7

 重たい風を切って自転車を走らせていると、かすかに雨の匂いがした。

 高層マンションや商店の立ち並ぶ賑やかな通りから見上げる空は、一面灰色の雨雲に塗り込められている。

 よかった――、見慣れた場所に心底安堵した。ここは僕が住んでいる街だ。記憶からすぽりと抜け落ちていたはずの街並みが今、目の前に広がっている。

 忘れたわけではなかったんだ。何もかも、すっかり元のまんまじゃないか。

 それは湿気に閉じ込められた熱気が肌にまとわりつく、まさに梅雨の典型のような日だった。垂れ込めた雲を見上げ、やはり傘を持ってくればよかったなどと考えながら小枝さんが待っている通りにさしかかってみると、その日、いつもの場所に彼女の姿はなかった。

 その代わり、いつもなら小枝さんが立っているまさにその場所に、スーツ姿の男性が立っている。

 近くにはバス停もなく、横断歩道は少し離れた場所にあった。そんな明らかに不自然な場所に、彼はポツリと佇んでいた。何だろう、と思った。タクシー待ちか何かかな? そう思いはしたものの、本当のところ、その時の僕は彼のことよりも、小枝さんの姿が見えないことの方がずっと気がかりだった。初めてここで出会って以来、そんなことは初めてだったのだ。どうしたんだろう。もちろん単に用事があって来られなかっただけかもしれない。たまたま今日、具合が悪くて出られなかった可能性だってある。

 だけど、もしかしたら、もう来てくれないのかな。そんな思いが頭をもたげた。

 そりゃあ、このままずっと好意を受け取りっぱなしではいられないことは分かっているつもりだった。けれど、こんな風に何の前触れもなく突然会えなくなるものだろうか。今週たまたま何かあっただけならいいけれど、まさかこんなに唐突にさよならだなんて、さすがにそれはないよなぁ……ぐるぐると回る気持ちを抱えたまま、男性が立っている地点に近づくと、そのままのスピードで前を通り過ぎる。

 すると、直後に後ろから大声で「佐伯くん」と呼び止められた。

 びっくりしてブレーキをかけ、後ろを振り返ると、先ほどの男性がこちらを向いて立っていた。

「あの、佐伯くん、ですか?」

 はい、と答えると、彼はホッとしたように表情を緩めた。

「私は、小枝の夫の前田です」

 思わずえっ、と声を上げた。驚いたと同時に、なぜだか頭に血が上ったようになって、頬がかあっと熱くなった。

「こんにちは、先日は妻が――」

 彼がそう言いはじめるのを遮るように、「あのっ、僕」と叫んだ。

 何となく、彼の目の前にいるのがいたたまれなかった。一刻も早く、その場を離れたくて仕方がなかった。

「じ、塾の時間がっ、すみません」

 慌てふためいて自転車のペダルに足をかけたものの、「ちょっと待って」と強い口調で呼び止められた。

「少しだけ、どうしても時間が欲しいんだ。今じゃなくてもいいから、一度二人でお話できないかな」

 その優しく語り掛けるような口調に、我に帰った。そうだ、僕は何も逃げ出すようなことはしていない。この人にとって僕は、たまたま通りがかりに奥さんを助けた、ただの親切な子供なんだから。

「きみの都合のいい時間を教えてくれたら、日を改めて会いにいくから」

「…………」

「お願いします」

 正直、まったく気は進まなかった。けれど、わざわざこうして僕を待っていてくれたわけだし、その声の調子には、理由もなく断わるべきではないと思わせる響きがあった。さんざん迷った挙句、次の日の学校帰りに最寄りのショッピングセンターで会う約束を取り付けてしまった。

