もある。


 花乃は怒った気持ちも忘れて菓子に見入った。沖田がくすりと笑う。


「ふきよせ、というらしいね。秋の風が吹いて木の葉が寄せ集められるように、いろんな菓子を集めて詰めるんだ」

「どないして手に入れはったんどす? 一つの御店で買えるもんと違いますやろ? わざわざあちこち行かはったん?」


 花乃のあけすけな問いに沖田は答えず、表を指差した。


「今日は天気がいい。少し行ったところの神社で、きんもくせいが咲いているんだ。花を見ながら菓子でも摘まもう」

「せやけど、うちは御掃除をせなあきまへんし」

「そんなのどうでもいいって。花の見頃は短いよ。綺麗なうちに見に行かないと」


「御花やら御菓子やら、沖田様が気に掛けてはるとは存じまへんどした」

「ああ、やっぱりわかっちまうか。土方さんの入れ知恵なんだ。若い娘を怒らせたときはどうやって謝ったらいいだろうって訊いて」


「沖田様の今後のために助言しておきますけれども、種明かしなんかしたらきょうめどすえ」

「なるほど、次から気を付けるよ。とにかく行こう。金木犀が綺麗なのは本当なんだ」


 沖田は幼い少年のような笑い方をして、たすきを掛けて短くなった花乃の袖を、ちょんと引いた。


 触れられたわけではない。ただその手が近付いただけ。


 それなのに花乃は、火傷しそうなほどの熱を感じた。熱はたちまち体じゅうを駆け巡る。花乃は目を伏せ、襷を解いて袖を整えながら、こっそりと胸に手を当てた。


 しょうもない猫みたいな人やのに。すぐに牙を剥く人斬りやのに。


 胸が高鳴っている。なぜ、と考え始めた花乃の前で、当の沖田は相変わらず笑っている。

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