【短編集】壬生狼小唄
馳月基矢
第一話 壬生に鬼あり(土方歳三)
うち、知っとるんえ。
何の香りか、うちは知っとるんえ。肌の匂いと汗の匂い、
せやけど、それだけと違うんえ。はて、何の香りどっしゃろ? うちも初めはわからへんかってん。
うちがそれを知ったんは、秋の終わりの激しい雨の夜どした。土方様は傘を差して
***
中庭の
酒に浸らぬうちは悪くない男なのだ。
土方歳三は雨中に立ち止まり、振り返った。左を
花街、島原の
「芹沢先生、このくらいで酔ってもらっちゃあ困りますよ。屯所に酒を取り寄せて、江戸前の料理もこしらえてあるんですから」
上機嫌の芹沢は
「土方君が酔っ払いの儂に甘い顔を見せるとは珍しい」
「俺もたまにゃあ羽目を外したくなります。楽しい酒を飲む芹沢先生にあやかりてえ」
「よかろう、眉間の
うんざりするほどの大声で、芹沢はまた笑う。その隣で沖田は、にこやかな顔のまま鋭く両眼を光らせた。
今宵、土方と沖田は芹沢を殺す心積もりである。
壬生村の筆頭
離れ座敷に用意した酒と肴を、芹沢は母屋に運ばせた。壁を挟んで隣では八木家の奥方と幼い息子二人が早々に
芹沢と妾の梅を上座に据えた宴席で、平山と平間は馴染みの芸妓を呼び出して
酒を満たした碗を手に、芹沢はがなり立てた。
「何だ、近藤君はおらんのか!」
「近藤さんは
「なるほど。本来は筆頭局長たる儂が行くべきであったな」
「いえ、御気兼ねなきよう。会津公は、誰よりもまず芹沢さんを持て成さねばとおっしゃいました。先の政変で長州藩と睨み合ったとき、芹沢さんが一番の戦果を挙げられたのですから」
「それは山南君、あんた方と儂では肝の据わり方が違うのだ。切腹の覚悟を決めて辞世の句を詠んだ試しなど、山南君にはないだろう?」
「ございませんね」
「そこが甘いのだ。命をなげうつ覚悟に欠ける。そんな
「おっしゃる通りで」
「しかしなあ、試衛館の面々は、局長の近藤君がまずまともな家柄ではない。近藤家は多摩の郷士だ。郷士なんてのは百姓と大して変わらん。山南君は歯痒く思わんかね」
「歯痒く、とは?」
「近藤君には将器があるが、
「私は一刀流を学び、免許皆伝を許されましたが、他流試合で近藤さんに敗れましてね。この男の我武者羅な強さは一体何なのかと興味が湧き、試衛館への訪問を重ねるうち、近藤さんとの縁が深くなった次第です」
「それが将器というやつよ。試衛館には一刀流の山南君に藤堂君、無念流の永倉君、槍術の原田君に無外流の斎藤君と、他流の
ちょうど酒瓶を持って隣に腰を下ろした土方を、芹沢が見やった。
ひゅっと
土方の喉に鉄の扇が突き付けられている。刹那の隙に芹沢が己の帯から扇を抜き、土方に向けたのだ。扇が土方の
「これが刀なら、土方君は死んでおる」
「さすがの腕前で」
「ならば、驚いた顔の一つもしてみせろ。可愛げのない」
「来年には三十になる男に可愛げを求められても困りますね」
「土方君はそんな年か。女よりも白く綺麗な肌をしておるゆえ、もっと若く見えるな」
芹沢は扇を広げて己を
平静を装った土方はその実、肝が冷えていた。しこたま飲ませたつもりだったが、剣豪で鳴らす芹沢の腕は、この程度の酒量ではまだ鈍らないらしい。
大柄な芹沢の体に、梅がしなだれかかっている。こちらは既に酔いが回り、心地良さげだ。こんなに火照っては暑かろうと芹沢が悪戯をした襟元も裾も、割れて肌を覗かせたままになっている。