「ありがとう。忙しいところ、呼び止めて悪かったね。じゃあ、また明日――」

 その時、僕はようやく顔を上げてしっかりと彼の顔を見た。年は恐らく小枝さんと同じぐらいだろう。すらりとした体型の、どことなくエリート然とした雰囲気の漂う人だった。掛けている丸くて細いフレームの眼鏡がよく似合っていて、きっと小枝さんと並んだら、モデルのように上品な夫婦に見えるんじゃないか、お世辞じゃなくそう思った。仕立ての良い濃紺のスーツにグレーを基調とした地味めのネクタイを合わせている。ネクタイはとても上手に結ばれていた。学校教師をしている僕の父も仕事先にスーツを着て行くけれど、生来不器用なのか、ネクタイはいつでも少し斜めに歪んでいて、こんな完璧な結び目にお目にかかった試しはなかった。

「……あの、塾、急ぐんだよね? 早く行ったほうが」

 目の前のネクタイにまじまじと見入っていたら、前田さんの声が聞こえた。あっと叫ぶと慌てて腕時計に目を落とす。

「す、すみません、じゃあ」

 弾かれたようにペダルに足を掛け、そのままの勢いで漕ぎ始めた。

 それにしたって、一体なんだろう。

 小枝さんの旦那さんが僕に一体何の話があるっていうんだ。

 怒られたり、するのかな。僕の考えていることなんて、もしかしたら彼には全部お見通しなんだろうか。

 色々不安になったり恥ずかしかったりで、うわあっと声を上げながら全速力で自転車を漕いでいると、道行くおばちゃんに何事かという顔で振り向かれてしまった。


***


 その翌日。学校帰りに重たい足を引きずりながら駅前のショッピングセンターにたどり着くと、まずは駐輪場の自転車の隙間から、そっと様子を伺ってみた。まだ待ち合わせの時刻からは随分早かったにも関わらず、前田さんは入り口の大きな自動ドアの脇に立って、垂れ込めた暗い空に目を向けていた。会社帰りなのだろうか、グレーのスーツに淡い水色のネクタイを合わせている。それは昨日と同じように、完璧に美しい形で結ばれていた。

 近づいてくる僕を見つけると、彼は笑顔を見せ、軽く手を上げた。そしてショッピングセンター内にある小さな喫茶店に連れて行ってくれた。窓側のテーブル席につくとすぐに店員さんが近づいてくる。「僕はコーヒー。佐伯くんは何がいい?」とメニューを差し出されたのだが、やたら緊張してしまい選ぶ余裕も無く、じゃあ同じで、と答えてしまった。

「コーヒー、飲めるんだ」

 少し驚いたようにそう言われ、反射的に頷いてしまう。いいえ、本当はあんな苦い飲み物は飲めません、とは、さすがにかっこ悪くて言い出せなかった。

 ケーキもどう?と勧められたけど、いいえいいえ、と何度も断わる。前田さんは店員さんに目をやると、じゃあコーヒー二つで、と言った。

「呼び出したりして、申し訳なかったね」

 彼は心底申し訳なさそうに言った。

 いいえ、と僕は答えたきり何も言えず、テーブルの木目に目を落としていた。

 何となく、刑事ドラマで見た取調室のシーンに放り込まれたような心境だった。一体この人が僕に何の用事があるのか見当もつかなかった。

「小枝から、きみの話はよく聞いていたんだ。世話になったってこともね」

「いえ、そんな、全然」

「ありがとう」と彼は言った。

「だけど、もうきみに会うのはやめるよう、彼女には言ったから」

「……え?」

 その言葉にどきりとして、思わず顔を上げた。

「だからもう、小枝がきみに会いに行くことはないよ」

 どうして、と喉まで出かかった言葉を必死でねじ伏せる。何とか平静を装いながらじっと彼の話の続きを待った。

「こんな風に僕がきみを呼び出すこと自体、心苦しいことだとは思ったのだけど、急に小枝が来なくなることでもしきみが戸惑うことがあったらいけないし、やはり一度会ってきちんと話をしたほうがいいかと思ったんだ。それに、僕も直接会ってお礼を言っておきたかった。小枝がきみにとても感謝していたことも、ちゃんと伝えたかったし」

「……はぁ」

「これまで彼女に色々と付き合わせてしまい、悪かったね」

 しばらくの間、沈黙が降りた。口ではお礼だとか言っているけど、奥さんを会わせないようにするってことは、やっぱりこの人は、僕のことが気に入らないのだろうか。それって結局、僕に対して不信感を持っているってことじゃないのか。

