第二話 ぶぶ漬け小町(土方歳三)

 その侍が、あきと父が営む小料理屋を初めて訪れたのは、去年の夏の初めだった。


 あきが、今日はそろそろ店じまいやろかと、人通りの絶えた四条通の東と西を見やったとき、その侍が大宮の辻から現れたのだ。


「こんな遅い時間にすまねえが、何か食わせてもらえるかい? 碗一杯の酒とちょいとしたさかなと、後は茶漬け程度で構わねえんだが」


 鮮やかであでやかな男だった。色白で、引き締まった目鼻立ちの美丈夫である。月代さかやきを剃らず一つに結っただけの髪は、つやつやとして夜目に映えた。肩に引っ掛けた羽織は、京都の男は誰も着ないような、きっぱりとした段だら模様。


「どうぞ、まだ開けてますさかい。大根と御揚げさんの炊いたんと、御漬物と、そんなんで構へんどっしゃろか?」

「ああ、構わねえ。まずは酒を一杯、頼む」


 あきは暖簾のれんを押さえ、侍を店に通した。


 店はうなぎの寝床の町屋造りで、間口は狭いが奥行きがある。右手には奥まで土間が走り、左手には客を上がらせる畳の間が並ぶ。


 侍は、走り庭の炊事場の程近くに上がり込んだ。


「客は俺一人、店番はあんた一人かい」

「へえ。この時間になったら、うちの店はいつも静かなもんどすわ。元々そない流行ってもいいひんさかい、御父ちゃんは二階で御酒を飲んでたかいびきや。御侍様は、御勤め帰りどすか?」

「花街帰りとしゃ込みてえところだが、このところ忙しくてな」


 あきの差し出す酒を受け取るや、侍は喉を鳴らして飲み干した。


「あら、ええ飲みっぷりで」

「しくじったな。喉が渇いていたもんで、一息にあおっちまった。回るぞ、こりゃあ」


 言ったそばから、侍の白い肌にほのかな赤みが差し始める。侍は羽織を脱ぎ、襟元を軽くくつろげた。あきは、あんどんの明かりに照らされた侍の肌がひどく滑らかなのをうっかり見てしまい、慌てて顔を背けた。頬が熱い。


 料理をこしらえるあきの背中を、侍はじっと眺めているらしい。あきはくるくると働き、他愛ない受け答えをしながらも、振り返ることができない。


 胸の奥にあるはずの心の臓が喉元にまで膨れ上がり、ごとごとと騒いでいる。体が火照って、吐き出す息まで何だか甘い。


 なぜこうも侍の視線が気になってしまうのだろうか。二三度、視線が絡んだだけだ。触れられたわけでも、ましてや口説かれたわけでもないのに。


 店の仕事に馴染んだ手先はこんなときにも間違うことなく、さかなを二つと茶漬けを一杯、きちんと作って盆に載せている。あきは、思い切って振り返った。


「御待ち遠さんどした。御口に合うか、わからへんけれども」


 侍の前に盆を進めると、侍は、はっと目を見張った。


「この店じゃあ、江戸前の料理を出すのかい?」

「へえ、時たま作ってます。御父ちゃんが昔、江戸で板前奉公をしてはったさかい」


 侍は江戸言葉を喋っている。ならば、京料理より江戸前の方がよかろうと、あきは思った。


 今日はたまたま、切り干し大根と薄揚げの煮物を二種類こしらえてあった。侍の皿には、醤油の色味で黒々とした江戸風を盛った。漬物も、あきの舌には味の強すぎるべったら漬けだ。


 行儀のよい仕草で料理に箸を付けた侍は、目を輝かせて相好を崩した。


「江戸の味だ。懐かしい」

「それはよろしゅうございました」

「屯所からこんなに近いところに江戸の料理を食える店があるとは知らなかった。嬉しいもんだな。精が付くよ」


「このあたりに御住まいどすか?」

「ああ、江戸から出てきた仲間も一緒だ。近々、そいつらも連れて来よう。この美味い煮しめを、たんまり作ってくれ」

「へえ、かしこまりました。御待ちしとります」


 夜が遅いからか忙しいせいか、侍は飯を掻き込むと、銭を置いてさっさと店を出ていった。


 あきは、あの人は御世辞を言うてくれただけやと思うことにした。また来はるなんて、きっとその場限りの軽口や。


 本当はまた会いたかった。芝居がかった段だら模様の後ろ姿を見送りながら、胸にともった火は消えず、あきは戸惑った。


「うち、一目惚れしてしもうたんやろか」


 呟くと、まさにその通りと言わんばかりに、胸の痛みがきゅっと強くなった。


 会いたい気持ちは、あっさりと報われた。翌日、侍が、仲間だという若い男を一人連れて、あきの店を訪れたのだ。そのとき、侍があきより一回りも年上だと知った。もっと年が近いとばかり思っていたから驚いた。