芹沢の配下、平山は船を漕ぎ始めた。平間も調子に乗って酒豪の斎藤との飲み比べに興じているから、じきに落ちるだろう。
空になった碗が土方の眼前に突き付けられた。
「芹沢先生、もう干しちまったんですか」
笑みをこしらえて酌をする土方に、芹沢はにんまりとして問うた。
「土方君の家は百姓ながらに
「家は兄が継ぎました。俺は何をしたっていい身分なもので」
「京都くんだりに来なければ、婿入り先は引く手数多だったろう」
「
「それで武士の真似事か。初めて会ったときは、どうにも奇妙な男だと思ったぞ。身なりこそ浪人風だが、仕草も言葉も柔らかく、まるで商家の店番だ。そのくせ気性は
笑みに隠して、土方は奥歯を噛み締めた。百姓百姓と繰り返しやがって。だから俺は芹沢が嫌いなんだ。
土方と沖田の視線が絡んだ。早く斬らせておくれよと、沖田の目は
齢二十の若年にかかわらず、沖田の剣技は既に達人の域にある。命じられれば誰でも斬ってみせると公言して
確かに沖田なら、
芹沢は今宵、泥酔して寝入ったがために、どこからか侵入した
会津藩主、
容保公に目通るや、会津藩きっての若き秀才、
「芹沢鴨が
土方は首肯した。
「まことでございます。芹沢は今日、唐突に、我ら壬生浪士組を率いて有栖川宮家へ参上し、殿下に御仕えしたいとの旨を申し上げました」
「芹沢は何を考えておるのだ? 有栖川宮殿下は長州藩と手を結んでおられた。無礼を承知で言えば、殿下は我らの敵だ」
「同じ旗の下にあるとはいえ、芹沢の腹の内は、試衛館派の手前どもにはわかりません。酒を飲んでは暴れる日頃の行いにも眉をひそめておりましたが、今度は尊攘派への接触。
「芹沢は、京都守護の浪士組に名乗りを上げるより前は、尊攘派の中でも過激な
「わかりません。水戸を脱藩してきたらしいという程度しか。しかし、
神保が容保公を見やり、土方も顔を上げた。土方と同年輩にして京都守護職を司る容保公は、涼やかに整った顔を曇らせ、一言だけ告げた。
「芹沢鴨を何とかしてくれぬか」
土方は静かな顔付きを保った。胸中には牙を剥いて笑い、
「闇に葬れとおっしゃいますか?」
容保公は、うなずく代わりに目を伏せた。神保が秀麗な顔を冷ややかに強張らせ、土方に命じた。
「九月十六日、会津藩主の名において、島原の料亭角屋にて壬生浪士組を持て成す慰労会を開く。宴席で首尾よく芹沢鴨を酔い潰し、外部からの侵入者を装ってこれを暗殺せよ」
「かしこまりました」
平伏して板の目を見つめながら、土方は唇の端を持ち上げた。俺はこれほどまでに芹沢を憎んでいたのかと気が付いた。
試衛館派と芹沢一派が合して成った壬生浪士組は、近藤勇と芹沢鴨、二人の局長を頂いている。が、芹沢は、年長であり家格も上であることを言い立て、近藤を差し置いて筆頭局長を名乗り、やりたい放題だ。
力士を相手取って喧嘩をし、大店や金貸しに
金戒光明寺を辞した後、夜の
「空に
「芹沢さんも年貢の納め時だなあ。逃げられやしないね。土方さんを本気にさせちまったんだから」
そう、逃がしゃしねえさ。
剣の腕で身を立てよう、本物の武士になってやろう、近藤さんを幕臣にしてやろう。いくつもの野心を抱いて多摩の田舎を捨ててきた。俺の野心の前に立ちはだかる敵は皆、必ず除く。
土方は鏡を覗くように、胸中に棲む鬼と同じ顔で笑った。血が
***
夜半、
芹沢暗殺の巻き添えになりたくなければ、