「小枝は、少し、具合の悪いところがあってね」

 慎重に言葉を選びながら、前田さんは続けた。

「精神的に不安定なところがある。多分……、このままきみに会い続けると、後でまたひどく調子を崩すことになる気がするんだ。だから」

「どういうことですか? 僕が何か、あの人に悪いことをしたってことでしょうか」

「いや、そういうことじゃなくて」

 慌てたように彼はそう言って、またしばらく黙った。コーヒーを持ってきた店員さんがテーブルにカップを置いてくれている間も、少し困ったような、途方に暮れたような表情を浮かべ、じっと何かを考え込んでいるようだった。

「――実はね。僕たちには、子供がいたんだ」

 子供。前田さんが発したその言葉は静かで、けれどどこか厳粛な響きを帯びていた。悲しい話の予感に、僕はただ黙って頷いた。

「男の子が一人。生きていたら、きみと同じくらいの年になっているはずだ」

「…………」

「その子を七つの時に、交通事故で亡くしてね。事故が起こったのは、君が小枝と出逢った、ちょうどあの場所だよ」

「えっ……」

 思い返してみると、あそこは確か、道向かいが大きな公園になっていた。その出入り口付近にあった横断歩道がとっさに頭に思い浮かんだ。

「普段、小枝はなるべくあの道を避けるようにしていたのだけど、たまたまあの日、他の道が通行止めだったらしくてね。どうしても通らざるを得なかったところに、折り悪く、子供たちがあの横断歩道を横切って公園に向かうのを目にしてしまったようなんだ。今でもそんな光景を見るとフラッシュバックをおこしてしまうようで、呼吸困難になったり、めまいをおこしたりする時があるんだよ。この間佐伯くんが通りかかったときも、多分そういう症状が起きたんだろうと思う」

「そうだったんですか……」

 言われてみれば、あの時、子供たちが横断歩道を渡っているのを見たな。彼の話を聞きながら、頭の片隅でそんなことを思い返した。

「あんなふうに身体症状が出るととても危険だから、なるべくあの場所には近づかないようにと言っていたのだけど……まぁ、仕方ないね」

 何とも言えない話だった。小枝さんが自分と同じくらいの子供を持つお母さんだったこと自体驚きだったが、それほどに長い時を経ても尚、息も出来なくなるほど苦しい思いを抱えながら生きるって、どれだけ大変なことなのだろう。

 その心のうちは想像しようとしてできるものでは決してなかったが、それでも彼女の気持ちを思うと、いたたまれないような気持ちになった。

 前田さんはコーヒーを一口飲むと、ゆっくりとした仕草でカップを置いた。

「でね、ここからは、僕の推測なのだけど」

 しばらくの沈黙の後、彼はカップに落としていた目をこちらに向けた。

「多分、小枝はきみの事を、僕たちの息子と重ねているんじゃないか、と思うんだ」

「息子……さん、ですか」

 戸惑う僕の言葉に、うん、と彼は返した。

「僕が小枝から君の話を聞くようになった頃から、明らかに彼女の様子が変わった。うきうきと楽しそうな顔をして、次に作るお菓子の話や、君と会ったときの様子なんかをとても嬉しそうに話すんだ。彼女のあんなに明るい表情はここ何年も見たことがなくて、すごく驚いた。もちろん最初はね、僕だって彼女が元気になってくれたことを喜んでいたんだよ。けれど、段々、何と言うか――」

彼は再びコーヒーに目を落とし、しばらくどう言おうか考えているようだったが、やがて少し言いにくそうに、こう続けた。

「どこかおかしいんじゃないか、って思ったんだ。その、彼女の、君に対する思いが」

「……おかしいって?」

 どういうことかと訊ねると、彼はゆっくりと言葉を選びながら、丁寧に答えてくれた。

「多分ね、小枝はきみのことを息子が帰ってきたような目で見ているって、そんな気がするんだ。あの子を失った場所で君に出会い、優しく声を掛けてもらったせいで、息子がどこかで成長して、自分のところに戻ってきてくれたような錯覚を起こしているんじゃないかな。そうでもないと、あの小枝が毎週あんなに嬉しそうに、ずっと避け続けてきた事故現場に通うなんて、ちょっと考えられないんだ」