 それからというもの、三日に一度は、江戸言葉の武士が、あきの店を訪れるようになった。あきと父は彼らがいつ来てもよいように、毎日、江戸の味付けのさいを用意した。


 侍とその仲間は、壬生にたむろする狼と悪評もかまびすしい武士一派だったが、あきの店では存外おとなしく、あるいは人懐っこかった。江戸前の煮しめや漬物、鍋料理をつついては、嬉しそうに明るい酒を飲む。


 壬生の狼どもを参らせた小料理屋が四条大宮の辻端にあると、いつしか評判が立っていた。おかげで毎晩、鍋がすっからかんになるまで働きっぱなしの大繁盛である。


 あきは今宵もくたくたにくたびれていた。父はこのところ腰が痛むと言うので、あきが店じまいを引き受けている。


 洗い物も火の始末も済ませ、そろそろ暖簾を片付けようかと、あきは戸口に向かいかけた。そのときだ。


「遅くなっちまって悪いが、まだいいかい?」


 初めて店を訪れた夜と同じような言葉を口にしながら、あの侍が戸口に立った。こきはなだ色の単衣ひとえが涼やかで、ありふれたにび色の袴もまた、すらりとした美丈夫が身に付けると垢抜けて見える。季節はぐるりと一巡して、これから暑くなろうかという夏の初めである。