「御梅姐さんは逃げはらへんのどすか?」
旦那の命など気にも留めぬ女たちだが、芹沢の妾の梅には思い入れがあるようだった。梅は、愛くるしい中にもどこか物悲しげな美人で、もとは島原の芸妓だったのを、四条堀川に大店を構える呉服商が落籍して妾に囲っていた女だ。
「あの女は駄目だ」
土方も沖田も山南も同じ判断をした。
梅は芹沢に惚れている。呉服商の妾奉公が苦界よりなお苦しかったと見える。さもありなん、件の呉服商は、借金の取り立てのために色仕掛けでもしてこいと、梅を荒くれ武士の屯所へ寄越すような男だ。
身の上話を聞いた芹沢は、梅を呉服商のもとへ返さなかった。梅は芹沢によろめいた。
八木邸の本玄関に忍び込むと、左手の四畳半で平間が眠りこけている。土方と沖田、後衛を担う一刀流出身の山南敬助と槍の名手の
平間は捨て置け。ここで余計な物音を立てるのは上策ではない。
うなずき合った一行は、奥の
無人の六畳間である。さらに奥の十畳間に、芹沢と梅、平山が眠っている。
原田が襖を閉じ、抜身の刀をぎらつかせて仁王立ちになった。仕損じて標的が逃げ出そうとすれば、原田がここで食い止める。
奥の間の襖を開けた。中央の
土方は、沖田と山南に目配せをした。すっと三つの気配が動き出す。
山南が平山の枕元に立ち、刀を構えた。殺気が
「何奴!」
芹沢の銅鑼声が響いた。
沖田が芹沢と梅へ屏風を蹴倒し、踏み付ける。山南が平山の首を
芹沢が凄まじい叫びを上げ、屏風の下から転がり出た。梅は布団の上で虫の息だ。芹沢は部屋の奥、縁へと逃れた。血まみれの腕で、いつの間にか刀を抜いている。
土方と沖田が芹沢を追い、山南は梅にとどめを刺した。沖田の快剣が芹沢の刀を
隣室には八木家の母子が休んでいる。人質に取られては厄介だ。
芹沢は障子を蹴開けるや、部屋に駆け込もうとした。
がつんと硬い音が鳴った。芹沢の向こう
土方は刀を振りかぶった。稲光が部屋を照らした。鬼の面が白々と、秋雨の夜闇に浮かび上がる。ぎょろりと飛び出た金箔張りの目の奥に、冷ややかな黒い瞳がきらめいた。
渾身の斬撃が芹沢の肩に食い込み、骨を叩き割りながら背を
土方は、芹沢が動かなくなっても、完膚なきまでに刀を振るい続けた。血みどろの肉塊と化した芹沢を見下ろす。血と脂を吸って重くなった刀を懐紙で拭い、鞘に収める。
そして土方は
殺戮の返り血も足下の土も全て洗い流す雨の中、鬼の面を外した土方はふと、軒下から己を見上げるまなざしに足を止めた。
「土方さん、どうした?」
囁く沖田に、土方は密やかに笑った。
「顔を見られちまった。ほら、
土方は三毛猫を抱き上げた。
「脅かさないでよ。猫じゃないか」
「美男が好みらしく、俺にだけ懐いているんだ。よう、猫よ、今ここで見たことを誰にも言っちゃいけねえぞ」
濡れた腕で抱いているのに猫は嫌がりもせず、土方に頭を摺り寄せ、喉を鳴らした。
***
うち、そのとき知ったんえ。
土方様の御体の香りは、甘いだけと違う妖しい香りどす。肌と汗と
血の匂いがしてはりますのや。どれだけ雨に濡れたかて御風呂に入ったかて、血の匂いは落ちひんのどす。
なあ、土方様のええ香りの秘密、誰にも言うたらあきまへんえ。あんたはん、あんじょう用心しなはれ。言うてしもうたら、壬生の鬼に斬り殺されされますえ。
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