「……それで、僕とはもう会わないほうがいいと思ったんですか」

「これ以上深入りしてしまうと、きみにも迷惑をかけてしまうと思ったしね」

「だけど」

 一瞬ためらったが、僕は思い切って言ってみた。

「僕は特に迷惑だと思ったこともなかったし、もし僕と会うことで小枝さんが元気になってくれていたのなら、それは単純に良いことなのかもしれないですよね?」

 そんなに心配しなくても、と思いそう言ってみたのだが、その言葉を聞いた途端、前田さんの表情がさっと硬くなったのが分かった。

「けれどね、佐伯くん。きみは、僕らの息子じゃない。そうだろ?」

「…………」

「彼は、もう死んだんだ」

 その言葉が持つ絶望的な重さに反して、彼の口調は不自然に平坦で、どこか虚ろに聞こえた。

「それはどんなに辛くても、決して変えようのない事実なんだ。けれど、どれだけ時間が経っても、彼女はそこに目を向けることができないでいる。小枝の時間は、優人が――、僕らの息子が、死んだあの時のままなんだ。彼女は自分を責め続け、過去の時間を見つめたまま、今も同じころをぐるぐると回り続けている。そして今だって、きみの中に息子の面影を探している。けれど、それじゃだめだ。そんなことをやっていても、僕たちは決して前には進めないし、彼女の病を本当の意味で治してやることはできないんだ」

「…………」

 彼の言うことは、確かに分かった。分かったけれども、どことなく固い石のようなものが胸につっかえたような気がして、素直にそうですね、という言葉にはならなかった。

「僕は彼女に、どんなに長く時間がかかろうとも、事実を受け入れる強さを持って欲しい。そのためになら夫として、あらゆる努力をしたいとも思っている」

目の前にあるコーヒーを眺めながら、僕は黙ってその言葉を聞いていた。

「……じゃあ……」

 何か喋らないと。前田さんの言葉をしっかりと聞いたって意志を示さないと。そう思って、何とか重たい口を開く。

「前田さんとしては、小枝さんが僕と会うことは、結果的に小枝さんの気持ちを過去に閉じ込めてしまうと、そう思っていらっしゃるんですね?」

 その言葉を受けて、彼は曖昧に微笑んだ。

「きみがそう意図しなくても、小枝にとっては、あまりよくないことになると思うんだ」

努めて優しい口調で、前田さんはそう言った。

「…………」

 心の中に沸き起こったもやもやが膨らんで、心臓がどきどきとした。自分がそのことについてどう思い、それをどう伝えるべきなのか色々と考えてみたが、結局言葉にはならなかった。どうしようもなくて、無意識のうちに目の前のカップを持つと、もうぬるくなってしまったコーヒーを一気に喉に流し込んだ。

「――分かりました」

 空っぽのカップをテーブルに戻すと、うつむいたまま、僕は言った。

「これまでたくさん美味しいものを頂いてしまって申し訳なかったし、どうしてこんなに良くしてくださるんだろうと少し不思議にも思っていたんです。そういうわけがあったと知って、いろいろ納得できました。こちらのことは気にしないでください。小枝さんが、早く良くなってくれたらいいですね」

 我ながら、優等生な回答。

 こんなことしか言えない自分に、わけもなく腹が立った。

「あの、気を悪くしたら本当に申し訳なかったね。もちろん佐伯くんに落ち度があるわけでも、責めているわけでもないんだよ。むしろ、よくしてくれてほんとに感謝して――」

「わかっています」

 それ以上聞いていられなくなって、僕は椅子から立ち上がった。椅子を引くガタン、という音が店に響き、店内にいるお客が数人、こちらを振り返った。

「じゃあ、僕はこれで。色々、ありがとうございました」

 隣の椅子に置いた学生鞄を掴むと、ぺこりと頭を下げる。そしてまだ何か言いたげな前田さんを残すと、一目散に店を出た。

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