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食堂の場所を思い出せず、屋敷をしばらくウロウロと徘徊した挙句ようやくたどりついてみると、ちゃぶ台を囲んで誰かが先に朝食を食べていた。何やら揉め事めいた話をしている。
「なぁ実花、この際だからはっきり言っておくが、俺はお前にこの山を継がせようなんてことはこれっぽっちも考えていないんだからな。お前の母さんだって、お前にまともに勉強して、普通に家業を継いでほしいって願ってる。もちろん俺もまったく同じ気持ちでいるんだからな」
「ちょっと待ってよ、私は純粋に好きでここに来てるのよ? お母さんにだって何度もそう説明してるし、おじさまが気に病むことなんて一つもないんだから。お母さんはここが嫌いなだけなの。自分がこの場所と繋がっているってことが単純に我慢ならないの」
「好きだからとかそんな理由で勤まるほどここの暮らしは甘いもんじゃない。それに、実花には自分のやるべきことがあるだろ?さっさと家に帰って親を安心させろ。俺はお前のことで、たった一人の妹とこれ以上険悪になどなりたくない」
「おじさまはお母さんに気を遣いすぎるのよ。それに私がいなかったら、おじさまの身に何かあった時、一体誰がここを守るっていうの?」
「俺がくたばるのはまだ相当先の話だ。お前が心配することじゃない、なるようになる」
「なんないわよ。ここが誰にでも預けられる場所ではないってことくらい、私には分かってるんだから……って、あら。篤くん」
二人の視線が、突然こちらに注がれる。
「あ……、お取り込み中のところ、すみません。おはよう、ございます」
……で。この人たち、誰、だったっけ。
モジモジとその場につっ立っていると、男の人が「俺、龍樹。こっちは実花な」と、尋ねもしないのに教えてくれた。
「まぁ、朝飯食えよ。色々説明してやるから」
見ると、ちゃぶ台の上にはあと一人分の食器が準備されていた。立ち聞きしてしまったのと、色々分からなくなってしまったのとで申し訳ないような、心細いような気持ちになりながら、指差された座布団に近づくと、ぽそりと座った。
***
「へえぇ。じゃあ夢を見て思い出してきた部分も、少しずつ増えてきてるってわけね」
山道を登りながら、今朝の夢で思い出したことがあると告げると、前を行く実花が嬉しそうにそう答えた。
「その代わり、私たちのことはちょくちょく忘れるみたいだけどね」
「はぁ……、すみません」
恐縮すると、実花は「だからぁ、それはあなたのせいじゃないんだから謝る必要なんてないんだってば」と言った。
「一進一退、だわね。でも大丈夫よ、絶対」
「そうでしょうか」
「そうよ。そもそも、私たちのことなんて忘れたって大して重要じゃないのよ。篤くんにとって今一番必要な記憶は、どういうわけでこの種を飲むに至ったか、にまつわることなんだから」
「そうなんですか?」
それは初耳だった。
「種はね、宿主に自分の存在を意識させないように、自分に関連する記憶を優先的に奪っていくの。けれど、一度記憶を奪い返されてしまうと、彼らにとってはすごく居心地が悪いらしくて、その宿主からはすんなりと離れる場合が多いと伝えられているわ。だからその辺りの経緯を思い出せれば、種も早々に出て行ってくれると思うわよ」
「へえ……」
「あなたが思い出しつつあることが、種にまつわる話であればいいわね」
「はい」
会話しながら急な坂を登っていると、だんだん息が切れてくる。額から流れ落ちる汗を拭おうとした拍子に、貸してもらった服から匂い立つ強い香りを直接吸い込んでしまい、思わずむせそうになった。
「ところで、ずっと気になっていたんですが。この服の匂い、何なんですか?……ちょっと苦手なんですけど」
思わずそう尋ねてみると「そう?」と意外そうに返される。
「私はこの匂い、嫌いじゃないけど。これはね、山の力からあなたを守ってくれるのよ」
「山の力?」
「この山は、ただの山じゃないわ。あなたの中にいる種から育った苗木が長い時をかけて生長するための場所なのよ」
実花は目を上げて、急な坂道の先を見上げた。
「この山の上にいる木々は、私たちの記憶を引き受けてこの山に返してくれる。だけど、それには本当に長い時間がかかるわ。もし記憶が完全に土に返る前に、若い木々たちの森に入り込むと、危険なことが起きる場合があるの。だから、森の木々が嫌う特別な香草でいぶした服を着ないと、山に近づいてはならないことになっているのよ」
「危険なことって?」
「山を彷徨う記憶の幻に捕らわれてしまうこと。木々に封じられたばかりの比較的新しい記憶は、そのままの幻影という形を取って現れることがあるわ。私はまだ直接見たことはないんだけど、それに人間が捕らわれたら、ただじゃすまないらしいわよ」
「そう……なんですか」
分かったような、分からない話だった。だって、記憶っていうのは現実とは違う。幻影はどこまでいっても幻影なんじゃないのだろうか?
