塔が見ている

シアターグローブ

グレイ・オア・シルバー

「ただいま」


アキオは半ば倒れ込むように、妻が気を遣って解錠されていた扉を開けた。


「おかえり」


出迎えた妻のミカは、柔和な表情でアキオを労う。


「ダメだよ、鍵を開けていたら。危ない」


「ごめんなさい、鍵を取り出すのも億劫だと思って……。何かしてほしいことはある?」


「そうだな……。何か手早く食べられるものを作ってほしいな」


「わかったわ」


少し心配そうな顔をしたまま、ミカは台所へ体を向けた。しかしアキオはそんな表情でさえ、妻のものというだけで噛みしめるほどの安心を得た。自らの掌から漂う金属の嫌な臭いが鼻腔をくすぐっても、なんら気にならなかった。


アキオは、都市の中心に聳える鋼鉄の塔、《ヘイムダル》のメンテナンスを担当する技師である。《ヘイムダル》は都市の全てを見通し、電力供給、水道・ガス管理、監視カメラを通して読み取った生活状況から割り出した生活アドバイスまでをも一手に担う。人々は塔の寵愛を得ているようで、その実、《ヘイムダル》に生涯を支配された奴隷がいいところ、という認識であった。


しかし彼は少し違う。アキオは、人工知能を搭載した《ヘイムダル》がその無数の演算処理の隙間から漏れる光に、徐々に自らの意思を見出していたことに気づいていた。そうなっても己の摩耗を顧みず、全ての都市の人々を見守り続けているその塔に、彼は愛着を覚えていたのだ。実装されて五世紀は経とうかというその煤けた鈍色のボディには無数の赤い錆を宿し、空に向いた排熱パイプから未だ力強く熱気を吐いている。


そんな熱と似た湯気が、台所から漂ってくる。ミカが始めた料理の支度の音に癒されながら、そんな自分の仕事に思いを馳せていた。《ヘイムダル》同様、彼の仕事も相当にハードだった。専門職のため後継者が少なく、また実働時間も長い。しかしアキオにとって、あの塔と共に仕事が出来るというのは、それだけで天職のように思えた。


そんな彼を支えてくれているミカもまた、アキオがヘイムダルに抱くような尊敬、心配を夫に向けていた。都市の管轄を全て行っている塔の、いわば補佐官的役回りだ。妻として誇らしくないわけがなかった。


「できたよ」


ミカが食卓に置いたのは、暖かいお茶漬けだった。


「ああ、ありがとう。食べやすくて助かるよ」


明日も早い。消化がいいものをチョイスするあたり、妻の思いやりに気づいたアキオは自然と馥郁たる茶葉の香りを放つお茶漬けに視線を奪われる。


銀色に輝く白米の一番上には、よく焼けた鮭の切り身が乗っていた。まるで都市の守護神の誇りたる錆のような、荒削りな赤を称えている。自然と、安心が微かな高揚に変わった。


「いただきます」


前屈みでお茶漬けに食らいつくアキオを、ミカは向かいの席から、彼が帰宅してきた時と同じような、優しい顔で見つめていた。


そうか、ぼくが《ヘイムダル》を思うように、やっぱりミカもぼくのことを思ってくれていたんだ。ならぼくも、妻をそのように。


「……あいつさ、最近はもう光らなくなって、すっかり灰色なんだ」


「いいえ。あなたが頑張ってるんだから、まだ銀色よ」


妻が見遣るお茶漬けには、確かにお茶を被って銀に光る米があった。そうだ、こうしてミカがぼくを支えていてくれる限り、心までは錆びつくことはない、輝きが失われることはないのだ。そして今度はきっとぼくがミカの、そして《ヘイムダル》の錆を取り去っていくのだ。


お茶漬けを頬張るアキオは喉の熱いことが、単にお茶漬けのせいなのか、妻と寄り添う時間ゆえの多幸感なのか、よく分からなかった。もしかしたら胸にこみ上げてくる、この暖かな感情のせいかもしれない。


「ごちそうさま」


少しも残さず食べ終えたアキオは、そのまま食卓で茶碗と箸を洗っていた。そうして雨風に煽られ錆びていく心が、少しでも光とその反射を失わないように。


塔の錆は勲章だが、同時に人々に理解されない傷でもあった。その叛逆の精神から《ヘイムダル》の管理を逃れ、レジスタンスを形成する人々の破壊行為だ。


そんな「傷」を食べ尽くした気分のアキオは、また明日も笑顔で《ヘイムダル》の前でタイムカードを切られる、そんな確信があった。ミカの錆にはまだ、ちゃんと気づいてあげられていないけれど。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

塔が見ている シアターグローブ @CHQ

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