 あきの胸が途端に高鳴った。けれども、あきは何でもないふりを装って微笑んでみせた。


「あら、御久しゅうございます。どないしてはるんかと思うておりましたえ」

「御無沙汰にしちまっていたな。隊がだんだん大きくなってきて、何かと仕事が増えたもんでな」

「少し御痩せにならはったんと違います? 御飯、きちんと召し上がってはりますか?」


 侍は口元に笑みを浮かべ、炊事場から近い畳の間に腰を下ろした。


「茶漬けを作ってくれ。具はあり合わせでいい」


 あきは炊事場に向かった。米も湯もちょっとした具も余っている。茶漬け程度なら、今一度、火を起こすまでもない。


「御酒は飲まはらへんのどすか?」

「もう飲んだ後だよ。上役との席だったんで、少しも酔えなかったが。全く、あんな宴会よりは敵中に放り込まれて切った張ったとやり合う方が、よほど気が楽だ」


「そんな物騒な。御侍様の御勤めも大変どすなあ。昼も夜も大捕り物に追われて命懸けで働かはって。うちは心配どすわ」

「俺たちに優しい言葉なんぞ掛けてくれる京女は、あんたぐらいのもんだよ。ありがとな」


 背中に微笑みを感じる。その笑顔に真正面から向き合ってみたい気持ちがある。思わせ振りな言葉なんか吐かんといてと突き放したい気持ちもある。


「ありがたいと思うとっても、言わへん者もおります」

「京都の人間は偏屈だからか? でも、あんたは正直者だ」

「せやろか?」

「正直者だよ。あんたの作る茶漬けなら、安心して長居しながら食える」


「京都のぶぶ漬けは早よ帰れいう意味やなんて、信じてはるのどすか?」

はなしとしちゃあ有名だろう」

「あんなん、ほんまと違います。ぶぶ漬けみたいなもんしかあらへんわ言うて、きちんとした御馳走を御出しすることならありますけれども」

「本当かい?」


「ほんまどす。うちは正直者なんどっしゃろ?」

「違えねえ。あんたが言うなら、本当のことなんだろう。しかし、やっぱりこの席はいいね。あんたの色っぽい後ろ姿を楽しめる」


 あきは、どきりとした。体が急に熱くなって、指先が震える。


「何を言うてはりますのん?」


 憎たらしいほど涼やかな笑声が、あきの肩を後ろから抱いた。


「こうして二人っきりだと、まるで夫婦めおとみてえだな」


 胸をえぐられる思いだった。侍にとっては何気ない冷やかしなのだろう。随分と女に持てる男であることは、あきも噂に聞いている。


 あきは振り返らずに茶漬けを作った。


 ひつの中に残った米を茶碗一杯分、湯で洗ってぬめりを落とし、丼に盛る。茶葉を新しいものに取り換え、急須に湯を注ぐ。丼の米の上に具と薬味を載せ、熱い煎茶を掛ける。


「御待ち遠さんどした」


 あきは顔を伏せたまま、茶漬けの盆を侍の前に置いた。侍は嬉しそうな声を上げた。


あさりつくだか。懐かしい」

「へえ。蜊は小浜や鯖江で獲れますよって、鯖街道から京都に入ることもあります。今日も運よく手に入りましたさかい、江戸前の塩っ辛い佃煮をこさえてみました」


 薬味は、大葉にしょうさんしょうを細かく刻んで散らしてある。あきの店の庭は、町屋の常で狭く日当たりも悪いが、薬味の類は存外たくましく、いい具合に育つのだ。


 侍が茶漬けを食べ始めたのを合図に、あきは畳の間から立ち、表の暖簾をしまった。店のあちこちに置いた行灯の火も、いらぬものは全て消した。


 前掛けとたすきを外すと、あきは再び、侍の座した畳の間にちょこんとかしこまった。


「御味、いかがどっしゃろ?」

「美味いよ。本物の江戸の味だ」

「そら、よろしゅうございました」


「あんたは江戸に行ったことがあるのかい?」

「いいえ、うちは今まで京都から出たことはありまへん。そして今後も一切、出えへんと思います」


「店があるからか?」

「へえ。それに、うち、もうすぐしゅうげんを挙げますさかい、ますます店から離れられへんようになりますわ」


 茶漬けを食べる手が止まる。ふう、と息を吐くのが聞こえる。

 あきは思い切って顔を上げた。侍は涼やかに微笑んでいた。


「おめでとうさん。あんたを射止めた男は板前か何かかい? うちの若い連中が悔しがるぜ」


 それだけだった。侍はまた茶漬けに箸を付ける。

 あきの胸の奥で、何か大事なものがばらばらに砕けてしまった。


 侍が食べ終わるまで、あきはそこでじっと固まっていた。心が痛くて痛くて、痛すぎて何も感じられなくなって、黙りこくって座っていることしかできなかった。


 盆に丼と箸を置く音がした。衣擦れの音がして、いつしかうつむいていたあきの目の前に、深縹色が現れた。


 男の大きな手が壊れ物でも扱うように、そっと、あきの頬に触れあごに触れ、顔を上げさせた。


「花嫁になろうって娘が、そんなに沈んだ顔をするもんじゃねえだろう。どうした、不安か?」


 店は薄暗く、あたりは静まり返っている。あきは初めて、これほど近くで侍の目を見つめた。深くきらめく漆黒に吸い込まれそうだった。侍の手は、少し乾いて熱い。


「不安やない。せやけど……せやけど、うちは……」

「惚れた男がほかにいるのか?」

「へえ、おります」

「想いを告げねえままじゃ気掛かりで、嫁入りもできねえってのかい?」


 口振りは相変わらず、からかうように軽い。しかし、まなざしはわずかな明かりを映し込んで、この上なく強く激しく、あきの心を絡め取る。


 あきは熱に浮かされた心地で口走った。


「憧れても仕方のないことは、うちもようわかってます。せやから、一夜限りで構へんのどす。ほんまに好いた御人に、一度だけ、今夜だけ、夫婦めおとのように名前を呼んでもらいたい」


 侍はあきに顔を寄せ、囁いた。


「俺が呼んでいいのか?」

「御願いいたします」


 侍のかすれた声が、密やかに歌った。


「おあき」


 ただ、一語。ありふれた名を、その声が呼んだだけ。

 あきは体中が熱く痺れ、泣き出したいほどの愛しさに震えた。


「もっと……どうか、もっと呼んで。うちを今夜だけ、御願い、御侍様の……」


 言葉にならない。あきは深縹色の袖にすがった。その途端、男の広い胸に抱き寄せられた。汗の匂いと酒の匂いと、何か甘い香りがする。


「おあき」


 囁いた唇があきの唇を奪い、狂おしいまなざしがあきを貫いた。あきの胸の奥でばらばらに砕けたはずの何かが、一つ一つ真っ赤に燃え立って、むすめの柔肌を火照らせる。侍は荒々しいほどの仕草であきを押し倒した。


 ふとした弾みで、あきの緋色のしが盆に当たり、箸が転げてかちゃりと丼にぶつかった。その音を聞いたのを境に、あきはもう何もわからなくなった。


 戒めを破るように、あきは、侍の名を呼んだ。

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