「昼間だったらリスクは格段に下がるし、私も付いているから大丈夫。心配しないで」
はい、と言ってしばらく黙々と山を登るが、つい好奇心に負けて質問してしまった。
「あの……、実花さんは将来、この山を継ぐんですか?」
そんな薄気味の悪い山を好きこのんで継ぐなんて、普通に考えてちょっと信じられない話だと思った。
足場に注意するため、下ばかり見ながら登っている最中にそんなことを訊ねたのが悪かったらしい。前を歩く実花が立ち止まったことにまったく気が付かず、思いっきり彼女の背中に激突してしまった。
頭をしたたかに打ってしまい、うわっとのけぞる。危うく後ろにひっくり返って山道を転げ落ちるところだった。
「ご、ごめんなさい、大丈夫でしたか?」
何とか体制を立て直し慌ててそう言ったが、実花は気にも留めていない様子である。
「……私は、そうしたいと思っているのだけど」
山道の先に続く黒々とした木々のさざなみを見つめながら、彼女はぽつりとそう言った。
「おじさまの了承が得られないことには、どうなるかは分からないわ」
「実花さんは、ここが好きなんですか?」
実花はじっと山を見つめたまま黙っていたが、やがて目を落とすとこちらを振り返った。
「私の母はおじさまの妹で、この土地で生まれ育った人なのだけど、今でもこの山を毛嫌いしているわ。持ち主の心を蝕んだ挙句に見放され、切り捨てられた記憶など、私たちに災厄しかもたらさない。そんなものを好んで取り込む禍々しい木々のそばでなど暮らしたくないと言って、若いうちからここを出たの。そういう思いを抱く人は母だけじゃなく、天ヶ瀬のご先祖の中にもいた。だけどね、そういう恐ろしいものをすべて飲み込んで、途方もない時間をかけて癒してくれるこの森の木々が、私は好きなの。例え、彼らが生きる時間のうち、人間はほんの一瞬しか生きられないのだとしても、私は彼らを守り支えたいと思ってる」
「…………」
その言葉に何と言っていいのやらよくわからず、黙り込んでしまった。彼女の言葉は頭では理解できたものの、共感できるものとは言いがたかった。実花が自分と同じ年頃の女の子には見えなくて、まるで別のところで生きている人のように思えた。
そうやってどこか遠くにあるものを見るような目で彼女の顔を眺めていると、実花は少しばつの悪そうな、恥ずかしそうな表情を浮かべてふいっと前に向き直った。
「……もう。篤くんがヘンなことを聞くから、真面目に答えちゃったじゃないの」
「記憶をこういう風な形で捨ててしまった人たちは、たくさんいるのでしょうか」
「とても古くから続く習慣だからね。こちらからその存在を広めることはないにせよ、この種のことをどこかで知って尋ねてくる人は、今でも後を絶たないわ」
「その後どうなったのでしょうね、その……種を飲んだ人たちは」
実花につられたのか、思わず、本音が口を突いて出てしまった。
「僕にはよく分からないんです。もし捨てたい記憶があって、それを捨てたからって、それから先、その人は本当に幸せになれるのでしょうか」
記憶を捨てるということが、本当はどんなことなのか、よく分からなかった。
ややあって、そんなこと、と、実花の少し怒ったようにつぶやく声が聞こえた。
「種を欲しがる人の心の内なんて、私の手には負えないわ。ただ、私が知っているのは――」
山道の終わる先に、あの小屋が見えてきた。坂道をのぼってきた疲労感のせいか、それともこの山の不思議な力とやらの影響なのかはわからなかったが、体がさっきよりもずっと重たく感じられた。汗が背中を伝ってつうっと滑り落ちる感触がやけにはっきりと感じられ、背筋がぞくぞくした。
「今このとき、その記憶を手放さない限り、この人は確実に命を絶ってしまうだろう。そう確信を持った人にしか、龍樹おじさまは決して種を渡すことはない、ってこと」
そう言うと、実花は小屋の扉をがたがたと開けた。
「さぁ、入って。とにかく今は、あなたが自分でやったことを、しっかりと思い出すの、わかった?」
目の前のがらんとした小さな部屋を見つめ、それから実花に目を移すと、小さな声で「はい」と呟いた。
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